第4章『それぞれの縁〈えにし〉』②改訂版
【最終改訂2022年9月21日】
神隠し事件の真実に気付いた伶人たちがファミレスで夕食をとりながら対策会議を開いているころ、その神隠しの首謀者たちもまた、郊外の隠れ家で夕食をとろうとしていた。
互いに十キロも離れていない場所にいようとは、知るよしも無い。
「今夜は、あり合わせでいいです? それとも、お総菜でも買ってきます?」
朔夜が冷蔵庫をのぞきながら言った。
「いや、あるものでいいよ」
士郎は読書をやめて食器を用意し、朔夜は作り置きの副菜をテーブルに並べてゆく。
家賃四万円の古いアパートで暮らす二人は、新婚夫婦のようにみえるだろう。
実際、隣室の老女は朔夜を「奥さん」と呼んでいる。
「そういえば、初めて食べた君の手料理も筑前煮だったね」
彼好みの濃い味にされた筑前煮をつまみながら、士郎は感慨深げに言った。
「そうですね」と朔夜も顔をほころばせ、ご飯と味噌汁をよそう。
(あれから、もう二年か……)
士郎はふと、朔夜と出逢った日のことを懐った。
そこから更に二年ほどさかのぼったところから、士郎の追想ははじまる──
そのころ、士郎は突然の悲劇に打ちのめされていた。
彼が十五歳のときに離婚して以来、男手一つで仕事と家事を切り盛りしてきた父親が、不意にこの世を去ったのだ。
死因は突発性心不全。
これといった疾患が見あたらない、いわゆる突然死であった。
しばらくは葬儀などに忙殺され、おかげで悲しみにくれる時間もない士郎だったが、やがて喪失感が襲ってきて、何も手につかない日々が続いた。
それでもどうにか気を持ち直し、休んでいた大学に通いはじめた日のこと。
彼宛てに小さな荷物が送られてきた。
差出人は八嶋洋士。
父親が生前、配達日を指定して発送したものらしい。
「……なんだ、これ」
荷物の中身は、梵字らしきものが描かれた名刺大のカードの束と、一枚のDVDだった。
DVDのケースには『士郎へ』と書かれた附箋が貼られ、御巫慶太郎という名と、その人のものであろう電話番号が記されている。
「誰だろう。父さんの同僚かな」
それにしても、どうして息子宛の荷物をわざわざ宅配便で送ったりしたのだろうか?
いぶかしみながらDVDを再生すると、画面に父──洋士の姿があらわれた。
撮影場所は、どこかの竹藪。
時刻は夕方のようで、映像は全体的に赤みを帯びている。
その、どことなく侘しい風景の中で、洋士は語りはじめた。
〈──士郎。お前がこれを観ているということは、俺は死んでいるのだろうな。書斎の机の中に生命保険の証書があるから、受け取ってくれ〉
「父さん……! どうして、こんな遺言みたいなものを!?」
士郎は思わず画面に詰め寄った。
父は自分の死期を悟っていたのか?
突然の過労死ではなかったのか?
そんな疑問が浮かんでくるも、画面の中の父は答えを与えてはくれず、淡々と話を続ける。
〈お前に伝えたいことがある。母さんも知らない秘密だ〉
「秘密?」
〈どうやら、お前にはそれを知る資格があるようだからな。ならば俺には知らせる義務がある。だから今、真実を見せよう〉
洋士は数歩下がって片膝をつき、何をかつぶやきながら地面に触れた。
すると、地面がら湧き出すようにブロンズ色の大きな〝獣〟が出現する。
「なっ!? 犬の……バケモノ?」
士郎は飛び上がらんばかりに驚いた。
〈びっくりしたか? こいつの名は『計都』。護法という人工の怪異──いわばモンスターだ〉
「護法? 怪異? 何を言ってるんだ、父さん」
唇を振るわせ、士郎はそれに目をこらす。
〈信じられないだろうが、これは手品でもCGでもない。現実だ。まずはそれを認識してくれ。俺が、この力を使って何をしていたか──知りたければ、御巫慶太郎という人物を訪ねるといい〉
「御巫、慶太郎……」
士郎はDVDのケースの附箋を剥がし、そこに書かれた名前を見た。
〈士郎。お前にも、たぶん俺と同じような能力──験力があるだろう。だとしても、俺と同じ道を歩んでくれとはいわない。
ただ、その力を間違った目的に使うことだけは、しないでくれよ。ま、そんな心配は要らんと思うがな。
とりあえず……以上だ。じゃ、元気でな〉
たまには母さんにも会ってやれよ、という言葉を最後に、映像は終わった。
士郎はすぐさま御巫慶太郎なる人物に電話をし、彼の家を訪ねる手筈となった。
父の知り合いということから、父と同年代の中年男性を想像していたのだが、
「やぁ。よく来たね」
あらわれたのは、七十代前半とおぼしき男であった。
マオカラーの赤いシャツに黒のスラックスという姿で、白髪頭をオールバックにしている。
顔には年相応の皺が刻まれているが、それは衰えよりも風格を演出していて、枯れた感じはしない。
第一印象は、小粋な老紳士、といったところか。
「君が士郎くんか。なるほど、洋士くんによく似ている」
「あ……あなたは確か、父の葬儀にいらしてましたね」
どこかでこの人物に会ったような気がしていた士郎は、ようやくそのことを思い出した。
「不躾ですが、父とはどういう御関係で?」
「仲間──いや、同志かな」
「同志?」
「立ち話もなんだ。入りたまえ」
慶太郎は士郎をリビングに案内すると、彼にソファーをすすめ、自分は対座についた。
そうして二個のグラスに麦茶を注ぎながら言う。
「さて、何から話そうか。そもそも君は、何を、どこまで、知っているのかな?」
「……まず、これを観てください」
士郎は持参したタブレットPCを取り出し、父の〝遺言〟をみせた。
そのすべてを観た慶太郎は、顎をさすりながら問う。
「これをみて、君はどう思った?」
「信じられない、というのが正直な感想です。はっきり言って混乱してます」
「だろうな。それが普通だ。が、世の中には、あるのだよ──不思議なことが。満ちあふれていると言ってもよいほどに」
散文詩でも朗読するような調子で言い、慶太郎はテラスに目をやった。
つられて士郎もテラスを見る。
(……子犬?)
簡素だが美しい庭に面した窓のそばで、白い動物がくつろいでいた。
レースのカーテン越しの陽を浴びて、気持ちよさそうに昼寝している。
「千花や、おいで」
慶太郎が呼びかけると、その動物はあくびをして起きあがり、トコトコと歩いてきた。
そして慶太郎の膝に飛び乗り、赤い目で士郎を見上げる。
「彼に挨拶を」
慶太郎が言うと、千花と呼ばれた動物はペコリと頭をさげた。
「賢い子ですね」と、士郎は感心する。
「ああ。ただの動物ではないからな、この子は。さぁ、ちゃんと挨拶なさい」
「ちゃんとって、喋ってもええのん?」
「もう喋ってるじゃないか」
「あ、しもたー」
「…………喋った?」
士郎は呆気にとられ、頭を抱えている千花の口元を凝視した。
慶太郎がふざけて腹話術でもしているのかと思ったが、違う。
確かに、この動物が喋っている。
それも九官鳥のような口真似ではなく、高い知性を持っているようにみえる。
「驚いたろう? この子は管狐という怪異──俗に言う妖怪の一種なのだよ」
「妖怪? そんな馬鹿な……」
「だが、事実だ」
断言され、士郎は再び管狐を見つめる。
「きゅきゅっ♪ びっくりした? 慶様の言う通り、うちは管狐なんよ。名前は千花。よろしく」
「あ、ああ……よろしく」
士郎は反射的に挨拶を返し、そんな自分に失笑しながら慶太郎に視線を向けた。
「妖怪なんて言われても、すぐには信じられませんけど……トリックというわけではなさそうですね」
「うむ。そう思える君は素晴らしいな。人は、えてして真実よりも自身の価値観を信じたがるが、君は真実を直視して価値観を修正できるようだ。賢明だよ」
「……まだ修正しきれてはいませんけどね」
「いいさ。君は若い。考える時間は、たっぷりとある」
微笑んで、慶太郎は麦茶をすすった。
もったいぶった言い方をするのは、この人の癖なのだろう。そう思いながら士郎もグラスに手を伸ばす。
「しかし、正しい判断を下すには、正しい情報が必要だろう。そのためにも、まずは私の話を聞いてもらいたい。それで君の疑問の大半は解決するはずだ」
そう告げて、慶太郎は長い話をはじめた。
天地万物の運行をつかさどる『陰陽五行』の摂理のこと。
それに干渉して様々な現象を為す『方術』のこと。
『怪異』と総称される霊的変異生物のこと。
有害な怪異を駆逐する『調伏師』のこと。
その調伏師たちの結社、『七星社』のこと。
そして、士郎の父親が七星社に属する調伏師であったこと──
一時間近くにおよんだ慶太郎の話は、まるで別世界の出来事のようだったが、今しがた管狐なるモノの存在を知った士郎は、すべてを事実として認知した。
もちろん疑問は山のようにあるけれど、とりあえずは、もっとも訊きたいことを訊く。
「──七星社という組織の存在は、家族にさえ軽々しく語ってはならない秘密だ、と言いましたよね。それを僕に明かしたということは……父の跡を継げ、ということですか?」
「それは、君が決めることだよ」
慶太郎は笑みをうかべ、膝の上の千花を撫でながら応えた。
「結論を急ぐ必要は無い。ゆっくり考えるといい。私に言えるのは、君の才能を開花させるための協力は惜しまない、ということだけだ」
「あなたが、僕を調伏師にしてくれると?」
「その手前まで導くことはできるだろう。君が望むのなら、ね」
「……少し、考えさせてください」
そう応える士郎だったが、この時、すでに決心はついていた。
「同じ道を歩んでくれとは言わない」という父の言葉には、同じ道を歩んでくれたら嬉しいという気持ちが隠されているのではないだろうか?
だからこそ、あんな遺言を用意して、秘密を明かしたのだ。
きっと、そうに違いない。
その思いを噛みしめた士郎が再び御巫慶太郎のもとを訪れたのは、翌々日のことであった。
方士の能力は必ずしも遺伝するとは限らないが、多分に遺伝的な要素はある。
事実、士郎は父親譲りの優れた霊験を秘めていた。
わずか一年ほどの鍛錬で、彼は修験の基本的な方術を会得してしまったのである。
士郎の才を見込んで師匠を買って出た慶太郎も、これには舌を巻いた。
鳶が鷹を産んだ、などと言えば草葉の陰の洋士が苦笑いしそうだが、思わずそう褒めたものだ。
それからさらに一年あまりの修行のすえ、士郎が護法童子を扱えるようになると、慶太郎は自身の式神『烏頭女』を伝授し、それをもって免許皆伝とした。
そして、一人前と認めた弟子の門出として、ある〝仕事〟を託したのだった。
◆ ◆ ◆
「──いかにもって感じのところだな」
マイクロバスを降りた士郎は、堅い座席に一時間あまり嵌めこんでいた体をほぐしつつ、のどかな風景を見回した。
辺りには風除けの屋敷林を持つ民家が散在しているばかりで、ビルと呼べる建物は見当たらない。
ひなびた山村といえば美しく聞こえるが、その実はさびれた限界集落。
見るほどに、いかにも怪異が出そうな場所である。
「二時か。今日中に見つかるといいけどな」
士郎は時間を確認し、再び周囲を見回した。
宿をとってある隣町とを結ぶ交通機関は、その町が運営している地域巡回バスだけ。
十五時の最終便までに〝仕事〟が片付かなければ、また往復二時間かけて通うハメになる。
できれば、それは避けたい。
などと思いながら、士郎はショルダーバッグに呼びかける。
「千花、出てきてもいいよ。誰もいないから」
「──着いたん? ふぁ……!」
バッグから顔を出すなり、千花はあくびをした。眠っていたようだ。
「犬神の臭い、するかい?」
「んー……せーへんなぁ」
千花は鼻をヒクつかせて、首を振った。
この近辺に棲みついているらしい〝犬神〟の調査──それが士郎の初仕事なのだった。
犬神とは、文字通り犬の怪異。
四国地方などの伝説では「人に憑く小動物の死霊」などともいわれているが、実際には自然界の神気を浴びて化けた犬──生態系から逸脱した霊的変異生物の一種だ。
その多くは野犬のような暮らしをしていて、ときとして粗暴ではあっても邪悪ではないのだが、まれに瘴気を帯びるものがいて、人に熱病や神経症をもたらすことがある。
そういう個体が〝憑きもの〟という伝説を生んだのだろう。
「犬神さんが潜んでるとしたら、山のほうなんと違うん?」
「だろうね。行ってみよう」
千花の提案にうなずいて、士郎は集落の西にある小高い里山に向かった。
その手前の林に近づいたところで、千花の耳がピンと立つ。
「──待って。何か、いるみたい」
「犬神?」
「んー……違うと思う。犬っぽくない。もっと、ええ匂いやよ。なんか、甘ぁい匂い」
この〝匂い〟とは、霊的な気配のこと。
千花はそれを臭気として感じ取るのである。
「甘い匂い? 方角は分かる?」
「うん。あっち」
千花が示した方角を見ると、古びた木造の民家があった。
荒屋というほどボロくはないものの、かなりの年月を経た風情ではある。
「表札が無いところをみると、空き家かな」
だとすれば、犬神が住処にしている可能性もあろう。
士郎は警戒しつつ呼び鈴を鳴らす。
「ごめんくださーい。……ん?」
返事が無かったので、何気なく玄関の引き戸に手をかけてみると、鍵はかかっていなかった。
士郎は、そっと戸を開ける。
玄関はいかにも古民家といった趣の土間で、奥には囲炉裏をそなえた居間が。
掃除が行き届いているので、どうやら空き家ではないようだ。が、それにしては家具が少なく、家電も炊飯器と冷蔵庫くらいしか見当たらない。
「留守か……」
「──何か、御用ですか?」
「え?」
背後からの声に驚いて振り返ると、長い黒髪を後ろで結んだ若い女性が立っていた。
見たところ二十二、三歳。白いTシャツにデニムのオーバーオールという野良仕事スタイルで、大きなスイカを抱えている。
「あ……勝手に入って、ごめんなさい。返事が無かったもので」
「だからといって、ことわりも無しに上がり込むのは、どうかと思いますけど?」
「……ですよね。すみません」
「ふふっ」
深々と腰を折る青年の姿に、女性は忍び笑いを漏らした。
どうやら激怒しているわけではなさそうだが、はからずも闖入者になってしまった士郎としてはバツが悪く、つい訊かれもしないのに釈明をはじめる。
「あの、このあたりに犬……いや、野犬はいませんか? 僕は、その調査に来たんです」
まさか妖怪退治に来たとは言えず、士郎はとっさに〝犬神〟を〝野犬〟にすり替えた。
女性はわずかに顔を傾け、士郎の反応をうかがうように言う。
「その野犬というのは、もしかして犬神のことですか?」
「どうして、それを? あなたも調伏師なんですか?」
思わぬ質問に戸惑い、士郎は言わずもがなのことを口走ってしまった。
「調伏師?」
「あ、いや……」
問い返されても、取りつくろう言葉が出てこない。
「あなたも、ということは、あなたはその調伏師というものなのですね? 気配から察するに修験の使い手──それもかなりの霊験をお持ちとお見受けしますが」
「…………」
「士郎さん、この女性、人間やないよ」
返事に窮する士郎に、千花がささやいた。
予備知識が無ければ、千花は小型犬にしか見えまい。それがいきなり口を利いたのだから、普通なら驚愕するか唖然とするかだろう。
しかし、女性はそのどちらでもなく、
「あら、管狐?」
楽しげに、ショルダーバッグから顔を出している千花に微笑みかける。
「管狐を知ってるんですか? あなたは、いったい……?」
「どうぞ、あがってください。話は、お茶でも飲みながら」
「え? あ、はい。じゃあ……お邪魔します」
士郎は警戒しながらも誘いを受け、囲炉裏端に腰をおろした。
千花がバッグから出て、あぐらをかいた士郎の前に座る。
女性は麦茶と煎餅を用意すると、士郎の対面に正座し、静かに語りかけてきた。
「風の便りに聞いたことがあります。人知れず荒ぶる怪異を狩る、七星社という組織があると。あなたは、そこから遣わされてきたのでは?」
「……はい」
少しの間を置いて、士郎は認めた。
図星を差されたからには誤魔化しは利かないだろうし、相手の反応も気になる。
「僕は、その七星社からの指示で犬神の調査に来たんです」
「そうですか。でも、その子のことなら、もう心配は要りませんよ。奥山に返しましたから。悪い子ではないんですけど、ときおり鶏小屋を襲ったりするので、ちょっとお仕置きしておきました。これに懲りて、しばらくは大人しくしているでしょう」
「はあ……」
予想外の展開に、士郎は曖昧にうなずくしかなかった。
一目で士郎の霊験を見抜き、犬神にお仕置きをしたという、この女性──どう考えても、ただ者ではない。
けれども調伏師ではないようだし、千花が言うには人間ですらないらしい。
(怪異、なのか?)
そんな士郎の疑念を察してか、女性は穏やかに微笑む。
「気になるようですね、私が何者なのか」
「ええ、まぁ」
「変に怪しまれても嫌ですから、明かしてしまいますね。その子の言う通り、私は人間ではありません。狐です。名は朔夜といいます」
「狐? 狐仙……なんですか?」
にわかには信じられなかった。
嘘ではなさそうだが、どうも実感がわかないのだ。目の前の女性はツリ目でもなければ尻尾があるわけでもなく、頬にヒゲのようなものも見当たらないのだから。
すると、
「お見せしましょうか? 私の本来の姿を」
女性──朔夜は右手で刀印を結び、先端を唇に当てた。
直後、その身が赤い炎に包まれ、濡れたように艶やかな漆黒の狐へと変化する。
「……凄い。本当に狐仙なんですね。なんか感動だな」
惚けたように、士郎は黒い狐を見つめた。
「狐仙に逢うのは初めてで?」
「うん。僕はまだ駆け出しの調伏師で、千花以外の怪異には逢ったことが無いんです。だから犬神に会うのを楽しみにしてたんだけど、まさか狐仙に出会えるなんて……」
「しかも美人さんやしね」
「確かに」
千花の冷やかしに、士郎は笑って応えた。
朔夜は恥ずかしげに目を細めつつ、正座をしている女性の姿に変化する。
ついでに着衣も替え、オフホワイトのスモックとベージュのキュロットという格好になっていた。
束ねていた髪はおろされ、より清楚な雰囲気になっている。
「へぇ、術で着替えることもできるんだ。……!」
感心し、見とれる士郎だったが、不意に前屈みになった朔夜の胸の谷間がもろに目に入ってしまい、慌てて視線をそらした。
それには気付かぬ素振りで、朔夜は士郎のグラスに麦茶をつぎたす。
「ところで、お名前、うかがってもいいですか? 差し支えなければ、ですけど」
「八嶋士郎です。調伏師としての名は、雷火の士郎といいます」
「うちは貴舟御先鳴子百合千花。略して鳴子の千花やよ」
「士郎さんに、千花さん、ですね。あたらめて、よしなに」
朔夜は居住まいをただし、一礼した。
士郎と千花も黙礼を返す。
「さっきも言いましたが、私の名は朔夜──朔の夜と書きます。本当はシュオイエと発音するんですけどね」
「シュオイエ……語感からすると、中国の出身?」
「ええ。もっとも、私が生まれたころはまだ清という名でしたが」
「へぇ……」
怪異が不老といえるほどに長命であることは知っていた士郎だが、それでも驚かずにはいられなかった。
中華文明最後の王朝である清が興ったのは一六三六年。滅亡したのは一九一二年である。
ということは、朔夜は少なくとも百歳以上。
ともすれば四百歳に近いのかもしれない。
「年齢を数えないでくださいね。私も一応、女ですので」
「あ、ごめんなさい。実は今、数えてました」
「まぁ……! でも、正直に言ってくれたことに免じて、許してあげます」
朔夜は口元に手をあて、クスクスと笑う。
そうして、すっかり打ち解けた二人と一匹──いや、一人と二匹と言うべきか──は、とりとめのない雑談に興じた。
やがて縁側から夕陽が射してきて、士郎に帰らなければならない時刻だと気付かせる。
「もう、こんな時間か。名残惜しいけど、そろそろ失礼しなきゃ。図々しく長居しちゃったね」
「いえ、久しぶりに若い人とお話できて、楽しかったです。近くに来ることがありましたら、是非また寄ってくださいね」
「その言葉、鵜呑みにしたいな」
いささかキザにも聞こえることを言って、士郎は腰をあげた。
朔夜も見送るために立ちあがる。
そこで、ふと考え、遠慮がちに申し出た。
「あの、こうして出逢ったのも何かの御縁でしょうし、よければ、夕食、召し上がっていかれませんか? たいしたものは用意できませんが」
「うーん……是非とも、と言いたいけど、帰りのバスがね」
「でしたら、泊まっていかれては?」
「……いいのかな」
嬉しい提案ではあったけれど、士郎は迷った。
怪異とはいえ、相手は女性。気安く泊まってよいものか。
「朝、起きたら、肥溜めの中だった──なんてことにはなりませんから、ご安心を」
「んふっ! 士郎さん こんな美人さんになら化かされてもええかも、って思ってへん?」
「凄いね。君は僕の心が読めるんだ」
逡巡を打ち切ってくれた千花の言葉に、士郎は苦笑した。
見れば朔夜も笑っている。
(なんだか、この人に逢うために来たみたいだな)
そう思えてならなかったのは、士郎だけではなかったようで──
やがて夜が更け、月が南天に差し掛かったころ、士郎と朔夜はどちらからともなく求め合い、結ばれた。
士郎は決して遊び上手ではないし、朔夜も決して尻軽ではない。
そんな二人が出逢って数時間で肌を合わせたのは、朔夜が言ったように、この奇遇に不思議な縁を感じたからだった。
ただの一目惚れだといわれれば、そうかもしれない。が、それも縁というものであろう。
とにもかくにも、こうして二人は巡り逢い、それからを共に過ごすようになったのだった。
「ふむ……存外、君は手が早いのだな」
可憐な狐仙を連れ帰ってきた弟子に、師匠は呆れ顔で言った。
二人がすでに浅からぬ仲であることは一目瞭然で、「まさに〝来つ寝〟か」などと思う慶太郎だったが、さすがに言いはしない。
「まぁ、気持ちはわかるがね。これほどの美女だ。みすみす逃すような男は意気地がない」
ともあれ慶太郎は、この数奇な取り合わせの男女を祝福し、得難い相棒を得た弟子を羨んだ。
そして、これを機に調伏師としての仕事を士郎に任せることにし、御巫家の当主の座を孫娘に譲って湖畔の別宅に移り住んだ。
かねてから取り組んでいた『鬼』の研究に、余生を注ごうというのである。
「──鬼とはな、瘴気に憑かれた人や怪異の成れの果てなのだよ。それは角の生えた恐ろしい姿をしているとは限らない。人の姿をした鬼もいる。猟期的な事件を起こすような人間のなかには、鬼と呼ぶべきモノが少なからず混じっているのだろうな」
そう語る慶太郎の研究のテーマは、日本各地の鬼神伝説と凶悪犯罪との関連性、というものであった。
一方、士郎と朔夜は慶太郎宅に住み込み、調伏師として活動するかたわら彼の研究を手伝うことになった。
書生という言葉はとっくに死語だろうが、そのような生活である。
調伏師の仕事はそう頻繁にあるものではなく、もっぱら古文書の解析などに励む日々が続いたものの、大学で先史考古学を学んでいた士郎にとっては充実した時間だった。
しかし、そうして半年あまりが過ぎたころ。
士郎は、知らないほうが良かったかもしれない事実を知ってしまう。
その日、一人の男が慶太郎を訪ねてきた。
年齢は二十代後半。ポケットだらけのベストにサファリパンツという、どこぞの戦場カメラマンのような風貌で、紙袋とジュラルミンのカメラケースを持っている。
「──おお、仁くんか」
「お久しぶりです、慶さん。これ、甲州ワインです。白がお好きでしたよね」
仁と呼ばれた男は、出迎えた慶太郎に紙袋を差し出した。
「医者からは控えろと言われてるのだがね、酒ばかりはやめられそうにない」
「ほどほどの晩酌なら薬にもなりますよ。──おや? お客さんですか? 珍しい」
リビングに通された仁は、そこにいた男女に目をとめた。
「彼は八嶋士郎。洋士くんの息子だよ。彼女は朔夜。士郎くんのパートナーだ。二人には私の研究を手伝ってもらっている」
「そうですか。君が例の──よろしく」
仁は士郎に名刺を渡した。
名刺にはフリーライターという肩書きが刷られているが、本業は七星社の『識士』──調伏師を補佐する協力者なのだという。
識士の役割は様々あるが、仁は主に怪事、すなわち怪異がらみの事件の調査を請け負っているらしい。
「今夜は、そちらの美女のお酌で一杯……と、いきたいところだけど、車で来ちゃったんだよな。残念だ」
仁はおどけた調子で言うと、慶太郎に目配せをし、テラスのほうに歩いていった。
そのままウッドデッキの広いテラスに出て、ついてきた慶太郎に耳打ちをする。
「人払い、願えますか。彼には聞かせたくない話なので」
「うむ──士郎くん、悪いが、私の机の上にある資料をコピーしてきてくれないかな」
慶太郎は機転を利かせ、士郎を遠ざけた。朔夜が士郎を手伝うためについて行くことも計算済みである。
「彼に聞かせたくないということは、洋士くんの話かね」
「はい。例の樹海の怪事について、気になることを耳にしまして。実は──」
仁は抑えた声で話しはじめた。
だが、セミの大合唱のせいで次第に声が大きくなり、二人の会話はリビングにまで聞こえてしまうのだった。
(……父さんの話?)
頼まれた作業を終えて戻ってきた士郎は、慶太郎と仁の会話に父の名前が出てきたのを聞きとめ、とっさに窓際に隠れた。
朔夜は台所で夕食の準備をはじめている。
「──すると、洋士くんは、その『魔人』とやらの手にかかったというのかね?」
「はい、おそらくは。八嶋さんは何かしらの目的で『魔人』に接触し、その直後に亡くなったんです。心臓発作ということですが、蠱毒の可能性もあるんじゃないかと──」
「巫蠱の術か。事実なら、聞き捨てならんな」
慶太郎は、歯でも痛むかのように顔をしかめた。
蠱毒とは、毒気の強い蛇や虫などを使い魔として差し向け、特定の人間を呪詛する方術である。
その霊的攻撃を受けた者は瘴気に侵されて衰弱し、場合によっては死にいたる。
「洋士くんほどの方士に蠱を仕掛けたとなると、相当の使い手だな。魔人という通り名、伊達ではないということか。何者なのだね?」
「七星社の調伏師だった男のようですが、本名や経歴は不明です」
「不明? もとは調伏師だったのにかね?」
「ええ。九十九少女を介して本殿に照会しても、子細不明としか……。かといって箝口令がしかれているわけでもないようで、あちこちに断片的な情報が落ちてる。妙だと思いませんか?」
「確かに、探ってみろと言わんばかりだな」
「あと、手掛かりというには心許ない情報ですが、魔人は鬼神権現という術を研究していたようです」
「鬼神権現……聞いたことのない方術だな。鬼を喚ぶのか、あるいは自身を鬼とするのか──いずれにせよ禁忌だろうな」
「八嶋さんは、それを知って魔人を諫めようとしたのかもしれませんね。それで返り討ちに──」
そこまで聞いたところで、士郎はたまらずテラスに飛び出した。
「先生! 今の話、本当ですか?」
「……聞いていたのか。まぁ、話さねばならんことだと思ってはいたが」
慶太郎は一瞬、渋面を作ったが、声は落ち着いていた。
「父が魔人の手にかかったというのは、どういうことです? 魔人って、どこの誰なんですか?」
「それを知って、どうする? 仇討ちでもするつもりかね?」
仁に詰め寄る士郎を、慶太郎は静かに制した。
士郎は二の句を失って立ち尽くす。
「復讐など、無益なことだ。君のためにならない」
「でも……!」
「魔人と呼ばれる男は、鬼を操るのか、はたまた鬼そのものなのか……どちらにしても、今の君に太刀打ちできる相手ではなかろう。この件は私に任せておきなさい。いいね?」
慶太郎は噛んで含めるように諭した。
だが、何気なく使った「今の君に」という言い回しが士郎に希望を与えてしまったことに、彼は気付いていなかった。
僕に、もっと力があれば──と、思わせてしまったのである。
「決めたよ。僕は魔人を追う。できれば、この手で調伏したい」
魔人の存在を知ってから半月ほどたった日の夜、士郎は朔夜に打ち明けた。
「でも、その件は任せておくようにと、先生が──」
寝間着がわりのキャミソールに着替える途中だった朔夜は、理想的なプロポーションの上半身をさらしたまま士郎を見つめる。
「先生ばかりに頼ってはいられないよ。これは僕の問題だからね。相手は魔人と呼ばれるほどの方士だ。先生の言う通り、今の僕じゃ勝てないだろう。でも、鬼を使えば勝機はあるかもしれない」
「鬼を使う? まさか──!」
「そう。御巫家の秘本に書かれてる鬼神、皇雅さ。どうやら、そいつは月乃宮湖の中島に封じられてるらしい。解封するには色々と準備が必要だけど、なんとかなりそうだ」
「ですが、どうやって鬼を従えるのです?」
朔夜はキャミソールを着てから尋ねた。
鬼かもしれない敵と戦うために鬼を利用するという発想は、まったく矛盾している。
鬼を意のままに操るのは、その鬼を弊すことより、ずっと難しいに違いないからだ。
「策はあるよ。これを使うんだ」
士郎は机の引き出しから小さな木箱を取り出し、蓋を開けた。
入っているのは、冷たい光沢を放つ漆黒の勾玉。
それを見るなり、朔夜の表情が凍りつく。
「──鵺の爪!?」
その勾玉は、慶太郎が研究材料として秘蔵していたものだった。
とある鬼の骨から削り出されたという伝説つきの代物で、持つ者の神気を瘴気に変換する機能があるのだという。
「瘴気は陰の力──鬼神の存在を支えている負の生命力の源泉だ。そこに直接干渉できれば、鬼を支配できるかもしれない。この『鵺の爪』を使えば、僕にも瘴気を操れる」
「ですが、それは……」
「危険なのは分かってるよ。いたずらに瘴気に触れた者は、身も心も腐り果て、ただ破壊の衝動だけがある『鬼』になってしまうかもしれない。でも、ある程度以上の霊験を持つ方士なら、いくらかは耐えられる。僕は自分の可能性に賭けてみたいんだ」
「本気、なのですね」
「こんな笑えない冗談は言わないよ」
士郎は、すがるように身を寄せてきた朔夜の髪を撫でた。
「朔夜、君はここに残るんだ。そのほうがいい」
「否です」
いつもは素直な朔夜だが、その残酷な提案は即座にはねつけた。
「お供します。どこへでも、どこまでも」
復讐なんてやめてください、とは言えなかった。
言ったところで士郎の決意は揺らぐまい。
ならば、引き留めることよりも、彼のために何ができるのかを考える朔夜なのである。
「鵺の爪を使えば、あなたは瘴気に毒されてしまう。ですが、私の術で、ある程度は浸食を抑えられます。だから……連れて行ってください」
「…………」
士郎はためらった。
自分がやろうとしていることは罪悪に他ならない。
しかも、ともすれば自滅するだけかもしれない、愚かな行為なのだ。
けれど──
「──わかった。ありがとう。……ごめん」
この健気な想い人を切り捨てられるほど、冷徹にはなれなかった。
◆ ◆ ◆
「どうしたんです? さっきから、ずっと考え事をしているようですけど」
「ん? ああ……」
長い追想を中断された士郎は微笑んで、冷めかけた番茶をすすった。
「思い出してたんだ。君と出逢ってからのことを。──朔夜?」
「はい?」
「君に逢えて、本当に良かったよ」
「ふふっ! なんですか? いきなり」
「さぁ、なんだろう。僕にも解らない」
「おかしな人」
笑って、朔夜は急須の茶葉を取り替えようと立ち上がった。
でも、士郎に背を向けた途端、その笑みは消えてしまう。
良かった、という過去形の表現が、まるで別れの言葉のように聞こえて、切なかったから。
それは、もうじき鬼神と対峙することになる彼の決意と不安が言わせた台詞なのか。
そんな気がしてならない朔夜は、満面の笑みを作って振り向き、
「私も幸せですよ。こうして士郎と暮らしていることが、何よりも」
あえて現在進行形で言った。
【第4章・了】
読んでくれている皆様、ありがとうございます。
いよいよ次章が最終章です。
最後まで、よろしくであります。
∠(`^´)




