五
「はは、それは災難だったの」
歩兵衛が笑う。羽生邸の歩兵衛の部屋で、向かい合っているのはもちろん色吉である。
「へえ、それで楢藤様のところでは話を聞けず、逃げ帰って来ちまったんで。面目ねえこってす」
「仕方あるまい。ま、武家の応対としてはむしろそちらが本当だろう。久貫様のところはずいぶんと鷹揚だの。ちと、過ぎるくらいだわ」
歩兵衛は腕を組み、何か考えている様子だ。こういうときは声をかけない方がいいと分かっているので、色吉も黙っている。
「そういえば、久貫様で思い出したが……あれはもう、三十年ほども以前になるか、やはりあの屋敷町で辻斬りが出たことがあった。それを捕まえたのが久貫様の、今は御隠居だが当時の御当主源左衛門様じゃ。あのときも、怪我人は出たが殺された者はいなかった」
「へえ……そんなことが」
「うむ。やはり今回のように中間が三人ほど斬られてな。ただ誰も浅傷で、なかには打撲だけで、出血すらしていない者もあった。しかし辻斬りを捨ておくわけにもいかん。そのころもすでに辻番は年寄りばかりだったから、やはり若い者どもで見廻りをするか……という話が出ているときに、久貫様が生け捕りにしてしまった。ご本人は、散歩の途中にたまたま出会したのだ、などとおっしゃったが、なに、辻斬りの出る界隈をわざわざのんびり散歩する者などおらんだろう。出過ぎた真似とご自分でも考えて、そうおっしゃったと思うが。まあとにかく、峰打ちで倒されなさったのち、捕まえてみたらどうやら町人のようだったからと町奉行に引き渡してくれた。調べてみると、川越あたりから出てきた操り人形師で、名前は、なんといったか、今は思い出せん。操り師といっても、人形浄瑠璃の真似事を両国の芝居小屋でこぢんまりとやっているだけだったがの」
その小屋では、人形浄瑠璃の劇のほんの一部、さわりの部分のみを寸劇のようにやっていただけだが、それなりの人気はあったようだ。その操り師がなぜ辻斬りなどになったか――もっとも、辻斬りといってもその刀は竹光であったことがのちに判ったが――それについては吟味の結果、気触れのためということになった。操り師の演目のなかには、剣の型の演武もあり、そのようなことを黒子として人形を操って毎日やっているうちに自分でも刀を振り回してみたくなったのだ、と裁定され、そのまま牢に留め置かれたが、だんだん言動がおかしくなっていき、大星由良之介の舞を舞ったり勘平の切腹など演じたりして、牢でも持て余しているうちにポックリと死んでしまった。川越には女房と二人の子供を残していたはずであったが、家、田畑は没収となっており、かれらのその後の行方は知れなかった。ために操り師は無縁仏として弔われた。
「へえ……そんなことが」
色吉はさっきも言ったことを繰り返した。
「そのとき後吟味の裏付けを取るために走り廻ったのがかくいうわしでの。まあ、つまらぬ思い出ばなしだな」
「いやとんでもない。面白うござんした」
まもなく、色吉は羽生邸を辞した。