二
「青山百人町らへんに、辻斬りが出たそうなんで」
八丁堀は羽生邸で、岡っ引の色吉が隠居の歩兵衛を相手に話していた。毎日夕刻、金助町の自宅に戻るまえにその日の報告や世間話をするために寄っているのだ。一時期、歩兵衛の跡継ぎ多大有の供として同居していたが、今はまた通いに戻っている。
「ほう」
歩兵衛は興味を引かれたように、目を見張った。しかし表だって見せた反応はそれだけで、あとはきちんと正座して姿勢がよい。
「おとついの夜、本多様のところの中間が斬られました。夜中の四ツ過ぎで、どこぞの中間部屋で博打でもやっての帰りのようで。ただ、斬られたと言っても傷は浅傷で、命に別状はないそうです。自分で何とか這いずり帰ったくらいで」
「ふむ」
「それで、そいつを伝え聞いた奥州左馬之介という侍、本郷に住む浪人者なんですが、自分が退治してくれると昨日の晩わざわざ出かけていきました」
「腕自慢だの」
「仕官の売りに、って色気もあったようですが、残念なことに返り討ちにあいました」
歩兵衛は顔をしかめた。色吉はあわてて言葉をついだ。
「こっちも傷はそれほどでもなく、命は取り留めました。もっとも自分のやられた状況を駆けつけた者になんとか話すと、家に運ばれていきましたが、そのまま熱出して寝込んじまったそうです。女房が看てますが、内職もはかどらず、小さなガキ抱えて大変なようで」
「かえって苦しくなったか。気の毒に」
色吉はうなずくと、
「で、あの辺のお屋敷から中間や陸尺を出して、今晩から五、六人で見廻ることになったそうです」
そのとき部屋の隅に座っていた多大有が立ち上がった。全く揺れない歩き方で、部屋を出ていこうとする。
「旦那、御出陣なさるんで?」
音もなく障子を開け、出て行く。歩兵衛が言う。
「発条じゃ」
多大有は絡繰人形なので毎晩中川土堤の水車小屋に発条を巻きにいく。発条の巻きは、普通は三、四日保つらしいが、用心のためか毎晩出かけているのだ。
「はあ」と色吉はちょっと気を落とした風だ。しかしすぐに歩兵衛に向き直ると、
「しかし辻斬りのほうも用心して出て来ないんじゃありませんかね」
「ふむ。まあ、こんなところでわしらが気をもんでいても詮無いことじゃ。だいいち、あのへんは寺社方のことになろう。町方は手も口も出せまいて」
歩兵衛はそう言って小さく笑った。