十
家のなかのどこかからか、声が聞こえてくる。狭苦しい廊下で耳を澄ましていた色吉が顔色を変えた。
「いけねえ」
女中というのはお紀有のことだろう。なんだか詳しくはよくわからないが、聞いただけからしてもいまにも毒を飲まされるか斬られるかするようだ。
しかしどこに行ったらいいのだろう。この声はいったい、どこから聞こえてくるのか。ちくしょう、こんなことならあの娘、お末を案内に連れてくればよかった。留緒を介抱に、部屋に残してきてしまったのだ。
またどうやら自分はぐるぐると衣坂屋のなかを迷っているようだ。
お末の部屋に戻ろうにも、もう自分がどこから来たのかもわからなかった。だいぶ日も暮れてきたようで、薄暗くなってきている。もうあとすこしで真っ暗になってしまうから、どちらにしろ急いで人のいるところに出なくては。
どこかからか聞こえてくる声が、お紀有に茶を配るように言っている。
「まずい」
お紀有が殺されてしまう。
色吉は焦った。足音をもう気にせず、廊下を小走りに走る。
内儀の八重も丁稚の的助も茶碗を見つめているだけで動かない。
お紀有は茶碗を取り、口に当て、目をつむり、それから一気に飲み干した。茶碗をまえに置き、ふうとひと息ついた。
八重がそんなお紀有の様子を注視していた。それから、的助に顔を向けると、
「丁稚」
と言った。
的助は、「へ、へえ」と返事をして茶碗を持ちあげた。お紀有が苦しんでいないところを見ると、毒は入っていないのだろう。すこし安堵しながら、的助も一気に飲んだ。
八重が目を吊り上げて見ているなか、丁稚は額の汗をぬぐい、娘と同じようにふうとひと息つき、にやりと笑った。
じゃあ毒はこの茶碗か。八重は自分の顔から血の気が音をたてて引くのを聞いた。
しかしにやりとしたはずの丁稚が、すぐに驚愕の表情に変わると、ぱたりと倒れて苦しみ始めた。
八重はそれを見てほっとし、当衛門のほうを向いてひとにらみすると、茶をやはり一気に飲み干した。
それを見て元布重勝は刀をまた下に置いた。
「八重」
当衛門が言った。「おまえが毒を入れたのだな」
「なっ、なにを言うんです」
「とぼけずともよい。毒はよっつの椀のうちふたつに入っていたのであろう。おまえは丁稚が苦しみだしてから安心して飲んだ。なぜか。毒を入れたのがおまえだからだ。女中」
当衛門はお紀有に問いかける。「茶を入れたのはここな内儀であろう。よい、遠慮はいらぬ、正直に申せ」
お紀有はひれ伏した。
「さて、どうするかの。八重がなぜそんなことをしたのかもだいたい事情はわかっておる」
八重の顔からまた血の気が失せた。
「ここにいる末の偽物をまんまとこの店の跡取りにするために仕組んだのだろう」
八重の顔が、こんどはぽかんとなった。「え、末の偽物。なんのことです」
そういって、お末の顔を見直した。
「あれ、わかっちゃってたの」
お末の偽物、お江はさっきから成り行きをにやにやと見守っていたのだが、あっけらかんと言った。
「子供の顔を見まごう親がいるか。八重よ、おまえもとぼけるのをやめるようさきほどから言っておろう」
「違います、ほんとになんのことです、お末が偽物だなんて」
八重はまじまじとお江の顔を見る。「え……そう言われてみれば、たしかになにか違うような……」
「とぼけるでないと申しておるに」
「ほんとうですよ、知りませんよ。だいたいなんであたしがこの娘をお末と入れ替えなけりゃならないんですか。なんの得があるっていうんですか」
「これがおまえの弟の娘、すなわちおまえからしたら姪にあたるからだろうが」
「え、千吉の娘! 千吉に娘なんかいたのかい、本当かい?」
八重はさらにまじまじとお江の顔を見る。穴のあくほど、とはこのことか、というくらいの勢いだ。
「やはり千吉はおまえの弟だったか」
「え」
八重はまた呆けたような顔つきになった。そして余計なことを話してしまったことに気がついた。千吉については、当衛門が鎌をかけていたらしい。
「あら伯母さん、それ、内緒だったんじゃなかったの?」
お江が薄笑いを浮かべながら言った。
「ちょっと、オバさんとか人を呼ぶんじゃないよ! でもあいつ、娘なんか作ってたこと、ずっとあたしに隠してたのか」
「まあ、おっかさんはあたしを産んですぐに死んじまったから、伯母さんに紹介できなくて、それでなんとなく言いそびれたんじゃないかね」
「だからオバさんはおやめったら!」
「しかし、本当に姪のためでないとしたら、ならばなぜ茶に毒を盛ったのだ」
当衛門が言った。
「あたしはお末に、友吉を婿にとってほしかったんですよ」
「しかし末が毒に当たって死ぬことは考えなかったのか」
「そのときは友吉を養子にってことになるでしょう、外から迎えるよりは」
言ってしまってから八重は慌てて口をつぐんだが、あとの祭りとはこのことだった。
「なるほど、しかしなぜそんなに番頭に肩入れをするのかな」
「若い番頭と出来てたんだろ、やるねえ、伯母さん」
「重ね重ね失礼なこと言うんじゃないよ。あれはあたしの息子なんだよ」
「へ」
「ほう」
さすがのお江も目を丸くし、当衛門がそれでなにもかも合点がいったという顔をした。「なるほど、おまえとしては誰かが死んで、騒ぎになったどさくさでこの店を乗っ取るつもりだったんだな」
八重はまた黙り込んだ。
「やいやいやい、待ちやがれい」
そのとき大音声とともに若い男が座敷に飛び込んできた。妙にいい男だが、裾っからげの格好をして十手を手に持っている。
「色吉さん」
女中がうれしそうに言った。
「お紀有ちゃん、おれが来たからにゃあもう大丈夫だ、茶を飲んじゃいけねえ」
紀有が困ったような顔になった。「え、もう飲んじゃったけど」
色吉はうろたえた。「え、おい、大丈夫なのか。すぐ手当てをしねえと」
「大丈夫、あたしのお茶のなかには毒は入ってなかったの」
「そうか、そりゃよかった」
色吉は奥に向きなおった。「おうおうおう、お紀有ちゃんは茶に毒を入れるような娘じゃあねえぞ」
「それももうわかっとるわ」
当衛門が苦い顔で言った。「なにをしに来よったんじゃ、十手持ち」
「え? じゃあ、えーと、そこの娘はこの家の娘じゃねえ、偽モンだぜ」
「それももう露見ちまってるよ」
本人であるお江が言った。「ほんと、なにしに来たの、岡っ引。ああ、伯母さんでもふん縛るかい」
「だからオバさんはやめろと何回言えば――それより、身内をふん縛れとか、ひどいアマだねおまえは」
「ちぇ、身内を殺そうとしたひとに言われたかないね」
「だってそんときゃあんたが千吉の娘だなんて知らないじゃないか」
「いやいやいやそれはおかしい。お末は義理とはいえ娘だろう? ある意味もっとひどいんじゃないかい?」
「えーい黙りやがれ」
色吉が割って入り、さらに座敷の奥に進んだ。「ふん縛るはふん縛るが、まずはおばさんじゃねえ、当主の当衛門でえ」
「だからなんでおまえまでオバさんと呼ぶんじゃないと――え、なんだって?」
八重は驚いた。しかしもっと驚いたのは元布重勝だった。目のまえに色吉が仁王立ちに立ったからだ。
「え? たしかにわたしはつぎの当主に目されているものではございますが、当衛門殿はそちら――」
と、思わずといったかたちで当衛門を示したが、「――いや待たれよ。なぜ当衛門殿を縛るなどと」
「ああこっちか、すまねえ。だいぶ暗いもんで」
色吉は当衛門に向きなおった。
「まったく、頭ばかりでなく目まで悪いのか、小者。で、なぜわしを縛る」
「黙りやがれ。衣坂屋当主、当衛門とは真っ赤な偽り、昔、あの大火事のまえまで大きに世間を騒がした賊の頭目、まさかりの丁次郎、神妙にしやがれ」
「ええっ」
色吉の見得に、周りにいたものも今度は驚かされた。
「なんのことかな」
「おめえ火事のどさくさで盗みにへえり、死んだ当衛門になりすまして、ちゃっかり衣坂屋の主人におさまりやがったな。ひょっとしてどさくさにまぎれて当衛門を殺したんじゃあねえか、てえ疑いもあるがそれは置いとかあ。調べはついてるんでえ、おとなしくお縄につきやがれ」
「ふむ。よく調べたのう、あっぱれ、あっぱれ。だがそんな賊の大親分を縛るのに、おまえまさか一人できたのか?」
「え」
色吉は、背中を冷や汗が伝うのを感じた。いけねえ、つい勢いでこんな羽目になっちまったが、こいつは本来は番所に頼んで大々的に役人をそろえ、御用提灯を盛大に並べた大捕物にするべき案件だ。まずい。
「おう、そうだな。ちょっくら出直してくるわ。またな」
色吉が反対を向いて引きあげようとしたところに、どこから現れたのか男が立ちふさがった。
「そんなわけにいくか」
格好は大店の手代だが、顔は見るからに物騒な五十男が言った。こいつはたしか手代の大吉だ。
色吉が青くなって左右を見渡すと、そこにもひとりづつ、同じような男たちが立っていた。これも手代の、中吉と小吉だった。天井裏にでも潜んでいて、たったいま降りてきたかのようだった。
「どっ、どうする気でい」
三人とも小柄で目立たないが、がっしりとした体格で力も強そうだった。色吉も色男の割には力のあるほうだが、屈強な男の三人がかりでは勝ち目はない。
「さて、どうするかな」
大吉が偽当衛門の丁次郎に目をやる。
「こうなったらもういけねえ。口をふさぐしかないか」
丁次郎が言った。三人の目つきが変わる。
「おう、ずいぶんとおとなしくなったな。さっきの威勢はどこいった。怖くて小便たれそうか、え?」
大吉が言った。
「へへ、兄さんがた、店のほうはいいんで?」
男たちはじりじりと色吉に近づいてくる。
「もう仕舞ったころだろう」
うしろから、丁次郎が答えた。
「あー、そうすると、いろいろと忙しいころあいなんじゃねえですか、あっしなんぞにかまってねえで――」
「なにやらごまかそうとしてやぁがんな。かまわねえ、やっちまいな」
「待たれよ」
それまで唖然としてなりゆきを見ていただけだった元布重勝が口をはさんだ。「当衛門殿、では小者の言うことは本当であるのか。であれば」
「重勝殿」
丁次郎がさえぎって言った。「どうかここは見逃されよ。婚礼の無事済んだのちは、きっと消えてみせましょう」
「いや、だが――」
「ならば」
と、丁次郎はお江に襲いかかり、おそらくふだんから懐に呑んでいたのであろう匕首を細い首に突きつけた。「偽の末ではあるが、この娘を救いたくば、手出しは控えられよ」
重勝は抜きかけた手を止めた。中吉がその刀を、大小ともに取りあげた。色吉はその隙を逃さず、中吉の開けた隙間を抜けるように逃げだした。
「待ちやがれ――うわっ」
小吉が追いかけようとしたその足に、跳びかかったお紀有が組み着いたので襖を破り倒しながら転がった。
色吉は廊下に出てすこし駆け、ひとり追いかけてきた大吉を振り向きざま殴った。拳固が顎に当たり、大吉はへなへなとくずおれた。
どたどたと追いかけてくる足音が聞こえたので、すぐに色吉はまた逃げ始める。廊下の次の角を曲がったら、袋小路だった。
「どうなってやがんだこの屋敷ぁ」
振り返ったところに中吉がいた。大小を抱えたままで、抜いてはいない。こんな狭いところで素人が振り回せるものではないのだ。
狭い廊下のおかげで、むこうからかかってこられるのもひとりだけだ。そうならば、ひとりづつならば、なんとかなる――と思ったところに、中吉の背後に小吉が現れた。その体のまえにお紀有を抱え、匕首を顔にかざしている。
うしろ手に縛られた色吉とお紀有が、中吉と小吉に引っ張られて当主の部屋に戻ると、八重もお江も重勝も縛りあげられていた。
どうも丁次郎の手下らしき店の者が増えているようだ。五人ほど、さっきはいなかった男どもが増えていた。
「色吉さん」
縛られて転がされているなかの一人が言った。留緒だった。「ひどい、ひどいことされたわね」
色吉の顔には殴られたあとがあった。
「留緒ちゃんまでつかまっちまったか」
色吉の心のどこかで、留緒が逃げて助けをよんでくれれば、と期待するところがあったのだが、そううまくはいかないものだ。千吉とお末も連れてこられていたが、千吉だけでなくお末までが縛られ身動き取れなくされていた。色吉とお紀有も床に突き転ばされた。
「どうしやしょうか」
小吉が言った。
「そうさの。なにかあったときの人質としては、この江と千吉ぐらいがいればよかろう。手先とその娘二人は、邪魔になる、片づけるとしようか」
丁次郎が答えたとき、部屋の入り口のほうから低い声がした。「あっしにやらせてくだせえ」
大吉がふらりと入ってきた。
「おお、目覚めたか」
中吉が言うのを無視して、色吉のまえに立つ。
「この餓鬼、よくもやってくれやがったな」
片手で色吉の襟を持ち、もう一方の手で懐から匕首を取りだし、逆手に振りかざした。
「待った。おれをやるのはいい、留緒ちゃんとお紀有ちゃんには手を出さねえでくれ。どうせふたりとも子供だ、なにも害はねえよ」
それから娘二人のほうに精いっぱい顔を向ける。「なっ、おまえら、なんもしゃべらねえよな」
だが二人は泣いてしまって、答えるどころではなかった。
「おうそうか、先にこっちをヤれば、おめえをもっと苦しめることができるってわけだ」
大吉が言い、色吉を突きとばしてお紀有のうしろ襟をつかんで身を起こさせた。色吉のほうを向き、「見てやがれ」と言い、逆手に持った匕首を振りかざす。思い切り喉につきたてるつもりだ。ひぃっという悲鳴が部屋のそこここであがるのを色吉は聞いた。当のお紀有はしかし、ぼんやりとされるがままになっていた。
色吉の目には、その光景がゆっくりと見えた。
大吉の匕首が、紀有の喉に向けて突き進んでいく。
そのとき、どん、という地の底が割れるような大きな音がして、部屋全体が揺れた。雷がすぐ目のまえに落ちたかのようだった。
大吉の匕首の先が、紀有ののどに刺さった、瞬間に消えうせた。
部屋中に埃が立ち込め、一段暗くなったようだ。
「ぐっ」
「ぎゃっ」
という鈍い悲鳴じみた声がいくつか聞こえ、それが収まったときには、色吉はすぐ横に羽生多大有がいることに気がついた。縛られていた手も、いつのまにか自由になっている。
「旦那」
羽生はひとつうなずくと、いや、すくなくとも色吉にはうなずいたように見えたのだが、留緒を抱えあげると、壁を抜けて出ていった。見ると壁に大穴が開いていた。多大有が入ってくるときに開けたようだ。あの大きな音がそうだったのだろう。
色吉は倒れているお紀有に駆けより、上半身を抱え起こした。喉を見る。傷ひとつない。よかった。色吉はほっとした。気絶しているだけだ。
舞っていた埃もだいぶん収まってきていた。色吉が見まわすと、丁次郎とその手下の八人も縛られて転がされていた。




