九
お江と八重が行ってしまったあとも、しばらく襖の陰で様子をうかがったが、もう戻ってくることもないと思えたころに、千吉は額の汗をぬぐって足元に転がっているお末を見おろした。
さっきは様子を見ようとして襖を開けたところ八重が立っていたので腰を抜かすほど驚いた。お江のごまかしもひどいものだったが、あんなごまかし方にひっかかる八重もたいがいなものだ。
強引なお江に引っ張られるようにしてお末の部屋に案内させられ、ここまで来てしまった。
お江が頭巾をとったとき、お末は驚いて声も出ないようだった。呆然とするお末を抑えて縛りあげてしまったが、考えなしにやってしまったことだった。なにしろお江が勝手にずんずん行動しちまうからだ。
お末を見下ろして、千吉は困った。顔も見られてしまった。お末は驚きと怯えとが入り混じった目で自分を見あげている。もう、しょうがない、殺すか。
千吉はかがみこんでお末の喉に手をかけた。その目が拡がるのを見て怖くなり、ふところから手拭いを出して顔を覆い、ふたたび指を喉にまわした。目をつぶって、指先に力をこめる。
留緒と色吉は千吉と頭巾の女に続いて、裏木戸から屋敷に入った。うまく入り込んだつもりだったが、建物のなかに入るなり千吉たちを見失ってしまった。
お紀有も言っていたのだが、やたら見通しの悪い屋敷で、廊下が五つくらいに枝分かれになっているかと思えば、うねうねと折れ曲がった狭い廊下が一本のまま続くだの、襖があるので部屋かなと開けてみても、向こう側に抜けられるだけの鰻の寝床みたいな、物置のようなのになにも置いていない部屋だったり、抜けたけどなにもないから戻ろうと思って確かこの襖だと開けたらぎっしりとがらくたが置いてあってとても通り抜けられそうもなかったりした。
「どうなってるの、このおうち。目が回りそうだよ、色吉さん」
「こいつぁきっと泥棒よけに違いあるまいよ。つまり初めてのやつの目を回すのが目的なんだから、目が回ったってあたりめえだあな」
「それじゃまるであたしが泥棒みたいじゃないか」
「似たようなもんだろが、勝手に入り込んだんだから」
「ちぇ、なんでこんなとこに入り込んじまったんだよ」
「おめえが先にとっとと行っちまったんだろうが」
「怖いよ、色吉さん」
「すまねえ」
留緒がしかし黙っているので色吉は不安になった。
「ごめんよ。こうして謝ってるんだから泣かねえでくんな」
「ぷっ」と、留緒は吹きだした。
「違うよ、怖い、ってのは色吉さんじゃなくて迷子になっちまったことだよ」
「なんでえ、びっくりさせんな」
留緒はまた不安そうな顔に戻り、きょろきょろとあたりを見渡した。曲がりくねった廊下があるだけだからなにも見えないに等しい。
「……それで、これからどうすんの、色吉さん」
「もうこうなったら片っ端から目についた襖をあけちまおう」
片っ端から、などと威勢のいいことを言っても、もちろんそれは言葉の綾というもので、実際には用心して、初めから大きく開けたりはせず、まずはほんの少し開けた隙間から目をのぞかせる。
色吉はそのつもりだった。
ところが留緒は、色吉の言葉をそのまま威勢のいい勢い通りに受け取ったのだった。最初に目についた襖に手をかけると、なんの躊躇もなくがらりと開けたので色吉はうろたえた。
色吉もうろたえたのだが、もっとうろたえたのがいまやお末に馬乗りになってその首を絞めていた千吉だった。なにしろ目のまえの、部屋の奥の壁だと思っていたところがいきなりがらっと開いたと思ったら、妙な娘っ子が目を丸くして凝視してきたのだから。
その向こうに、妙に男前のいい若いやつが目に入って、いけねえ、手先だ、と思ったときにはもう飛びかかってきて、気がついたときには千吉は縛りあげられてしまっていた。
「ねえ、しっかりしてよ、起きてよ、おねえさん」
留緒がお末を揺さぶるが、娘はぴくりとも動かない。首を絞められていたようだったが、とくに手の跡などもついていない。耳を口に近づけてみるが、息をしていないみたいだ。いや、あれ? してる? 動転していてよくわからない。
そのとき縛りあげた男を柱にくくり付けた色吉がやってきた。留緒が今度こそ泣きそうな顔で色吉を見た。
「どうしよう、息してる!」
「してるんならいいじゃねえか。どれ」
色吉は留緒に代わると、お末の肩をがくがくと揺さぶり、ついでぱちんぱちんと頬を張った。
「色吉さん、女の子にそんな乱暴な」
「うう……う……」
留緒は抗議したが、手荒な処置が功を奏したのかお末は目を開いた。
「ああ、よかった」と留緒が言った。
色吉も、「大丈夫かい」とお末に笑いかけた。
お末の瞳にみるみる涙があふれたかと思うと、そのまま色吉に抱きついて泣き始めた。留緒が目を三角にしてにらんだ。
部屋中の皆が的助を見ていた。
「い、いや、違うんで。お茶、お茶をいれたのはおれ、あっし、わたしじゃあないんで。紀有っていう下女なんで。い、いま連れてきやす」
的助は振り返るのが早いか、開けたままだった襖から飛び出した。
「あっ、待て」
誰かが叫ぶのが聞こえた。
的助のついていたことに、廊下を曲がってすぐのところにお紀有が呆然とした顔をして立っていたのだ。
「こいつ、あとをつけてやがったんだな」
的助はお紀有の手を乱暴につかんで旦那の部屋に戻った。
「下手人を連れてきやした。毒が気になってすぐそこで見てやがったんで」
丁稚は娘を床に突き転ばした。
「そうだよ、たしかに丁稚の言う通り、この娘が茶をいれたんだ」
八重が言った。
お紀有は怯えた顔で、自分を見ている者たちを見回した。「ちっ、ちがっ、ちがっ……」涙があふれてきて、うまく話せない。
「こいつ、縛りあげて番所につきだしてやる」
丁稚が言った。
「そうだ、そうしよう、丁稚、縄を持ってきな」
内儀も言った。
「待て」
的助が立ちあがって出ていきかけたとき、当衛門が言った。
「座れ、丁稚」
的助はその場でぺたりと座り、それから慌てて正座に直した。
「女中、丁稚、それから八重」
当主はそれぞれの顔を見て名を呼んだ。「ここにみっつ茶が残っておる。それぞれをおまえたちが飲むがよい」
「ひゅっ」
八重が息を飲んだような吐いたような音を出した。
「えっ」
丁稚も驚いた顔をする。
女中は茫然としたままだ。
「な、なんだってそんな。毒入りの茶なんか飲ませるんですか」
八重が言った。
「ほう、他の茶にも毒が入っているのか。なぜ知っている。おまえが入れたのか」
「し、知りませんよ。そう考えるのがふつうじゃあありませんか」
「ほう、じゃあこれは元布殿を狙ったのではなく、わしらを皆殺しにしようということなのか。いったい誰がそんな物騒なことをもくろむのかのう」
「知りませんよ」
「なにを訊いても知らない。ならば黙っておったらどうかな」
「だ、だって、そんな毒が入っているかもしれない茶なんて、飲みたくないに決まってるじゃありませんか」
八重も、残りみっつのうち、どの茶碗に毒が入っているかわからないのだ。
「入っとるとは限らん。元布殿を狙ったのならもう入っとる心配はあるまい」
「そりゃ、入ってるとは限らないかもしれないけど、入ってないとも限らないじゃないですか」
「もしわしら全員を狙ったものならば、そのものが毒にやられればもう狙われる心配はなくなる。さあ、飲みなさい」
「なに勝手なこと言ってんですか。いやですよ、あたしは関係ないじゃあありませんか。巻き添いにされるのはごめんです。丁稚と女中、あんたたちが飲みな」
「いっ、いや、あっしだってごめんです」
丁稚が大声で言った。それから女中のほうを向いて、「紀有、おまえひとりで飲め」
紀有は怖れのあまりか、無感動にぼんやりと的助を見返すだけだった。
「関係ないということはあるまい。その茶に毒を入れられたのは、おまえたち三人のほかないのだから」
当衛門が言った。
「いえ、あたしは入れられませんよ。入れられたのは、茶を入れたその女中と、茶を運んだ丁稚でしょう」
名指しされた女中が、信じがたいものを見るような目で八重を見た。
「しかし八重、おまえ台所におったのだろう。ならば入れる機会はあったはずだ」
「台所になんかいきませんよ、あたしはお末を迎いにいってたんだから」
「ほう、さっきこの娘が茶を入れたのを見たといったな。それは台所ではなく、末の部屋でのことだったのか?」
ほんとうのところ、八重は「娘が茶を入れたのを見た」とまでは言っていなかったのだが、動転してそこまでは頭が回らなかった。八重は黙ってしまった。なにを言えばいいのかわからなくなったというか、なにを言っても不利になってしまう。
「元布殿」
当衛門が言った。元布重勝は苦しむ供の多門慎之介をずっと介抱していたのだが、それに応えて振り返った。当衛門が続ける。
「元布殿は武士は捨てられたとのことで、今日も腰のものを持っておられぬが、多門殿のはありましょう」
重勝は小さくうなずき、すぐ近くに横たえてあった大小に視線をやった。
「刀は武士の魂、わしが手に取るわけにはいかん。が、元布殿が、士分を捨てられたとはいえ、それを取ったところで多門殿も怒るまい」
重勝は、当主をなにを言いだすのか、といぶかったが、その目の奥になにかを読んだのか、黙ってうなずいた。
当衛門もうなずき返す。「かたじけなくございます。ではその際はよろしく頼みます」
「承知つかまつってござる」
重勝が、初めて声を出して答えた。そして脇にあった大刀を取りあげた。当衛門は八重と丁稚のほうを向いた。
「八重、それから丁稚。おまえたちはわしの命に従わなかいばかりか、その命を勝手に変えて、のみならず他のものに命をくだす、などということをやってのけた。訊くが、おぬしらはいつからそれほど偉くなったのかな」
内儀も丁稚も答えることができない。
「訊いておる。いつからだ、この当衛門をないがしろにするほどに偉くなったのは。特に丁稚、おまえはさら加えてに内儀の命まで変えた。あまつさえ、女中に命じさえした。答えなさい。おまえはいつから、この当主よりも偉くなり、この当衛門の命を差し置いて、女中に命をくだすのだ」
的助は青くなって、はいつくばって震えるだけだった。
「ふむ、よし。では異存がなければ再び言うが、八重、丁稚、女中。ここな茶をそれぞれ飲まれよ。飲まないならば、重勝殿に失礼ながら手を汚していただく。毒の入っていないかもしれない茶を飲むか、問答無用に斬られて死ぬか、好きなほうを選べ。それから念のため言っておくが、間違えたふりをして茶をこぼしたりしても重勝殿にお頼みするのでそのつもりでな。女中」
と、当衛門はお紀有を見た。「茶を配れ」
娘はうなずくと、中腰のまま進み、震える手を抑えて八重と的助のまえに茶碗を置いた。自分のまえにもひとつ置き、座った。
当衛門が三人をゆっくりと見まわす。




