八
鉄瓶に湯が沸いているのを確認し、それから茶碗を用意しはじめても、八重がそのまま台所にいるので、紀有はとまどった。それどころか自分で急須を持ち出している。
「あの、お内儀さん、あとはわたしが……」
「なあに、いいんだよ、大事なお客だからね。わたしが自らいれるとしようよ」
「はあ」
八重は紀有に背を向け、懐から紙袋をふた包み取り出し、手のなかに隠した。体の陰になるようにして紀有には見えないように気を遣う。
鉄瓶から急須へと湯を移すのは紀有に任せ、八重は茶葉を用意した。紀有に言いつけて、茶碗を四つ用意させる。
「全部客用にしてちょうだい」
八重は紀有が当衛門と八重の茶碗を持ってきたのを見てそう言った。「お客がいるときはウチ用のやつじゃなくていいよ」
「すみません」
「それから、元布様の相手をするのは、当衛門と末だからね」
茶をいれながらそう言った。体の陰で、すばやくふたつの茶碗に先ほどの紙包みから、粉末を落とした。
「ではお嬢様を呼びにいきます」
と、紀有がいこうとするのを止めて、「いや、それは私がいこうよ。あんたはこれを奥の間に運んでおくれ。もう番頭が案内したころだろう」
八重は茶碗を並べた盆を残して立ちあがり、さっさと台所を出ていった。
八重にしてみれば、当衛門とお末、あるいは元布重勝とその供、どちらの組み合わせで死のうが構わないのだった。ひょっとすると当衛門と重勝、あるいは重勝とお末、などという組み合わせになってしまうかもしれない。どうなろうが、とりあえずこの婚姻さえつぶしてしまえば、あとのことはそのときだ。
お末の部屋のまえまで来たとき、ちょうど出てきた男とはちあわせた。
「千吉、あんたここで――」
「いけねえ」
千吉は顔色を変えて部屋に戻った。八重の目のまえで襖が閉められる。
「ちょいと」
驚きのあまり少しのあいだ茫然としてしまったが、我にかえって襖を開けようとしたところにガラリ、向こうから開いたのでまた驚いてしまった。
「あら、お母様。どうされましたか」
お末だった。
「いや、いま千吉がなかに入っていったろう」
「え、なにをおっしゃるんですか、千吉なぞここにはいませんよ」
「い、いない、って……たったいま入ってったじゃないか」
「さあ。夢でもご覧になったんじゃあありませんか、お母様ったら」
部屋のなかでは、千吉が屏風の陰に潜んでいたが、わが娘のあまりの大胆さに冷や汗をかいていた。
しかし八重のほうも、お末――と見せかけているが、実は千吉の娘のお江――が断言するものだから自信を失っていた。そしてお末の格好に目がいくと、今度はそちらに気を取られて千吉のことは頭から抜けてしまった。
「あんたその恰好」
お末は派手な振袖を着ていた。
「だってお嫁にいったら着られなくなるでしょう、もう今日が最後の機会なのだから、いいでしょうお母様」
千吉はもっと地味な格好をしろと言ったのだが、お末の着物をあさってこれを見つけ出したお江がどうしてもこれを着ると言い張って聞かなかったため、千吉がお末を匕首でおどかしてお江の着付けを手伝わせたのだ。本物のお末は、猿ぐつわをかまされたうえ縛りあげられて、千吉の足元に転がっていた。
「さあお母様、参りましょう」
「ああ、そうだね、お待ちかねだろうからね」
すっかり気圧されて、お末がなぜ八重が部屋に来た理由を承知しているのか、という疑問も浮かばないようだ。いや、そうではなく、いつもとかなり雰囲気の違うお末に、いったいなにが起こったのかと考えていたため、他のことに頭が回らないのだった。
さすがの八重も、お末が他の娘の入れ替わりだとは思いつかなかった。やはり婿を迎える、ということで浮かれているのかしら、などと想像していた。
奥の部屋のまえで、番頭がなかに声をかけた。
「旦那様、お客様をお連れしました」
「入りなさい」なかから声がする。
番頭が襖を開けると、当衛門は、番頭の友吉の顔を見てなにか思い出したように「はて、女中を迎えにやったはずだが」と言った。
「途中で女中に会いまして、女中には茶をいれにやらせました。それでわたしがお客様の迎えに」
部屋には当衛門がひとり、座っているだけだった。
「そうか、それは気の利くこと、ご苦労……と言いたいところだが、おまえにそんなことは頼んどらん。帳場はどうした。とっとと持ち場に戻れ」
「ははっ、いや、その、帳場はちゃんとほかのものに任せてありますので……」
「そうか、ならばそのままそのものに帳場は任せて、おまえは暇をとるか」
「い、いえっ、失礼しました、失礼します」
あわてて頭をさげ、友吉はそそくさと立ち去った。当衛門は元布家の次男とその供のほうに向きなおると、
「これはお見苦しいところをお見せしました。さあどうぞ、お入りになってください」
と言った。
まったく、面白くない。
まだお末は来ていないようだったが、すぐに呼ばれるに違いない。自分がいたところで見合いがどうなるわけでもなかったが、友助はなんとなくぐずぐずしてしまった。
確かに当衛門の言うことは理屈だが、こちとら長年を勤めあげた番頭なのだ、あんな、猫でも追うように追っ払わなくともよさそうなものだろうに。
ああ、腹の立つ。
衣坂屋ほどの大店の主人としては、当然の態度かもしれない。かもしれないが、ああまで言うということは、つまりあれは、自分のことを跡取りとしてまったく眼中に置いていないということだ。
思いだすだに腹が立つ。
つまり八重といろいろ相談してきたのは、まったくの無駄だったということか。身を粉にして、これまで衣坂屋に仕えてきたのはいったいなんのためだったのか。
考えるほど、どんどん腹が立ってくる。
そして帳場に戻ると、丁稚が格子のなかで机に向かって座っていた。
「おまえ、なかに入るなと言ったろう」
頭に血がのぼって、拳固が出ていた。
「あっ、すんま――」
的助は謝ろうとしたようだったが、その言葉はごつんという鈍い音とともに途絶えた。
こんなやつに、こんなうすのろに、おれの代わりがつとまるものか。
「ほれ、とっとと出ろ。自分の仕事をしろ」
今度は友吉が丁稚を追い払う。
くそっ、面白くねえ。
ちょっと帳場のなかに入っただけじゃないか。だいたい自分が持ち場を離れておいて、ひとに見ていろと言うから見ていてやったのに、それで退屈だったからちょっとなかに入ってみただけだってのに、ぶつことはないだろう。だいたいおれは紀有のあのバカアマがまた怠けようとしているのを注意してやろうと思っていたのに、それをやめてまで言うことを聞いてやった、ってのに、ぶつことはないだろう。
ああ、面白くねえ。
そんなことを考えながらさっき紀有が消えたほうに向かっていくと、ちょうどお紀有が茶を運んでいるところに出くわした。
「おまえ、なにやってるんだよ」
「お内儀さんのお言いつけで、旦那様のところにお茶を持っていくところです」
お紀有は嫌な気持ちが表情に出ないように努力したようだったが、どうしても顔が引きつるのを抑えることはできなかったようだ。それがまた的助の怒りを誘った。
「また怠けているんだろう」
「どうしてこれが怠けることになるんですか。早く持っていかないと叱られます。どいてください」
「なんだと、生意気な」
的助はかっとなって拳を振りあげ、女中は身をすくめた。感心なことに盆はしっかりと持ち、茶をこぼすことはなかった。頭を殴ろうとして、的助はいいことを思いついた。
いつまでたっても拳が降ってこないので、お紀有はつぶっていた目を開けた。丁稚がにやにやと笑っていた。
「お茶、おれが運んでやるよ」
「でも、わたしが頼まれたんです」
「いいから寄こせよ、生意気ゆうんじゃねえ」
的助が手を伸ばして紀有の持っている盆をつかむ。こぼしてしまっては大変なので、お紀有はおとなしく手を離した。
「おまえはほら、怠けてないで店に戻るんだぞ」
そう言い残して丁稚は奥の部屋に向かった。
これを旦那の当衛門のところに持っていけば、気の利くやつとして認められるに違いない。そうしたら番頭の友吉の横暴を旦那に訴えてやろう。そうしたら旦那は怒って、番頭を馘首にして気の利く男であるおれを番頭に引きあげてくれるだろう。そうしたらいつもおれを馬鹿にしている手代の大吉と中吉と小吉を抜かして偉くなる、ざまあみろだ。あいつらも馘首にしてやる。
想像をめぐらすうちに顔がほころんでくる。的助はにやにやと笑いながら旦那の奥座敷まできた。座敷のまえにはお内儀さんと、お末お嬢さんが座っていて、ちょうどなかに声をかけるところだった。
「失礼いたします」
八重が言って襖を開ける。的助もそのうしろで腰を落とした。
「なんだ、おまえなぞ呼んどらんぞ」
「あらひどい。お末をお連れしたんですよ」
「末も呼んどらん」
「え……」
「元布殿にはもう店のいろいろについて覚えてもらおうとしておる。今日は仕事の話だ。見合いは明日だ。つまり、末に用があるのは明日だ」
それからじろりとお末に目をやると、「なんだ、そんな格好をしおって。年を考えなさい」
八重は助けでも求めるようにきょろきょろとあたりを見渡し、そのとき初めて茶の盆を持って座っている的助に気がついた。
「ま、まあいいじゃありませんか。それならとりあえずいっしょにお茶でもいただいて、それからお末は引きあげたらよろしいでしょう」
お末もうなずいた。「そうよ、そうするわ。いいでしょう、お父さま」
当衛門はかすかに眉をひそめた。しかし、そのとき元布重勝が声をかけた。
「やあこれはかたじけない。ちょうど喉もかわいておったところです。それに、ここまできてお嬢さんにあいさつもしないのも、なにか物足りないと思っていたのです」
取りなすように、にこにこと言う。
「重勝殿、はしたのうござるよ」と、供のものが言う。
「まあ、いいではないか」
この機を逃さず、八重とお末は部屋に入りこみ、八重が「ほら、早く」と的助を急き立てた。丁稚はあたふたと重勝、その供、お末と八重のまえに茶を置いた。
「ばか、あたしじゃないよ、気が利かないね」
八重は自分のまえの茶を当衛門のまえに置きなおした。
「いただきます」
重勝が茶碗を持ちあげ飲もうとしたところを、供の慎之介が止めた。
「お待ちを。いつも申しておるはずですが」
と言って、自分のまえの茶を一気にあおった。
「これ、そんな失礼な」
供は毒見役を兼ねているのだが、重勝としては婿入り先を疑うというのは思いのほかだったのだ。当衛門のまえでいささかばつの悪さを感じてしまう。
しかしすぐに、慎之介が苦しみ始めた。
「ううっ」
立ちあがり、なにかを求めるように奥のほうへ行こうとして、ばたりと倒れた。
周りの人間はそれを唖然と見ていただけだった。




