六
店の人間がお客のあいだを縫いながら忙しく立ち働くなか、お内儀さんと番頭さんが帳場格子のうしろで頭を寄せてひそひそと話している。なんだろう、気になるな。不思議なものだ。ちょっと前、いや、昨日までは興味を持つどころかなるべく係りあいになりたくない、と思っていたのに。
「こんな昼間に、こんな人目のあるとこで、まずいんじゃねえか、いや、まずいんじゃないですかお内儀さん」
「夜中にこそこそやって誰かに見られて怪しまれるよりゃこのほうがいいのさ。周りは店の話をしてると思ってくれるだろ」
「そんなもんか……ですかね」
「それに、時間がないんだよ。もう明日には見合いだなんて言ってんだから」
「どうするんで?」
「あんたが考えなよ、まったく、頼りにならないったら。これじゃたとえ仮に婿に入れたとしても先が思いやられるよ」
「たとえ、仮に、したとしても、ってまるで無理ってことじゃねえか……ですか」
「無理じゃないってんなら、考えなよ。なんか思いついたかい」
「いえ……急にそんなこと言われましても……手前といたしましても……」
「まったく」八重は言った。それからすぐににやりと笑った。「あの娘がまた見てるよ」
「えっ」
「あ、馬鹿、振り返るんじゃないよ。あーあ、ほら、向こうに行っちまった。ドジだね、ホントに」
「馬鹿だのドジだの、ひでえじゃねえ……じゃございませんか」
ああ、まずいことをしてしまった。つい足を止めてお内儀さんと番頭さんを見てしまった。番頭さんが振り向いたのであわててまた歩きだしたのだ。わたしが聞き耳を立てているとでも思っただろうか? でも、ほんのちょっとの間だったし、ずいぶんと離れていたし、ふたりとも声をひそめていたので話の中身はまったくわからなかった。むこうだってわたしに話を聞かれたとは思ってないだろう、うん。そう自分に言い聞かせて、お紀有は仕事に戻った。
「たのもう」
衣坂屋の店先で声をあげたのは商人の格好をした武家だった。服装と髷が合っていない。
「こら慎さん、そんな大声をおあげでないよ、みな驚かれるだろう」
連れの商人らしき若い男が言った。こちらは髱をゆったりと庶民風に、装に合った髪型だ。
「これは申し訳なくござる」
「すいやせんとでもお言いなさい」
「失礼つかまつった。すいやせんでござる」
「どうもちぐはぐだね。まあいいか」
手の空いていた紀有がまえに出た。「本日はお日柄もよく、ようこそ衣坂屋にお越しくださいました。なにをご用意いたしましょうか」手をついて頭をさげる。
「元布重勝が参りましたとご主人の当衛門殿にお伝えください」
若い男がていねいに頭をさげ返してきた。なんと旦那様に。これは偉い人に違いない。紀有は緊張したが、もう一度頭をさげると、「承知しました。少しお待ちください」と言って立ちあがり、奥へと行った。
若い男が名乗るのを聞いてぎょっとしたものが二人いた。
番頭の友吉は帳場にいたのだが、あたりを見回しても大吉も中吉も小吉もいない。
「おい、的助。ここにいてくれ」
仕方がないので通りかかった丁稚に声をかけた。
「へえ」
的助が鈍重な動きで格子のうしろに廻ろうとするのを、「なかには入るなよ」と釘を刺し、足早に奥に消えた。
下男の千吉はふらふらと、しかし用事でもあるかのように店を出ていった。
的助は紀有が奥へと行くのを見て、また怠けようとしていやがると追いかけようとしていたところだった。またきちんとしつけてやらねば。
そこに友吉から帳場にいるよう言われてしまった。それも不満だったのに、帳場格子の外で見張ってろということらしい。ち、おもしろくねえ。それもこれも紀有が奥へ怠けに行ったからだ。きちんと説教してやらねばなるまい。
友吉は紀有を追うように部屋を出たところで、八重にでくわした。
「お内儀さん、元布の婿ってのが来たんですが」
笑いかけていた八重の表情が凍りついた。
「明日じゃなかったのかい」
ふたりはとりあえず近くの開いている商談部屋へと入る。
「お内儀さんがそう言ったんじゃありませんか」
「あたしは当衛門から聞いたんだよ。それで、どうするんだい?」
「どうしましょう」
「情けない声を出すんじゃないよ」
八重と友吉が廊下に戻ったところに、向こうから紀有が歩いてきた。
「女中」
「はい」
「どこへ行くんだい」
「あの、旦那様のところにご案内するので、お客様をお迎えに」
あいては武家だが自らは迎えにいかない。いまの元布家と衣坂屋の力関係をあらわしているのだろう。
「ああ、それは番頭がやるよ。おまえはわたしと来て、お茶を入れるのを手伝っておくれでないかい」
「え、でも」
紀有がとまどっているあいだに友吉はさっさと大部屋に入り、ずっとむこうの、おもての通りに沿って広がるひろびろとした土間に立っている元布とその供のところに向かっていった。
「ぼんやりしてないで早くおいで」
台所のほうに歩いていく八重に、紀有は慌てて従った。
千吉は長屋に駆け込むと、縫いものをしていたお江に声をかけた。
「たいへんだ、武家がもう来やがった」
「明日じゃなかったの?」
「もう遅い。もうお嬢さんと婿は会っちまった、どうしよう」
「おとっつぁんもその場にいたのかい、おっと、お父さま」
「しゃれてる場合か。いや、武家の元布ってのが訪ねてきたんで急いで飛び出してきた」
「じゃあまだ会っちまったとはかぎらないだろ」
お江は手にしていた縫いものや針を放り投げるように立ちあがり、草履をつっかけた。「まずは行ってみようよ」
しかしすぐに長屋に戻り、たたんであった袖頭巾をかぶり、上掛けを羽織ると、また出ていった。その間、千吉はただ見ていただけだったが、お江がおもてを駆けだすと、慌てて追いかける。
「おいおい、お嬢様が駆け足になるなんてこたないぜ」
千吉はお江に追いつき、並んで大股に歩きだした。
「もう、それどころじゃないだ――でしょう、お父さま」
「まだ陽があるうちに目立つだろう」
日本橋の目抜き通りを行き交う人々は変なふたり連れなど気にも留めないようすですれ違い、素知らぬ顔で追い越し追い越されしていくが、ほんとのところ興味津々で見ていることを千吉は知っている。
「せめて駕籠でもつかまえよう」
「そんなひまがあるかね、ていうより、探してる間に歩いたほうが早いよ、ほらもう着いた」
お江の言う通り、角店の立派な店構え、衣坂屋はもう目と鼻の先だった。
「いけねえ、どうしたもんか」
千吉が立ち止まった。店を見て、自分が打つ手をまるで持っていないことに改めて気がついたのだ。
「止まるとまた目立つよ、歩いとくれ――ておくんなさい、お父さま」
今度はふたりとも、ゆっくりと少しづつ、ほとんどすり足で進みはじめた。
「しかしなあ、どうしたもんだ、このまんま店に乗り込むわけにもいくまいよ」
「いっそのこと乗り込んでおしまいになりますのはどうですの、お父さま」
「無理に上品に話そうとして言いかたがわからねえもんだからなに言ってんだかわからなくなってるじゃねえか」
「あら、上品に話せ、っておっしゃったのはお父さまじゃありませんか」
「わけのわからねえことを言えたあ言ってねえ」
「ひどいおすえ。なんて言ってる場合じゃあないでやしょう、どうしやすんですかお父さま」
「おまえは何者だよ。いやそれどころじゃねえ、どうしたもんだろうな」
「もう、頼りにおなりにならないでおなりだねえ」
そう言うとお江はすたすたと衣坂屋のほうに足を速めた。
「だからおまえは何者なんだよ」
千吉はばたばたと江のあとについていった。




