二
お紀有がお使いで通りを歩いていると、留緒に声をかけられた。家が近かったので小さい頃に――といっても今でも子供ではあるが――よく遊んだ子だ。今では留緒の方も家を出て住み込みで家働きなどやっているはずだった。
「お紀有ちゃんは衣坂屋さんで働いてるんだったよねえ。大店だと大変でしょう」
「大店っていうほどでもないよ。番頭さんや丁稚さん、全部合わせて五十人くらいだから」
「大きい大きい、じゅうぶんじゅうぶん」
留緒は目をくりくりさせる。二人とも忙しいから歩きながら話している。
「留緒ちゃんは普通のおうちにいってるの?」
留緒には、言いづらいということもあって、「お」を昔から誰もつけない。
「うん、八丁堀のお役人さんのとこだけど、家のことと、小さい子がいるから子守りやってる」
「なんかおっかなそう。そっちの方が大変そうだよ」
「そんなことないよ。みんないい人ばかりだから」
いろいろと話をしながら、気がついたらもう店は目の前だった。
「じゃあここで、またね」
留緒はもときたほうに、ほとんど駆けるように戻っていった。ああ、わざわざつきあってくれたのか、留緒だって決して暇というわけではないだろうに。なんとなく沈みがちだったお紀有は、久しぶりに会った友達に感謝した。
「遅いぜ。たかが浅草までの使いにどんだけかかってるんだよ」
店に入るとさっそく若衆の的助に嫌味を言われる。年は五つほどうえ、下っ端のなかでは古いほうで、なにかと目上づらをして説教風を吹かせてくるのだ。
「ごめんなさい、精いっぱい急いだのですが」
お紀有はまえに手をそろえて頭をさげた。確かに今日は留緒と話して歩みが遅くなったということもあるが、いつも言いがかりに近いような難癖にもお紀有は謝ってしまう。
「ちっ、嘘つけ。なんか友達だかなんだか、女とじゃれあってとろとろ歩ってやがったじゃないか」
息が詰まった。めんどうなことになった、まずいのに見られてしまったものだ。
「ご、ごめんなさい」
お紀有は再び頭をさげた。さっきよりも深いお辞儀だ。
「まったくこっちは猫の手も借りたいほど目の回る忙しさだってのに、女の子ときたら気楽なもんだぜ。こんなことになるから、お使いだったらおいらに行かさしてくれりゃいいのに」
そんなに忙しいならこんなところでぐちぐちと説教などしていないで働けばいいのに、とは思うがもちろん口には出さない。
店のなかは五十坪はあろうかというひろびろとした畳敷きで、それでも客とそのあいだでばたばたと立ち働く丁稚手代仲働き女中であふれかえらんばかりだったが、お紀有と的助はその片隅で話しているのだった。お紀有はまだ土間に立っていて、座敷に座った的助からはやや見おろされる格好になっていた。
しかしさっきの留緒ちゃん、ちょっと見ないだけだったのにずいぶんとかわいくなっていた、まあもう年頃だから。お紀有は自分よりひとつ下の留緒に差をつけられたのでは、と心配になった。あたしもよそから見たら、ちゃんとかわいいだろうか。
ごつん、と鈍い音がした。
「痛っ」
「ぼけっとしゃあがって、ちゃんと聞け」
的助がお紀有の頭にげんこつを振りおろしたのだ。
「ごめんなさい」
お紀有はまた頭をさげた。意地悪でくどいうえにやたらに手をあげるのでこの丁稚のことは苦手だった。
「まあ、女の子に乱暴はおよしなさい」
おっとりとしているが、しかし芯の強い声が言った。お紀有と的助がそろって顔を向けると、お末が土間に立っていた。
「ああ、すいやせん、お嬢様」
的助は手をついてお末に謝る形だ。なにしろお末は衣坂屋の主人、当衛門の一人娘なのだ。的助は顔を真っ赤にしながら立ちあがると、人でごったがえすなかへばたばたと溶け込んでしまった。
「わたしじゃあなくてお紀有ちゃんに謝らなくっちゃあ、なのにねえ」
お末がのんびりと言ったが、もちろんとっくに的助はいない。
「はあ、いえ、いいんです」
お紀有とお末は顔を見合わせ、笑った。
店の奥の座敷で友吉が算盤をはじいているところに、襖を開けて八重が入ってきた。友吉は手を止めて顔をあげた。
「おっ……お内儀さん、昼間っから、まずいんじゃ……ですよ」
「ちぇ、店のお内儀と番頭が話してまずいことがあるもんかえ。なにも悪だくみをしようってんじゃあるまいし」
「いや……」
このところ悪だくみ以外に話したことなど記憶にないのだが。そんな友吉の内心を知ってか知らずか、八重はにんまりと笑う。
「お末のほうはどうなんだい」
さすがに声を落とす。
「ああ……それが……いろいろと……」
歯切れの悪い番頭の様子、八重はあきらめ顔で首を左右に振った。
「まったく頼りにならないこと、落とし紙も真っ青だね」
「いやあたくしもやっと番頭まで登りつめて、さあこれから本腰をいれてお嬢様を口説こうと思っていた矢先にあんな話で出端をくじかれて――」
「遅いんだよ、もっと早くに粉をかけときゃ、ってもういまさら言ってもしょうがないけどね」
「ところで昨日の晩の、あの仲働きの娘はどうです」
ため息をつく八重におもねるように友吉が言った。
「あれはまあ心配はいらないだろうよ。小遣いをやってみたけど、おどおどと、なんだかこっちを怖がってるみたいだからね。なにか不審に思ったとしても、そいつを言い立てるような度胸なんざないだろう。それにまあ、いざとなりゃああんな小娘の一人や二人、どうとでもなろうよ」
八重が薄笑いをし、友吉はとまどいながら追従笑いをする。
留緒が八丁堀の羽生邸に帰ってきたところに、ちょうど入れ替わりに色吉が裏木戸から出てきた。
「助かったぜ、留緒ちゃん。理縫ちゃんを頼む」
なるほど色吉の背中に理縫がへばりついていた。ご隠居を訪ねたところを捕まったようだ。
「おんまさん、ちゃんとおんまさんらしく走って」
へいへい、と言いながら色吉は四つん這いになった。留緒が両手を広げると、理縫は色吉の背中に立ちあがり、留緒に抱きついた。
「ありがとよ、留緒ちゃん」
「こっちこそ、面倒かけちゃったね、ありがとう」
色吉が立ちあがって去っていこうとするその背中に、留緒は声をかける。
「色吉さん、急ぎ?」
「おう、そういうわけでもねえが、こう、町をぶらっとながそうかとよ……」
要するに理縫から逃げ出したいのだ。
「ほんのちょっとだけ、話を聞いとくんなよ」
「ちょとだけ、ちいとくよ」
横から理縫が答えたので、留緒と色吉は顔を見合わせて笑ってしまった。
「おっとと、ごめんなさいよ」
廊下でお紀有とぶつかりそうになり、中年の男が言った。店で出たごみを抱えている。四十を過ぎているのに店の仕事もできず、下男として雑用をこなしている千吉だった。
「いえ、こっちこそごめんなさい」
お紀有も頭をさげる。今日はやたらに頭をさげている気がする。留緒ちゃんとお話ができた見返りを払っているのかもしれない。
千吉はそのまま、裏口のほうへ歩いていった。周囲からはぼんやりとみなされていて、しょっちゅうどじをやらかすのに、なぜかあの厳しいお内儀さんに気に入られていて馘首にもならずのらりくらりと過ごしているのだった。
衣坂屋の裏側の猫道に、千吉が出てきた。
「おとっつぁん」
若い女の声が言った。千吉は驚いた顔をした。
「お江……おめえ、こんな明るいうちに出歩いちゃあだめじゃあねえか」
小声だが、刺すように言った。
「もうじゅうぶん暗いよ」
確かに夕刻、誰そ彼どきと呼ばれるころで、人の区別がつかない時刻だ。お江はそれでも、袖頭巾で顔を隠すような格好をしていた。
「あたしもお嬢さん、てのをいっぺんでも見ておきたくてね」
「見なくていい。おめえは見ねえほうがいい。下手すりゃ情が移っちまうかもしれねえからな。そんなことになったらやっかいだ」
「こりゃ驚いた。おとっつぁんがあたしをそんな玉だと思ってたとはねえ」
「おとっつぁんはよせ。しかしそれもそうか。おれもぼんやり過ごしすぎて焼きが回っちまったかな」
「しっかりしとくんなよ、まだ惚けるにゃ間があるだろう。てか、惚けるんならひと仕事終えてから安心して惚けとくんな」
お江がけらけらと笑うのを、千吉はいやな顔をして見た。
「まったく、あの年寄り、突然あんなこと言いだすなんて、ほんとなに考えているんだかねえ」
笑いをひっこめると八重が言った。
おとといの夜のことである。そろそろ寝床につこうかというころに、当衛門が唐突に言った。
「お末に婿を取ろうと思う」
「ああ、そうですねえ。お末ちゃんももう十九ですから遅いくらいですものね。あら、お末ちゃんなんてもう失礼かしら、お末さんと呼びましょうか」
「元布様のところの次男殿、重勝様とまとまりそうだ」
当衛門はいつも起きているのだか寝ているのだかわからない、閉じたような眼でさらりと言った。
「えっ、うちの、友吉じゃあないんですか」
八重は狼狽した。当衛門はうなずいた。
「そんな、なんでわざわざそんな外から……しかも商売人でもない、お武家様のとこからなんて。いえ、元布様をけなしてるわけじゃなくて、もったいないと思って、あちらがですよ」
「重勝殿は元布様の考えで幼少より武より文のほうに力を入れてなさったそうだ。読み書き算盤に不安はないし、なによりも真面目で正直だ」
早口にまくしたてる八重とは反対に、ゆっくりとした口調で当衛門が答える。
「だからってそんな、そもおひとりでお決めになることはないじゃありませんか、そりゃわたしは後添いで、お末ちゃんの本当の母親ではないかもしれませんよ。でももうこちらにお世話になって七年、わたしもお末ちゃんを本当の娘と思って育ててきました。相談くらいしてくれたってよさそうなものじゃあありませんか」
八重は話しているうちに悔しくなったのか、目に涙を浮かべている。「それにうちの友吉だって真面目だし、もう少し砕けたっていいって周りからも言われるくらい堅物で」
「いや、番頭が不真面目だというつもりで言ったのではない」
「そうだ、それにお末ちゃんは今年厄じゃないですか。来年まで待っては――」
「おまえもそろそろ迷信など信じるのはなしにしたらどうだ」
当衛門がじろりと八重を見た。この衣坂屋主人は商売人のくせに迷信や験かつぎなどをひどく嫌っていたのだ。そして長くなりそうな八重のしゃべりを打ち切るように、おっとりと、しかし断固として言った。「もう決めたのだ」
八重は着物で顔をおおった。そとからは涙を隠すためのように見えたが、本当は怒りに燃える眼を隠すためであった。
「まったく、どうにもならなくなったらいよいよ最後の手段に出るとするかね」
八重は懐から薬包をふた包み取り出した。
「なんですかいそれは」
「あんたは知らなくていいんだよ。やっとふたっつ手に入れたんだ。さて、これをいつ使うか、だね」
お末は奥の当衛門の座敷の手前で膝をついた。
「お末でございます」
「おはいり」
襖を開けて部屋ににじり入ると、当衛門は姿勢よく座っていた。お末にとってはいつもの光景だった。丁寧に襖を閉め、あらためて父親に向きあう。
「お呼びでしょうか」
「うむ。婿取りのはなしじゃ」
「……はい」
お末は驚いた表情をしかかったが、かすかに目を見開いたくらいに踏みとどまった。仮にお末をよく知らない誰かがそばで見ていたとしても、その変化には気のつかない程度だった。しかしもちろん当衛門は気がついた。気がついたが、あえてそれに触れることはない。
「相手は元布殿のご次男、重勝殿。あさって見合いをし、それから五日で結納という日取りにきまった」
さすがに今度はお末の顔に驚きが浮かんだ。
「どうした」
当衛門が言った。
「いえ」
お末は言い、少しのあいだ黙ったが、意を決して続けた。「ずいぶんと急だったものですから」
「うむ。善は急げだ。それにこんなものに時間をかけても仕方があるまい」
「……はい」
「おまえももう十九、ひと昔前なら大年増と呼ばれた年だ。急どころか、のんびりしすぎたとお宮に叱られるわ」
お宮とは当衛門の前妻で、お末の実の母である。十八年前の火事で亡くなった。赤子だったお末にはお宮の記憶がまったくなかった。お末には三人の兄がいたというが、かれらもみんな同じ火事で死んだ。もちろんこちらも全然覚えていない。
「召し物など新たに必要であればすぐに仕立てなさい。お民をおまえにつけてやるから、なんでもいいつけなさい」
お民はいまは衣坂屋の女中であるが、もとはお末の乳母であった。「さがってよいぞ」
お末は黙って頭をさげ、退出した。急な話にやや自失気味であったのかもしれない。




