九
「久保江藩の桐生松之進てえお方によると、跡継ぎ問題の要するによくある御家騒動というやつのようで」
羽生邸の隠居羽生歩兵衛の部屋で、色吉が歩兵衛に先日の火事にまつわる話を報告していた。
「凡人か、あるいはそれ以下の兄と賢明な弟……確かによくあるの……」
「兄のほうを立ててる連中が弟を亡きものにしようとしたのではないか、てんですが、この弟というのがまだ五つにしかならないんで……全く、子供相手になにをやってんだか、呆れたもんでさ」
「大きくなってからではいろいろ面倒になるから、まだ幼いうちに、ということかの。しかし兄のほうに万が一でもあったらどうするつもりなのかのう」
「まったくで。んで、地元じゃあ人の目もあるし、なんたって殿がいらっしゃる。さすがに息子が不審な死に方をしちゃあ黙っていないでしょう。そこで世間勉強だなんのと理由をつけて江戸の抱屋敷に追いやっちまった。この屋敷はわざわざ新しく建てたそうです。二階に頑丈な座敷牢を作りつけてね」
「ほう。はなから火事を起こすつもりだったのか」
「延焼の危険のないところに建ててるとこからも、そんなところでしょう。どうにもたちの悪いこって」
さすがに他に被害をだせば藩のほうもただでは済まない。
色吉が続ける。
「あまりすぐに若君――これは松之進さんの呼び方なんですが――が変死してもわざとらしいんで、機会を伺っていたんでしょうが、一年ばかり経ってそろそろいいだろ、ってことなんでしょう、仲間の女中に若君を座敷に閉じ込めさせて、弱味のある大工を脅して火を着けさせた、と」
「さすがに自分たちで火を付けるのは気が引けたのかの」
「いちおう松之進さんは知り合いだし、それにちょうど借金抱えた大工が飛び込んできやがったんで渡りに船、ってところだったんじゃねえでしょうか」
そろそろしゃべり疲れて喉の渇きを覚えたところに、留緒が茶のおかわりを運んできた。
「ありがとよ」とひとくち飲んで、色吉は続けた。
「ところでこの座敷牢ですが、随分と頑丈に作ってあったんですが、こいつはたぶん、火事のときに絶対に逃げられないようにって魂胆だったんでしょう。ところがそのあおりで屋敷全体も頑丈にしてあって、そのせいで火の回りが遅くなって、屋敷が崩れるのも遅れたんで。それで結局、羽生の旦那が若君と松之進さんを助け出す余裕ができたようでして」
「ほう、皮肉だの」
「皮肉といやもひとつ、若君はこの騒ぎの最中、寝っぱなしで目を醒まさなかったんですが、こりゃあどうも夕飯のときに女中に眠り薬を一服盛られたようなんで。ところがそのおかげで、若君は煙を吸い込むことが少なくて済んだ、ってんですから」
「はは、さようか。ところで色吉殿の捕えた火付けの二人はどうなったかの」
「平間邸の中間の十郎って奴は、武家屋敷の者なんで、放免です。松之進さんによると女中がいちばんいばりくさってひどかったらしいんですが、まあもちろんなんのお咎めもありやせん。実際に火を着けた大工の弥吉ひとりが割を食ったようなもんで、今度火炙りになりやす」
「脅されてのこととはいえ、火付けは重罪。しかたのないことだの……」
兼は、幹と桐生松之進、そして千代之介とともに街道沿いの茶屋で休憩していた。全員が旅支度に身を包んでいる。早朝で、周りはまだ暗い。
不思議だった。あの火事のあと、家で茫然としているところに、岡っ引の色吉親分が、焼け死んだものと思っていた孫とそのお付きの者だという松之進を連れてきた。しばらく面倒を見てくれと言うのだ。
否も応もない。
千代之介も松之進も狙われることに恐怖を覚えるとともにうんざりしていた。いっそ出奔してしまいたい、と。そこで兼は、二人と幹とで江戸を出ることを企図した。
幹はまだろくでなしの弥吉のことに拘泥していたが、借金取りに追われて行方知れずになったと言い、家にも居ないことを確かめさせ、納得させた。親分には弥吉は火炙りになったと聞いたが、それは内緒にしておくことにした。
そして今四人は、幹の故郷である甲府を目指している。千代之介には、身内の名乗りをあげていない。なんとなく言うのが怖いのだ。いつか言える日がくるかもしれないが、別にそんな日はこなくてもいいとも思う。
休んでいることに飽きたのか、千代之介が立ちあがった。振り向いて「もう行こう」とでも言うようににっこりと笑う。
幹がすぐに立ちあがり、二人は手をつないで歩き出した。そろそろ明るくなってきた。
その様子は、新しい家族の明るい未来を暗示するようで兼は嬉しくなった。松之進のほうを見ると、ちょうどこちらを振り返ったところで、同じ思いでいるようだった。顔を見合わせた二人は、しかしどうにも照れてしまい、意味のない笑みをかわしたのだった。
〈了〉




