三
色吉はある晩とうとう決心してあとをつけることにした。
襖の陰で息をひそめ、通り過ぎるのを待って、じゅうぶんあいだを置いてついていく。曲者は裏口をいったいどうやってか音もなく開け、音もなく出て、音もなく閉めた。出て行くときに外の薄明かりにその釉薬でつやつやと光る顔が不気味に浮かびあがった。やはり羽生の旦那だ。戸が閉められるとまた闇が戻ったので、色吉は手探りで這い進んだ。
裏口をなるべく音を立てないよう開けるのがまたひと苦労だった。たてつけの悪い戸を引いて、ガタガタと鳴りそうな気配があったら止める、というのを繰り返して体を横にしてやっと通れるだけの隙間を開けるのにえらくひまがかかった。
戸は開けたままにして裏に出ると、羽生はもう裏木戸を出たあとのようだ。今度はあまり音に気を遣わず戸を開けて外に出ると、遠い月明かりにかすかに浮かぶ羽生を追いかけた。
羽生は相変わらずすべるように歩いていく。すぐに追いつくと思ったのに彼我の差のいっこうに縮まらないのに驚いた。しかしもっと驚いたのは、両国橋の橋番小屋の手前あたりで突然多大有の姿がかき消えたことだった。あわてて小屋に駆け寄ると、橋番がのんきに声をかけてきた。
「これは色吉さん、お晩でやんす」
「おう、今ここを誰か通らなかったかい」
「いえ、誰も。捕物ですかい」
「いや、そうじゃあないが。……とにかく、通らせてもらうぜ」
橋のうえを見透かすと、真ん中あたりに侍の後ろ姿が見えた。あわてて追いかける。
大橋を越え、反対側の橋番小屋でも同じようなことになった。橋番のおやじは誰も通るのを見なかった。しかし色吉が目を凝らすと、はるか遠くに羽生の背中はちゃんと見えた。どうやら木戸番には姿を見られないように、おそろしく早足に通り過ぎているようだ。このような調子で進んでいき、小半刻もたってさすがの色吉も息が切れてきたころ、川縁にでた。川は中川、ここは亀戸あたりだ。羽生は川辺の、土手が川のすぐ横まで迫ってススキの生い茂っている中に消えていった。足を忍ばせて近づくとそこには小屋があった。横腹が川の方に突き出しており、そこで水車が回っている。
なぜこんなところに水車小屋が……との疑問は横に置いてそこに見つけた戸を息を殺して半寸ばかり開け、目を覗かせた。どこからか光が射しているらしく、しばらくして目が慣れると多大有らしき影が浮かび上がってきた。向こう側の壁にもたれて座っているようだ。ぴくりとも動かない。川のさらさら流れる音と、水車の回る音が聞こえる。羽生は動かない。水車がぎいぎいと音を立てて回る。羽生は寝ているのだろうか。しかし微動だにしないとは。色吉は同じ姿勢でいるのに疲れ、とうとう一歩下がって腰を伸ばし、そっと息を吐き出した。
「見つけよったか」
低い、小さな声がした。色吉は思わず「ひええ」と情けない声を出した。振り返ると歩兵衛が立っている。
「御隠居……」
「ここまで来てしまったのだから仕方がない。おはいりなさい」
と、小屋の戸をぎしぎしと開けて、先に入っていった。