五
「こりゃあ旦那……じゃなくてご隠居さん、よくこんなところまで訪ねてくださいました」
出てきた女が目を丸くした。簾蔵の女房であろう。しかし歩兵衛の突然の訪問に戸惑いを隠せないでいる。
「これはお京さん、久しぶりじゃの。夜分遅くすまん、そういえばまだ倅とその供の小者を紹介してなかった、と思いたっての。ずいぶんと遅くなって失礼をしてしもうたが」
歩兵衛のうしろに立っている色吉と羽生に気がついて、お京はぺこぺこと頭をさげた。
「これは気がつきませんで失礼しました。すぐ呼んできます、ああ、いや、狭いところですんませんがおあがりになっておくんなさい」
お京は丸々と大柄な女だった。
「では積もる話もあることだし、遠慮なしに邪魔しようかの」
もう五つを回っていたが、歩兵衛はそう言って戸をくぐった。
「こないだおぬしを訪ねたのは、あのころはまだ下白壁町だったが、そのときはわし独りで、倅を伴わんだった。そのころはまだ療養していて家にはいなかったからだが、その後もっとはように倅をぬしにも紹介すべきだったところ、いろいろ雑事に取り紛れての。やっと思い立ったということなのだ。遅くなって、また夜分に遅く、ということで二重に失礼した」
「いやあ旦那、とんでもねえ。今日だってわざわざ来てくんねえでも、呼んでくれりゃあっしのほうから訪ねやしたってのに」
簾蔵が言った。
玄関をあがってすぐのところの部屋である。あとは奥に床の間があるだけのようだった。お京は茶を入れるとすぐに表に出ていった。
「すまんの、そういえば、と急に思いたったものでの」
簾蔵は小柄で痩せた、枯れ木のような男だった。歩兵衛よりも二、三年嵩だが、歩兵衛が年よりも若く見えることと相俟って十ほども上に見えた。さきほどよりちらちらと気味悪そうに、歩兵衛の横に座った羽生を見ている。色吉は二人のうしろに控えて簾蔵を観察していた。歩兵衛が続ける。
「それで、紹介が遅れたがこれがわしの倅、多大有じゃ。以後見知りおき、よう頼む」
羽生がいつものように滑らかな動きで首をうなずかせた。
「多大有は怪我の名残で声がうまく出せん、勘弁してやってくれ」
「あっしのほうこそよろしくおねげえしやす」
簾蔵が手をついて頭を下げた。
「まああまりおおげさなあいさつはせんよう頼む。それからこれが多大有の供、御用聞きの色吉殿だ」
色吉も手をついて頭をさげる。あまり卑屈に見えないように軽く下を向く程度にしておく。反対に簾蔵のほうは顔をあげた。
「こりゃあ、ご評判の色吉親分、聞きしに勝る男っぷりだ。岡っ引としての腕も確かだと伺っておりやす。あっしんとこの馬鹿息子、太助も同じ小者だが、おめさんに旦那のお供をお譲りするかたちになった縁もある、今後ともよろしく引き立ててやってくだせえ」
「その件じゃ」
歩兵衛がぴしりと言った。いつもにこにことしていて鷹揚らしい歩兵衛が鋭い声を出したので、色吉の背筋もひやりとした。簾蔵はさらにきつく感じたようで、首をすくめて縮こまった。
「多大有の、すなわち羽生家現当主の供を色吉殿としたのは、本人の意向によるものである。わしも慣れぬもの同士よりはそのほうがよいと希望し、また本人にそう助言もしたが、決定したのはあくまでここにいる当主である。息子殿にも簾蔵、おぬしのほうからもそのこと、よく含めるよう依頼したい」
「は、はあ」
簾蔵はもう平伏している。平伏しながら上目遣いに歩兵衛を見た。「しかしそのことならば太助もすでによく承知のことと存じますが……」
「ならばよい。邪魔をしたな」
歩兵衛は立ちあがった。
「あ、いや、お待ちになってくんなさい。うちの……太助がなにかしでかしたんでしょうか」
歩兵衛は簾蔵をじっと見下ろした。
「本人が承知しておるのならばそれでよいのだ。しかし考えてみれば太助殿も立派なご当主。もはや今となっては親のおぬしに言うべきことではなかったな、いや、これは失礼した。さきほどの依頼は忘れてくれ。本人をお訪ねすることとしよう」
さらに引き留めようとするのを振り切って、三人は簾蔵の隠居宅をあとにした。そのうしろ姿を、物陰からお京が見送っていた。
「太助は下白壁町のもと簾蔵の部屋をそのまま引き継いでいるはずじゃ」
ここからだと帰り道にあたる。
羽生が先を歩き、歩兵衛と色吉がそのうしろを並んで歩いていた。同心は提灯をさげている。
本郷の色吉の長屋のすぐ近所を通り過ぎ、昌平橋を渡る。いつも色吉が羽生邸に向かう道の途中で、少し入ったところに太助の長屋があった。
色吉が戸を叩いて、「太助、太助」と呼んだが返事がない。戸を引いて覗いてみるとなかは空だった。
「ここで待つわけにもいくまい。明日にしよう」
通りに戻ったところで歩兵衛が言った。「色吉殿はここからお帰りなさい」
ここからなら色吉の長屋は目と鼻の先だ。たしかにこれから羽生邸まで行って帰ってだと半刻以上かかってしまう。羽生の旦那もいるから道中の心配はない。だから色吉はその言葉に甘えることにして、挨拶をして行きかけた。行きかけたところで、旦那がついてきていることに気がついた。ご隠居のほうは一人で家に向かって歩きはじめている。
「え、旦那、ちょっと」
色吉は歩兵衛のところに駆けもどった。
「ご隠居、旦那がこっちについてきちまってるんですが」
「はは、猫かなんかみたいじゃな。発条じゃ。気にせんでよいよ」
なるほど、川っぷちに出たら右に折れて両国橋のほうに向かうつもりか。
「ならあっしはご隠居とご一緒しやす」
「いや、かまわんからお帰りなさい。途中まで多大有につきあってやってくれ」
色吉がなおも躊躇していると、いいから、とうなずく。ご隠居がそこまで言うならば逆らえない。色吉は頭をさげて、今度は羽生のほうに駆けもどった。羽生はさっきの位置に立っていたが、色吉が戻ってくると並んで歩きはじめた。
羽生はおそろしく無口なので会話があるわけではない。ふたりとも黙ったまま川べりの筋違御門の広場になっているところまで来て、そこで左右に分かれた。色吉が軽く頭をさげると羽生も小さくうなずく。いや、ほんとうは暗くてよく見えなかったのだが、少なくとも色吉にはそう見えた。
昨夜のことがあったので、羽生と別れてからは全身を緊張して歩いた。いきなり駆けだしてみたり、わざと右に左によたよたと歩いてみたりする。なにごともなく長屋について、色吉はほっと息をついたが、自分の心配ぶりがばかばかしくなってきて、ちょっと白けた気分になった。白けた気分のまま寝てしまった。




