三
とりあえず夕方、多大有の戻るころにまた来ることにして、色吉は羽生邸を出た。町をぶらつくことにし、いつも羽生と回る向両国に向かった。今月は羽生は内勤だから外廻りはしない。
にぎやかな通りを抜けて、いつもならば北へ向かうところを、羽生邸に戻ることを考えて反対の深川のほうに足を向けた。
土地の広い別荘地を通り、材木置き場の多いところを抜ける。やたらにかかっている小さな橋をひょいひょいと越え、大きな問屋の並びを抜けて、大川にかかっている橋を渡る。
景色がよかったので、永代橋のなかほどで欄干にもたれ、のんきに行き交う船などを見物していたときのことだった。いきなり背後から足をすくわれた。
「うわっ」
体が欄干を乗り越えて橋袖に落ち、勢いがついていたので転がった。永代橋の橋袖は狭い。そのまま落ちそうになるところを、なんとか橋のへりに両手でぶらさがった。
江戸で泳げる男など、漁師か船頭くらいだろう。色吉ももちろん泳げない。長さが百間以上もある永代橋の真ん中あたりだから、川べりまではどちらもはるか五十間も離れている。このまま川に落ちたら確実に溺れて死んでしまう。
体を持ちあげなけりゃ、と思うが、橋のへりは湿ってぬるぬると、指先に力が入らない。
こういうときは下を見ちゃいけねえ、目がくらんじまう、と思いつつ色吉は下を見て、目がくらんだ。
川面までは一丈ほどのはずだが、それが十丈にも見えた。
「おいっ、つかまれ」
誰かの声がした。顔をあげると誰かが手を伸ばしてきている。ありがてえ、とその手をつかもうと片手を伸ばしたのがまずかった。誰かが手をつかんでくれるのをおとなしく待っているべきだったのだ。橋のへりに引っかかっていたほうの指先がずるりと滑った、と思ったときにはもう落ちていた。
気を失っていた、といってもほんの少しの間だったようだ。日は沈みかけていたが、その高さはさっきと変わっていなかった。
「落ちてすぐに引きあげたからな、そんなに水も飲んじゃいねえ」
浅黒く日焼けした男がにやりと笑って言った。ふんどし一丁の体を手拭いでぬぐっている。
「あたしが、あにさんが橋の欄干にぶらさがって足をじたばたさしてるのを見つけてね。誰かが欄干の外に出て手を伸ばしたようだが、まにあわなくて落っちまった。助八さんは最初、身投げなら死なせてやんなせえ、と放っとこうとしたんだが、あたしが誰かが助けようとしてたんだからなんかの間違い、事故だろうって話をして、そんで飛び込んであにさんを助けたってわけさ」
商家の旦那ふうの男が言った。見回すとここは屋根船のうえだ。ほかに旦那ふうが二、三人いて心配そうに色吉をうかがっていた。商家の旦那衆が川遊びとしゃれこんでいたようだ。心配顔は、かならずしも色吉の身を案じて、ではなく岡っ引らしい闖入者に対して不安を抱いているのかもしれない。
助八というのがこの船の船頭で、浅黒い男のことらしい。その助八が、
「言われてみりゃあ、こんな日のあるうちから身投げするやつもいねえ、って思ってね」
と言った。
「あにさんを助けようとしてた橋のうえのお人は、どっかに行っちまったみたいだね。助八さんが飛び込んだんで安心したんだろう」
そうだ、誰かが確かに手を伸ばしてくれた。その声に聞き覚えがあるようなないような、どうもはっきりと思いだせないが、あるような気がした。
それはともかく、色吉は土下座せんばかりに礼をして、船を借りている旦那衆にも頭をさげた。
「お楽しみのところをとんだ邪魔をしちまって……」
「そんなことよりあにさん、大丈夫なのかい? せんさくするつもりはないけどさ、なんだってあんなところにぶらさがってたんだい?」
「へえ、ぼうっとしていて、日当たりにやられたのかもしれやせん」
「そんな時季にゃあまだ早いだろうに、しっかりしとくんなましよ」
「ご迷惑かけやして」
色吉は恐縮した。
船を深川側とは反対の霊岸島のほうに着けてもらい、ひとり降りた色吉は、助八が櫂を操る船がふたたび大川をさかのぼっていくのを頭をさげて見送った。




