一
深夜、本郷金助町の岡っ引色吉が八丁堀の羽生邸から自分の長屋に向けて歩いていたときのことだ。
「おめえが色吉かい」
日本橋を渡ってしばらく、昌平橋に向かって長屋の建ち並ぶあたりを抜けてようとしていたときに暗がりから声がかかった。足を止めて声のしたほうに顔を向けると、小太りの男が立っていた。
「そういうおめえは誰でい」
月明りを頼りにすかして見るところ、装からして同業のようだが。
「おいらぁ下白壁町の太助ってもんだが」
「そうかい、よろしくな」
色吉は歩きだした。
「いや待て、話は終わっちゃいねえ」
太助があわてて言う。色吉はふたたび足を止めた。
「おめえにちいと訊いておきてえことがある」
いつのまにか色吉の背後にふたり、太助の手下らしいのが立っていた。
「どうやって羽生の旦那に取り入りやがったんだ、え」
「羽生の旦那に取り入る……下白壁町の太助……」
色吉は納得顔になった。「ああ、あんたが評判の与太助さんか」
「おうよ、そんなに評判かい」
色吉は少し考えた。悪い評判しかないが、あまり正直にそんなものを並べても面倒にしかならない。「いや、おれも与太助って名前だけしか聞いたことなかったわ」
「ち、なんでえ、がっかりさせやがる」
「すまねえな、じゃあな」
「おう、またな」
「親分っ」手下らしき一人が言った。
「太助、太助」違う声が言う。
「待ちやがれ、話は終わっちゃいねえ、だいたいおいらぁ与太助じゃねえ太助だこの野郎」
もめごとになっても三人がかりではかないっこない。駆け足で逃げたところで家だって知られているだろう。
しかたねえ。色吉は覚悟を決めた。面倒だが、ここで話をしておかないともっと面倒なことになりそうだ。
「別におれが取り入ったわけじゃねえよ。頼まれただけだ」
「なんだとぁあ、だいたいなあ、あの羽生の旦那のお供はおいらん親父がやってたんでえ。だからおいらがそいつを継ぐのが筋ってもんだろうが、ええ? そんで親父がそろそろ隠居してえ、ってんで旦那のところにおいらをお供に、って言いにいったらよう、旦那も隠居して同心業は息子にってからよう、そうなると二代目同士でこりゃあ丁度いいあんばいじゃねえか、おめえもそう思わねえか、思うだろ、それなのによう、まあそんな息子なんて長年お供をあい勤めた親父ですら知らなかったてんだからよ、なんだか怪しいじゃねえか、と思ったら、もっと怪しいことに若え手先をお供にするとか言いだしてよ、そりゃおかしいんじゃねえか、筋が通らねえだろう、そうするとそいつがうまいこと旦那を丸め込んだとしか思えねえじゃねえか、そんでその若い手先ってのはおめえじゃねえかよう、だから訊いてんだけどよ」
「なんとなく言いてえこたわかったが、もうちっと整理してしゃべれよ」
「なんだと、そんなにわかりづらかったかよ、じゃもっぺん言うからよく聞いとけ」
それをさえぎるようにうしろから声がかかった。「なにいこの野郎、わからねえわけねえだろう、親分はおめえがどうやって羽生の旦那に取り入りやがったんか訊いてんだよ、この野郎」
「そうだ、親分が訊きてえのはな、おめえがどうやって羽生の旦那に取り入りやがったか、ってことだよ」もう一人の声も言った。
「そうだ、おめえどうやって羽生の旦那に取り入りやがったんでえ」太助が言った。
「いやだからおれは羽生の旦那に取り入っちゃいねえ、って言ってるじゃねえか。旦那のほうから言いつけてきなすったんだよ」
「そうなんか――」
太助が納得しそうになりかけたところにかぶせるように、またうしろから声がした。「だからそいつが信じられねえ、てんだよ、親分という立派な手先がいんのに、わざわざおめえみたいなどこの馬の骨ともわからねえような手先を供にするなんておかしいだろうが」
「そう言われてもな、旦那本人に聞いてくれよ」
「へ、聞いたよ、訊いたとも、聞いたけどな、同心とその供がいちどきに入れ替わるのは不慣れなもの同士いろいろ不都合もあろうから、供は慣れたものに頼む、ってことだったのよ」
こう言ったのは手下のひとりだった。もうはなから自分で話すことに決めたようで、色吉のまえに回ってきた。
「じゃあそうなんだろう、それでいいじゃねえか」
「そうはいかねえ、なんでわざわざおめえみたいなどこの馬の骨ともわからねえような手先を供にするなんておかしいだろうが」
と太助が言った。
「おかしいのはおめえだろうが、わけのわかんねえこと言いやがって。そのうえくどくどおんなじ話ばっか繰り返しやがって、もうおめえは口出すな、手下にしゃべらせろ、手下に」
色吉もとうとう堪忍袋の緒が切れた格好だ。
「なんだとう」
「親分、こいつの言う通り、ここはあっしに任せてくんなせい」
まえに回ってきた手下が言った。
「卒太、おめえまで――」
「だけどよう、調べたらおめえだってそりゃおかみの御用を聞きはじめたのは親分よりゃあ早えけど、同心の供についちゃあやったことがねえだろう」
卒太はもう太助にかまわず色吉に向かって言った。
「へ、じゃあ言ってやらあ、旦那はな、おめえ……の親分の与太助の評判を聞いて、箸にも棒にも引っかからねえようなこんこんちきに任してらんねえ、ってんでおれをお頼りになったのよ、合点がいったらとっととけえって寝やがれ。あまり夜更かしすっと寝小便たれるぞ」
「なんだとてめえ、いくら親分でもそこまでひどかねえぞ」
まだ色吉の背後にいたもうひとりの手下が言った。
「根吉、おめえそりゃひどくねえか――」太助が言いかけるのをさえぎるように、
「そうだよ、寝小便なんてもう十年はしてねえぞ」と卒太が言った。
太助はもう三十近いはずだ。寝小便の話を持ち出したのは自分だったが、色吉はげんなりした。
「卒太に根吉、いいかげんにしろい、夜も更けたってのに、いいかげん近所迷惑だぜ、親分もこいつらを止めねえと。そんで、また明日にでもしたらどうです」
少し離れたところから、新しい声が言った。
「おう、竹五郎のとっつぁんか」
太助が言った。近寄ってきた竹五郎と呼ばれたその男は、もう五十もとうに越えたような、ひょっとして六十近いか、さらにひょっとするとそれすらも越えたかもしれないという年寄りだ。
「色吉さんといったな、わしは太助親分の子分、あんた風にいえば手下の竹五郎と申すもんです。ここはひとつわしに免じて、見過ごしてやってくだせえやし」
竹五郎は丁寧に腰を折った。どうやらまともに話せそうなのが出てきた、と色吉はほっと息をついた。
「こいつはご丁寧なご挨拶、痛み入りやす。あっしはかまわねえんで、じゃあこれで」
色吉は歩きだした。さすがに太助も卒太も根吉も黙って見送る。太助の住処はすぐそこだが、色吉の金助町の長屋まではまだしばらくかかる。とんだ道草を喰ったものだ。
昌平橋の手前、広場になっているところで空気を切る音がしたので色吉はとっさに身をかがめた。考えずに体が動いてのことだった。そのまま地べたをごろごろと転がった。そのあとに礫がぴしぴしと音を立てて当たった。色吉は立ちあがり身を低くしたまま礫の飛んでくるほうに向かって駆けた。すると礫の飛来はやんだ。筋違御門あたりまで戻ってあたりを見回してみたが、曲者は退散したようだった。




