王女の帰国
祖国は天地がひっくり返ったような大騒ぎになった。
お兄様が、隠すべきではないと言って、自らの事も全部国民に知らせたからだ。
隠されていた国王であるお父様の死も報道され、私は国に帰らなければならなくなった。
本当なら一ヶ月は留学するはずだったのだが、事情が事情なだけに仕方ない。
空港には、関わった者達全員が見送りに来てくれた。
その中に克己の姿を見つけ、私は思わず駆け寄った。
「約束、果たしたわよ」
ちゃんと菊池を克己のもとに帰した。生まれて初めて交わした約束を守れた。それはとても誇らしい気持ちになった。克己は嬉しそうにあの笑顔を見せ、ひらがなで書かれた「かたたたきけん」という小さな紙をくれた。
「その紙と引き換えに、克己が肩たたきをしに行くって」
菊池に教えてもらって、私は大事にその紙を鞄へしまった。このままもらいっぱなしではいけない。私は首に巻いていたスカーフを外して克己の首に巻いた。
「ネスフェリカ王家御用達のシルクのスカーフよ。ちゃんと王家の紋章も描かれているから、いつでも王宮へフリーパスで入れるわ」
克己は目を輝かせてスカーフの端を持ち上げ、また嬉しそうに笑った。この笑顔を守る事ができた事が、本当に誇らしい。
「克己を預けてくれてありがとう、菊池。克己には色々教えてもらったわ」
「うん。克己は優しいから、きっと王女様とも仲良くできると思ったんだ」
この笑顔は、まだ私には作れない。でも、いつかきっと。
「華歳にも、たくさんいやな思いをさせてごめんなさい」
「貸しだぜ。今度、朱己と克己を連れてネスフェリカの俺のオレンジ畑に行ってやるから、案内しな」
「うん。それまでには、せめて今よりマシな王女になっているよう頑張る」
家族のように思っている菊池を、結局華歳は私のために危険にさらす事に了承してくれた。それどころか、私財を投じて私を匿ってくれた。今の私には何のお礼のしようもないが、国に帰って必ず華歳の役に立てるような王女になろうと強く思えた。
次に羽叉麻の前で、私は足を止めた。
「羽叉麻、言ってたよね。何をしに日本へ来たのかって」
羽叉麻は最初に会った時と同じ、柔らかい笑みを浮かべていた。最初からこんな優しい笑顔だったはずなのに、私は全然見ていなかった。もったいない事をした。
「きっと、みんなに会うために、私はここへ来たんだと思う。知らない事をたくさん教えてもらった」
「今度はちゃんと留学しに来て。部活にも入ってさ」
「うん。羽叉麻と同じ部がいいわ」
「じゃあ絵の具を持って来なきゃね」
こんな状況になってしまったからには、きっともう2度と留学なんてできないだろう。羽叉麻もそれをわかっている。でも絵空事でもいい、夢のような希望があれば、私はきっとそれに向かって強くあろうと努力できる。羽叉麻と並んで絵を描く自分の未来を想像をするだけでも、きっと前を向く意欲につながるはずだ。
次に、甲斐の前で足を止めた。
「いつかはキャラメルをありがとう。でも、その」
「わかってる。見ず知らずの人間からもらった食い物を、王女様が口にできるわけねぇよな」
そうじゃない。あの時の私は人の好意というものを信じられない愚か者だったから。甲斐もそれをわかっているはず。なのにこんな言い方をしてくれる。自分の持っている力を私なんかのために惜しげもなく使ってくれる人だった。もっと早くそれをわかりたかった。それを拒絶したのは私自身だと思うと惜しくて惜しくてたまらない。
もっとたくさん、この人達と話をしたかった。
「こう見えても大地はね」
羽叉麻が口をはさんだ。
「どうでもいい相手には、当たり障りのない適当な事しか言わないの。そして面倒くさがりだから、必要以上に手を貸してはくれないんだ。でも、あんなに早く自衛隊と官公庁を抑えられたのは、大地のお陰なんだよ」
愚かな私には、その大変さが具体的にはわからない。
でも、それがきっと大変であっただろう事は想像ができる。
「ありがとう。ごめんね。私は本当に馬鹿だった。恥ずかしいわ」
「自分を恥じる奴に本当の馬鹿はいねぇよ」
愛嬌のあるたれ目が私を見て、私の右手を取るとその上にキャラメルの箱を置いた。
「もう俺は見ず知らずの人間じゃねぇだろ? 今度は食ってくれよ」
「ありがとう。でももったいなくて飾っちゃうかも」
甲斐と笑いあって、最後に近江の前で足を止めた。
「本当は、聞きたい事や話したい事がたくさんあるの」
近江は黙って私を見下ろしていた。
「でも時間がないから1つだけ。どうして私を守ってくれたの?」
COETへの依頼は、スターバーがしたと後から聞いた。でも、政府も警察も傍観を決め込んだこの事態に下手に首を突っ込めば、COETはその2つを相手に信頼を失いかねない。それはCOETにとってかなりの打撃となったはずだ。そのリスクを負ってもかまわないと思うほどの報酬を、スターバーは提示していなかった。大事なCOETの命運にかかわる事なのに、なぜこの依頼を引き受けてくれたのか。
「……その男が」
片目に包帯を巻いたスターバーを、近江は視線で指した。
「高額の生命保険に入っていた。受取人がCOETだった」
死ぬ気だったのか、スターバーは。
本当に本気で自分の命を賭けて、私を守ろうとしてくれていたのだ。
「ボスはそういう人間に弱いのさ」
犬養が私に笑いかけた。
「信念を貫こうとする奴を、無条件で気に入っちまう。自分の命を賭けちまう。ボスの悪い癖さ」
スターバーがいなければ、私はきっと彼らに出会う事もなかった。愚かな子供のまま死んでいた事だろう。
近江は犬養をじろりと睨んだあと、再び私を見た。
「それだけじゃねぇ」
近江は腕を組んだ。こうして見るとなんていい男だろう。近江を構成するすべてが、自信と高潔さに満ちている。
「俺達だけで片を付けたとなれば、少なくともCOETがネスフェリカへ助力を申請する時に、国に煩わされずに済む」
「私が死んでいたら、全部水の泡になっていたと思うけど」
「勝つと決めた喧嘩は死んでも負けねぇ」
なんて男だろう。
思わず吹き出した。すごい男だ。負けていられない。
「次に会う時には、犬養に嫌われないような人間になっているように頑張るわ」
「せいぜい頑張んな。できるさ、今の気持ちを忘れなけりゃな」
そばかすの浮いた顔でウィンクされた。この人は、こんなにもチャーミングな笑顔を作れる人だったのか。見られてよかった。
「王女、そろそろ」
スターバーに言われて、私はうなずいた。名残惜しいけど、私にはやるべき事がある。
「みんなの事、決して忘れないわ。本当にありがとう」
「またいつでも依頼して。その時は報酬を弾んでね」
羽叉麻にひらひらと手を振られ、私は笑った。
「元気でね」
「身体に気を付けるんだよ」
「また会おうね」
「メール待ってるよ」
彼らの優しい声と視線は、エスカレータから見えなくなるまで私を追いかけた。
エアフォースは使いものにならなかったので、私達は通常の旅客機を貸し切って乗り込んだ。
ジェット機は惜しげもなく日本の地を飛び立ち、私と彼らの物理的な距離をあっという間に広げて行く。
「お飲物はいかが致しますか?」
片手を吊ったスターバーが声をかけてきた。彼は肋骨を3本骨折し、左腕の骨にヒビを入れていた。片目に巻かれた包帯が痛々しい。
「いらないわ。もう少し日本を見ていたいの」
窓の外の景色はもう海になっていたけれど、ここはまだ日本の領域だ。
本当に色々勉強させてもらった。己の未熟さ、至らなさを痛感した。
国に帰ったら、お兄様に鍛えてもらわなければならない。そのための努力を、私は惜しんではいけない。
「先ほど、王子が国に着いたそうです。身柄はそのまま軍へ引き渡されました」
私はうなずいた。罪がある以上、お兄様にはそれを償ってもらわなければならない。多分それは一生かかるだろう。お兄様もその覚悟はあるはずだ。
「元老院が大層お怒りです。王女が王子を庇うのであれば、それ相当のお覚悟が必要かと」
「頑張るわ。仕方ないわよ、年貢の納め時なんだもの」
元老院の飾りになる気はない。お兄様と共に国を守ると決めた。菊池と克己のように、互いを信じられる兄妹になりたい。彼らのように強くなりたい。近江のような覚悟を持てれば、近江のような仲間ができるかもしれない。
ポケットから折り鶴を出した。たどたどしい不格好な鶴。でも、私のためだけに損得なしで折られた、この世でたった1つの鶴。これがあれば、私は大丈夫。思い立って取り出した肩たたき券には「むきげん」と書かれていた。また会える。いいえ、私から会いに来るわ。
きっと、今よりマシな覚悟を持った人間になって。
「スターバー。私、自転車に乗れるようになりたいわ」
「自転車……ですか?」
「そうよ。今度トーイングカーに乗せられる事があったら、自転車で追い抜いてやるの」
スターバーは笑った。
「国に着くまでの間、お父様があなたに何をしたのか聞かせて」
「仰せのままに」
シートベルト着用サインが消え、私は思いの全てを祖国へ向けた。
もしここまでお読みくださった方がいらしたら、本当にありがとうございました。
実は私は名前を考えるのが大の苦手で、キャラクターの名前を使い回したり、実在するメーカー名をもじったりと七転八倒しております。今回はコーヒーメーカーさんの色々をもじらせて戴きましたが、ネスカフェさん、ブレンディーさん、キーコーヒーさん、スターバックスさんには特に関係がない事をここにお知らせしたいと思います。
もしよろしければ、どんな形でも構いませんのでご感想を戴けたら幸いです。