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王女の告白

「ちょっと近江! この車だけものすごく遅いじゃない!」

「これでもスピード違反だ。滑走路内の車両の制限速度は、時速8キロだぞ」

「自転車の方がまだ早いわよ!」

「なら自転車で行け。止めねぇが、乗れるのか?」

「乗れないわよ!」

 華歳の運転するジープが真っ先にエアフォースにたどり着いたようだった。

 華歳と同時に羽叉麻がジープから飛び降り、タラップを駆け上がる。COETのメンバーが2人をフォローするように、機体の周囲を警備していた人間達をなぎ倒したのと、エアフォースがエンジンをかけたのはほぼ同時だった。

 その時、上空からヘリコプターの爆音と銃弾が降って来た。さっき近江が言っていたラークとカラスとか言っていた2人だろう。ラークはヒバリ、カラスはcrowの事だったはずだ。世界一危険な鋼鉄の鳥達だ。

 ここからはよく見えなかったが、カラスの弾丸はエアフォースのコックピットを撃ち抜いたようだった。夜にも関わらず、あんな高い場所からコックピットを撃ち抜けるなんて信じられない。

 ゆっくりと動き始めていたエアフォースは蛇行し始めた。それを他のジープが車体ごと車輪に体当たりして止めようとしている。

 華歳がエアフォースのドアをこじ開けた。夜の闇に機内の入り口がぽっかりと浮かび上がる。発砲音が聞こえたが、華歳と羽叉麻はかまわず中へ飛び込んだ。

「羽叉麻! コックピットへ! ギアとブレーキを操作しろ!」

 近江が無線に怒鳴った。

 パンパンと乾いた銃声がここまで聞こえる。

「降りるなよ。邪魔だ」

 近江は蛇行するエアフォースの前にトーイングカーを乗り付け、突然速度を落とした。

「Mr.スターバー、ハンドルを頼む」

 トーイングカーから飛び降りた近江が車両の背後に回った後、重そうな金属音がした。おそらくトーイングカーとエアフォースを連結させているのだろう。機体はまだよろよろと動いているのに、その正面にいたら轢かれてしまう。

「エンジン全開! バックしろ!」

 近江の声にスターバーはギアをバックへ入れたが、一瞬表情が歪むのが見えた。やっぱり目以外にも怪我をしていたんだ。

「スターバー!」

「たいした事ありません。掴まって!」

 スターバーは思い切りアクセルを踏んだ。重い金属音と衝撃の後、それまでよたよたと進んでいた機体が完全に停止した。これだけ巨大なトーイングカーを振り切って飛び立つのは、物理的にもう無理だろう。

「ここにいてください、レンディーデ様」

「何をする気なの?」

「あなたを守ります」

 スターバーは銃を手にした。残った片方の目に強い意志が宿っている。

「27のこの年まで、陛下には言葉に尽くせぬ恩を受けました。あなたを守るためなら、私のこんなちっぽけな命などいつ捨ててもかまわない」

「馬鹿な事言わないでよ! 私はあなたがいないと何もできないんだから!」

「よくわかってるじゃないか、レンディーデ」

 突然、背後から聞こえたよく知った声に、今までにない戦慄を感じた。

「……お兄様……」

 スターバーが反射的に私の前に身を乗り出した。お兄様の手には銃が握られている。

 銃口を向けられて初めて、私は誰かに死を望まれる恐怖を肌で知った。お兄様は私がいなくなればいいと本気で思っている。誰かにいらない、不要だと思われる事がこんなに悲しい事だなんて思わなかった。死ねばいいと思うほど憎まれるという事が、こんなに辛いだなんて知らなかった。

 こんなにお兄様を追い詰めていたなんて。

「てっきり機内に入ると思っていたが、そんなところに隠れていたのか。そこをどけ、スターバー。命令だ」

「聞けません」

「たかがSPの分際で、王子の私によくそんな口がきけたものだな」

 雲の合間から差した月光に浮かび上がる、お兄様の冷たい表情。その表情とは裏腹に、瞳からは黒い炎が吹き出していた。

「今まで私がどれだけ厳しい英才教育を受けてきたと思う? 王子であるが故に、私には自分の時間というものがなかった。レンディーデがわがままをまき散らして好き放題している間、私は分刻みで王政というものを叩き込まれていた」

 スターバーは私を押すように後ずさりしたが、車の中なので上手く逃げられない。

「それがどうだ? 私に子孫を残す力がないとわかった途端、父上は手のひらを返したように私を見捨てた。おばあさまと密談をして、レンディーデを次期玉座に据えると言うじゃないか。笑わせてくれる」

 お兄様の指は銃の引き金にかかっていた。スターバーごと真っ直ぐ私を撃つつもりだ。私はお兄様に見つからないようにそっと羽叉麻にもらったナイフを探った。引き金を引かれても、急所にさえ当たらなければ刺し違える事ができるだろうか。スターバーを押しのけて、お兄様のあの喉に。

 無理だ。できない。

 殺してどうする。この世にたった2人の兄妹を、この手で殺して玉座に着くのか。そうまでしてお兄様は玉座が欲しいというのか。

「私の苦労と努力はいったい何だったんだ? さんざん時間を奪われた挙げ句、何もかも取り上げられ、遊んでいたお前に全てを捧げろというのか!」

 片手で構えていた銃を、お兄様は両手で構え直した。

「殺してやる! 殺して私が玉座に着く! ネスフェリカは私が支配する事こそが幸せなのだ!」

 撃たれる。

 恐怖のあまり私はスターバーにしがみついた。お兄様にこんな事をさせるまで追い詰めたのは私なのに。もっと早くお兄様と話をする機会を作っていれば、こんな事にはならなかったかもしれないのに。もっと早く気づいていれば、あの時こうしていれば、なぜあの時あんな事をしたのか。私の人生は最後の最後まで後悔ばかりだ。せめてスターバーだけでも助けたいと思っていたのに、みっともなくしがみついて。私は自分の責任すら果たす事ができなかった。謝罪せねばならない人々に頭ひとつ下げる事もできなかった。

 ごめんなさい、おばあさま、克己、みんな。

 強く目を瞑ってその時を覚悟した時、突然低い声が聞こえた。

「そこまでだ、王子様。銃を捨てな」

 それまでまるで気配を感じなかった影が、のそりとお兄様の背後から姿を現した。熊谷だった。いつの間に、こんな近くに。

「……私を撃つつもりか? 日本とネスフェリカの外交がどうなってもいいというのか?」

 こめかみに銃を突きつけられても、お兄様は取り乱したりしなかった。こんな凄まじい精神力を、お兄様が持っていたなんて。

「安心しな。あんたを撃ったら、この銃はあんたの叔父の部下の手に握らせる」

「貴様に私が撃てるものか」

 お兄様は、この状況で笑った。

「私は王子だ。王子を撃てるはずがない」

「ああ。あんたは確かに王子様だ。だが」

 熊谷の人差し指に力が入るのが見えた。

「よその国の王子様だ。死んだところで何も困らねぇよ」

 熊谷の持つ殺気が、お兄様の精神力を凌駕した。怖い。殺される。

「お、お願い、熊谷、お兄様を撃たないで」

 恐怖で震えながら請願した私の言葉に、お兄様が叫んだ。

「黙れレンディーデ! お前の情けなど必要ない! 生き恥をさらすくらいなら死んだ方がマシだ!」

「だから死なせたくないのよ!」

 自分でもわからない怒りに駆られ、私も叫んだ。

「自分がした事の反省もしないで、死なせてなんかあげない! 私達は王族よ! 自ら死ぬ事は許されないわ!」

「お前ごときが王家の何たるかを口にするな! 今までさんざん好き勝手をしていた分際で!」

「そうよ、好き勝手しすぎて何にも知らないわ! だからお兄様が必要なのよ!」

 お兄様が次の言葉を詰まらせ、私を凝視した。

「もうお父様もおばあさまもいないのよ。私にはお兄様しかいない。力を貸して」

 視界が歪んだ。それで自分が泣いている事に気付いた。

「お兄様が辛い思いをしている間、私は見ないフリをしてわがまま放題だった。今はそれがどれだけ罪深い事だったかよくわかる。私がもう少し人を思いやれる人間だったなら、お兄様をそこまで追いつめる事もなかったと思う。でも、遅すぎたかもしれないけど、私はそれにやっと気付いた。私1人で国を動かす事なんかできない。私にはお兄様が必要なの。2人で力を合わせれば、きっと国を守れる」

 お兄様は私を見つめたまま、何も言ってはくれなかった。

「私にお兄様を殺せるはずがないでしょう……!」

 もうほとんど言葉にならなかった。情けない。こんな大事な場面で泣き崩れるなんて最低だ。もっとちゃんと伝えなければならない事がたくさんあるのに。

 私が歯を食いしばって涙を堪えていたその先で、スターバーがお兄様の手から銃をそっと取り上げたのが見えた。

「……もう王子に殺意はない。銃を降ろしてくれ、Mr.熊谷」

 スターバーに言われて、熊谷は銃を降ろした。

「……お前は、私が必要なのか?」

 殺意も戦意も消え失せたお兄様が、力ない声でそう言った。さっきまでのお兄様とは別人のようだ。

「当たり前でしょ、兄妹なんだから」

「王になれないのなら、私を必要とする者など誰もいないと思っていた……」

 お兄様は弱々しく苦笑した。兄で、男で、王子であるお兄様は、今までいったいどれだけの重圧に耐えて来たのだろう。本当に私は、どうしてお兄様の気持ちをほんの少しでも考えてあげられなかったのだろう。たった2人の兄妹なのに。

「今まで本当にごめんなさい、お兄様。私、本当に子供だった。本当は寂しかった。誰にも相手にされていないんだって勝手に思ってたの。そんな事ないのにね。自分は寂しいんだからわがまま言ってもいいんだって、そんな理不尽な免罪符を作って、みんなに甘えてた。今はそういうのが本当に恥ずかしい。国に帰ったら謝らなきゃいけない人がたくさんいるわ」

 克己に言われて私は気付いた。私は寂しかったんだ。誰でもいいから私を見て欲しかった。王女の私ではなく、『私』を見て欲しかった。見て欲しいと駄々をこねるくせに自分からは誰かを見る事はしなくて、まるで反抗期の子供のように寂しさをわがままにすり替えてただただ見て欲しいと喚き散らしていただけだ。そんな事は何の解決にもならないのに、自分の心すらちゃんと向き合って理解できていなかった。

 後悔と反省で心が潰れそうだ。

「わかってくれるだろう。今のお前を見れば」

 お兄様は憑き物が落ちたように座り込み、銃声の響くエアフォースを見上げた。

 まだ、終わっていない。

「熊谷、私をおじさまのもとへ連れて行って」

 熊谷よりスターバーの方が目を剥いた。

「なりません。危険すぎます」

「おじさまはきっと、ずっと前から王家を乗っ取る準備をしてたんだわ」

 お兄様が驚いたように私を見た。

「だってそうでしょ? 王宮にいるあれだけの人間達を、そう簡単には懐柔できないはずよ。まずはお母様をそそのかして、少しずつ仲間を増やして、お父様の食事に毒を盛って少しずつ弱らせて、本当はお父様が亡くなってから、お兄様を丸め込んで王権を握るつもりだったんだわ。お兄様の身体の事も、きっとずっと前から知ってたのよ。次の代はないってわかってたから、時間をかけてたんだわ。いずれ自分の子供を玉座につけようとじっくり画策してたのよ。なのに私に王位を継承させると言われて、しかも私が日本に行くだなんて聞いて、慌ててお兄様をその気に仕向けて私を殺させ、後で首謀者として陥れようと考えたんだわ。そして自分は何の問題もなく王家を乗っ取る計算だったのよ。最初からお兄様を利用するつもりだったんだわ」

 どうして今までそれくらいの事を考えつかなかったんだろう。ちゃんと見ていれば気付いたはずだ。私は大間抜けだ。

「……考えてみれば、私の身体の事を父上と母上が最近まで知らなかったというのは、確かに不自然だ。そうか、叔父上が隠蔽していたのか……」

 お兄様は真剣な顔で考え込み、そして自重気味に笑った。

「だとすれば、私は叔父上にいいように踊らされて妹を殺そうとしたという事か」

 私はトーイングカーから降りて、お兄様に手を差し出した。

「行きましょう、お兄様。一緒におじさまを捕らえるの」

「さっきまでお前を殺そうとしていた私を、お前は信用するのか?」

 私の手を取らずにそう尋ねるお兄様に、私は笑った。

「日本で学んだ事の1つに、信頼しなければ信頼してもらえないって事があるの」

 お兄様は苦笑して私の手を取って立ち上がった。

「まったくお前は実践向きだ。これからが思いやられる」

「頼りにしてるわ」

 私達は手を取り合って、エアフォースのタラップに足をかけた。



 機内は惨状だった。

 いたるところから血を流した男達が大勢転がっている。シートも折れたり曲がったり、これではとても飛べたものではない。

 私は華歳と羽叉麻を探した。さっきから姿が見えない近江も心配だ。

「どこなの!? みんなどこにいるの!?」

 外から見れば小さな機体でも、一国のエアフォース内はそれなりに広い。シートに倒れて動かない男達の間を、私は慎重に進んだ。起き上がってきたら蹴飛ばしてやる。

 奥のリビングへ続くドアに、近江が立っていた。ダークグリーンのジャケットや黒い皮の手袋には、返り血と思われる赤い汚れがついていたが、近江本人は大きな怪我をしていないようだった。

「近江! 無事だったのね!」

「当然だ。ところで、後ろのそいつは?」

 近江は瞬きもせず私の後ろを睨んでいた。

「……お兄様よ」

 私が言い終わらないうちに、近江は銃を抜いた。

「待って! 違うの! 元凶はおじさまだったのよ!」

 近江は私の後ろに銃口を向けたまま、微動だにしない。

「本当なの!」

「……お前が騙されていない保証がどこにある?」

 低い、凍てついた鋼の声。どうやったらこの声を説得できるの。

「本当ですよ、ボス」

 後ろからのそりと熊谷が姿を現した。

「こっちはこのお嬢さんが話をつけました。もう敵意はありませんぜ」

 近江は熊谷としばし視線を合わせたあと、やっと銃を収めた。私はほっとして思わずシートの残骸に寄りかかった。なんて殺気なの。さっきの熊谷といい勝負だわ。

「熊谷、スターバーは?」

「あんな大怪我してまで無鉄砲な事をしでかすような奴の面倒を見ながらあんたらを守れねぇよ。部下に任せてきた」

 確かにスターバーはかなり無理をしているようだった。もう限界だったのだろう。スターバーには本当にすまない事をした。

「菊池はどこ? 華歳と羽叉麻と、おじさまは?」

 前を向いて尋ねると、近江は無言のままあごでリビングをしゃくった。

 恐る恐るリビングへ進むと、もっと凄惨な状況になっていた。壁の至るところに弾痕が描かれ、スーツを着た男達は全員が血だまりに倒れ込んでいる。頑丈な窓にはヒビが入り、テーブルもソファも滅茶苦茶に壊されていた。

 その隅で、惚けたように座り込む菊池と、その傍に膝をついている華歳がいた。ダークグリーンのジャケットを着た3人は、リビングの金庫をこじ開けて中を確認している。3人とも顔に殴られたような跡やジャケットに汚れが見える。中でも犬養がひどい。顔も身体もボロボロだ。

「だ……」

 大丈夫? と聞きたいのに声が出ない。むせ返るような血の匂い。本能的な吐き気に足下がふらついた。

「目をそらすな」

 近江に言われて、私は堪えた。そうだ。私はすべてを見届けるために、最後のわがままで連れて来てもらったのだ。

「レンディーデが2人……?」

 後ろでお兄様の愕然とする声を聞いた。これだけそっくりだとそうも思うだろう。説明しようとしたが上手く頭が回らない。下手くそな私の説明を見かねた熊谷がお兄様に簡単に事情を説明をしてくれた。

 何とか足を動かして菊池に歩み寄ろうとしたが、足も上手く動かない。それに気付いた羽叉麻が私を支えてくれた。よかった、羽叉麻も無事だったようだ。私は本当に助けられてばかりだ。

「菊池……」

 視線を合わせるためにしゃがもうとしたが、力が抜けて座り込んでしまった。

「大丈夫? ひどい事されなかった?」

「あ……」

 菊池は何度か瞬きして、私に目の焦点を合わせた。

「ああ、うん……大丈夫。声出すの久しぶり……」

 菊池は大きく息を吐いた。そうか、しゃべるとバレるから、今まで声を出さなかったのか。

「びっくりして……ちょっと頭が回らなくて」

 当然だろう。こんな危険な目に遭わせてしまったのだから。

「本当にごめんね。怪我は?」

「怪我はないよ。なんかみんながあんまりすごくて……」

 菊池は部屋を見渡した。

「騒がしくなった途端に、みんなすごい勢いで暴れ始めて。確か犬養さん達は手錠をかけられてたはずなのに」

「とっくに外してたよ」

 ダークグリーンのジャケットを羽織った男が振り向いて笑った。菊池と共に連れ去られた3人のうちの1人か。

「俺達も姐さんも、手錠抜けの訓練くらい受けてるからね。まぁ、姐さんはちょっと尋常じゃない拘束されてたけど」

「あれだけ暴れたんだから当たり前です」

 もう1人のダークグリーンのジャケットを羽織った男が呆れたようにそう言って書類を放り出した。

「大人しくしていればそんなに殴られたりしなかったでしょうに、わざわざ挑発に乗って暴れるからそんな目に遭うんですよ」

「お前は本当に可愛くねぇな!」

 犬養は悪態をつくとひっくり返ったソファに腰掛けた。

「少しは反省してください。俺達がいなかったらどうなってたと思ってるんです?」

「あんな事言われて黙ってるくらいなら、言い返して殴られた方がマシだ!」

 何を言われたかはわからないが、犬養の事だから5倍くらいにして言い返したに違いない。

「ホント、みんなすごい勢いで、警備していた人達をなぎ倒して、なんか俺、夢でも見てんじゃないかと思った。嘉月なんか本当に撃ち殺しちゃうんじゃないかと思ったよ」

「ちょっと頭に血が昇ってたからな」

 そう言って、華歳は大事そうに菊池の肩を抱いた。

「全部片付けてくれたのね、近江」

 振り向いて尋ねると、近江は腕を組んでドアに寄りかかったまま、視線を更に奥へ向けた。

「親玉以外はな」

 羽叉麻とお兄様に支えられて何とか立ち上がると、奥から何かを引きずるような音が近づいて来た。

 さっきグランドチェロキーの中にいた大きな黒い犬、明丹だった。口に何かをくわえている。

 手足の自由を奪われた、おじさまだった。

「レンディーデ……!?」

 血走って驚愕した目が、私と菊池を何度も見比べていたが、こちらには菊池の存在を説明する気になれなかった。

「おじさま……なんて姿に」

 スーツはぼろぼろ、髪も乱れて、王宮で見かけた頃の威厳は消し飛んでいた。声を発した私に、おじさまはどちらが本物の私か理解したようだった。睨んでくる視線の憎悪の色が強くなる。

「ネスフェリカ王家の者として、あなたのした事は許せる事ではありません。速やかに国に送還し、しかるべき機関でしかるべき処罰を受けて戴きます」

「馬鹿王女が偉そうな事を!」

 おじさまは形相を変えた。きっとこれが、この人の本性だったのだろう。ずっとこの本性を隠して、王家を乗っ取ろうと仕組んだ。私がもっと早くそれに気がついていれば、お父様もおばあさまも命を落とすことなく、お兄様だってこんなに苦しい思いをしなくて済んだかもしれない。

「今の時代、王家に生まれただけで国を動かせるとでも思ってるのか? お前のわがままには国民すべてがうんざりしてるんだ!」

 耳が痛い。多分それは本当の事なのだろう。

「……返す言葉はありません」

「なら大人しく俺に国を渡せ! お前よりはマシな政治を敷いてやる!」

 そうなのかもしれない。何も知らない私では、例えお兄様の力を借りても、国は富まないかもしれない。

「ならば、国民に問うてみればいい」

 お兄様が私をかばうように前に出た。

「王を殺し、皇太后を殺し、次期王となるべき人間をも手にかけようとした男に国を任せられるか、国民の前で問うてみるといい」

「貴様も同罪だ! 貴様もレンディーデを殺そうとしただろう!」

 お兄様は一瞬表情を歪ませ、そして吐息した。

「私が殺したかったのは、国にも国民にも王家にも興味を持たない愚かな妹だ。もうそんな人間は、どこにもいない」

「きれいごとを! 俺を処罰すると言うのなら王子も同罪だ!」

「もちろん処罰は受ける。私は王位継承権を放棄し、王家からも名を消そう」

 驚いてお兄様を見上げると、強い視線とぶつかった。

「私は過ちを犯した。その罪で王家を穢したくはない」

「でも、お兄様はおじさまにそそのかされただけで……」

「それは違う。私は己の中の解き放ってはいけない獣を解き放ってしまった。誰に何を言われてもねじ伏せなければならなかったのに、私は最後の最後で自分の甘さに勝てなかった。それは決して許される事ではない。その贖罪として、お前の事は全力で支える。私個人としてだ」

 あれだけ王家に固執していたお兄様が。

 ああ、これが覚悟なんだ。責任を取る事、自分の後始末をつける事、強い意志を持つ事。何もかもを受け止めて迷わない事。

 華歳に言われた、自分のなりたい人間になる『覚悟』、近江に言われた玉座に座る『覚悟』

 血生臭い室内で、私は息を吸い込んだ。

 私の名は、レンディーデ・ネスフェリカ。

 ネスフェリカ王国の第一王女だ。

 だからみんなが私にかしずく。なぜなら私の双肩には国民の命と生活が乗っているから。

 私はこの両腕に国を抱え、決して落とす事なく、最後の鼓動の1音が鳴り終えるその時まで、命を賭けて護ってみせる。

 私にはお兄様がいる。スターバー達もいる。もう1人ぽっちだなんて思わない。

「あなたにネスフェリカは渡さない。王家の血に賭けて、私達が次の世代へ引き継がせます」

 明丹が口を開けたので、おじさまは床に顔面をぶつけた。

「そろそろ警察を呼んでもいいか?」

 近江がそう言ったので、私はうなずいた。あとは私達がやらなければならない事だ。

 羽叉麻が私に近づいてにこりと笑った。

「ナイフ、返してくれる?」

 そういえば借りたままだった。ポケットから出して羽叉麻に渡すと、羽叉麻はその場でナイフの鞘を抜き、切っ先を人差し指で押した。すると、刃先はぴょこんと柄に引っ込んだ。

 オモチャだったのだ。

 騙されたはずなのに何だかおかしくて、私は吹き出した。

「……レンディーデ」

 静かなお兄様の声に、私は隣を見上げた。

「さっき『私達』と言ってくれたな。……ありがとう」

「あら、お礼を言うのは早いんじゃないかしら。これから私にとんでもなくこき使われると思うわよ、お兄様。なんせ私は国民すべてがうんざりするほどのわがまま馬鹿王女だったんだから」

「『だった』だろう? お前の作る国は、きっと豊かで平和になる」

「それにはお兄様の協力が不可欠なんですからね。まずは反省と謝罪から始めなきゃいけないんだから、ものすごい苦労が待ってるわよ、お兄様」

 お兄様は初めて見るような笑顔を見せた。

 今までたくさんの笑顔を見てきた。召使い達の貼り付けたような笑顔、貴族学校の学友達の引きつった笑顔、おばあさまの悲しげな笑顔。

 笑顔なんて本音を隠すためのものだと思っていた。でもそれは違った。だって、克己のあどけない無邪気な笑顔や菊池の親しい友人に見せるような笑顔、そしてお兄様のこの笑顔が、何かを隠しているようには見えなかったから。

 ああ、嬉しいとはこういう事。その笑顔を引き出したのは、私の力なのだという誇らしさ。

 でも今は、まだその嬉しさを素直に喜べない。なぜか泣きたくなってしまうから。

 遠くからパトカーのサイレンが近づいてきた。

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