王女の追跡
入れ替わり前日、私は克己にお礼を言った。
私が色んな事に気付く事ができたのは、この克己のお陰だ。自分から誰かにお礼を言うなんて、もしかしたら初めてかもしれない。
克己は私に折り紙で作った鳥をくれた。鶴らしいが、それにしては不格好だ。それでも、今までのどの贈り物より1番嬉しかった。
大事に押し頂いて、私はもう1度お礼を言った。
明日にはもう克己とは離ればなれになってしまう。もう会う事もできないかもしれない。
「私がもっと勉強していい王女になって国が平和になったら、菊池と一緒に遊びに来てくれる?」
「うん!」
差し出された手を、私はそっと握り返した。きっとまた会える。そんな気がした。
今頃菊池は何をしているだろう。怖い思いをしていないといいけど。
そう考えていると、克己は急に「ごめんね」と言った。
「何がごめんなの?」
克己はしょんぼりして私を見上げた。
「だって、お姉ちゃんを泣かせちゃったから……」
この間の夜の事だろうか。だとしたら克己に責任はない。
「克己のせいじゃないよ」
「僕のせいだよ。僕、お兄ちゃんと約束したのに、お姉ちゃんを守るって言ったのに、僕が泣いちゃったから……」
「それは違うわ」
私は克己の目を覗き込んだ。
「あれは私が悪いの。泣いてる克己を見たらね、私は本当に甘えてたなぁって自分が情けなくなってね」
「お姉ちゃんは何も悪くないよ。だって、お姉ちゃんも寂しかったんでしょ?」
寂しい。その言葉はなぜか胸に深く突き刺さった。
「お姉ちゃんはたった1人で外国まで逃げて来たんでしょ? 大切な人と離れて、たった1人ぽっちで、心細かったんでしょ? きっと僕よりずっと寂しかったよね。なのに僕、我慢できなかった。僕も寂しくて、お兄ちゃんがいなくて、いつ帰って来るかもわからなくて、もしかしたらもう会えないんじゃないかと思ったら、我慢できなかった……」
克己はうつむいた。この子は今も寂しさと戦っている。私は思わず克己の小さな体を抱きしめた。子供の身体がこんなに温かいなんて、初めて知った。いや、子供に限らず、私は誰かの体温というものを知らなかった。
「そんな事ない。あなたは偉い。私なんかよりずっと偉くて立派」
「お姉ちゃんの方が偉いよ。僕、いい子で待ってるってお兄ちゃんに言ったのに、きっとお兄ちゃんだって寂しいのに、僕、自分の事ばっかりで、いい子じゃなかった。お姉ちゃんはちゃんと1人で我慢してるのに」
「そんな事ないわ。あなたほどいい子なんて私、見た事ないよ。必ず私が菊池に会わせてあげるからね」
「本当?」
今まで、私は誰かと約束をした事がなかった。私が下す命令を守らせる事は散々してきたけど、誰かと交わす約束を大事だと思った事がなかった。思えば大好きだったおばあさまとの約束でさえ、守った事がなかったように思う。
でも、この子との約束は守りたい。それはとても価値のある大切な事のように思えた。
「約束するよ」
そう告げると、克己は花のような笑みを見せた。なんて無邪気な、可愛らしい笑顔なのだろう。笑顔とはなんて素敵なものだったんだろう。
「じゃあ僕も約束するね。もう泣かないよ」
僕の寂しさがお姉ちゃんに伝染らないように。そう笑う克己に、私は胸が苦しくなった。
この子は、私のせいで兄と引き離された事をわかっている。それでも決して私を責めようとはしない。本当にこの子は私の何倍も偉く、何倍も強い。
この子を見習わなくては。
最後にもう1度ぎゅっと抱きしめてから、私は手を離した。
「さ、もう寝よう」
明日から忙しくなる。
着替えようと衣服のボタンに手をかけたその時、不意に携帯電話が鳴った。
華歳から渡された緊急用だ。一気に緊張して、慌てて通話ボタンを押した。
『今からそっちへ行く。すぐに支度しろ』
「何があったの?」
『車中で話す』
通話はすぐに切れ、私は上着を掴んで部屋を飛び出した。
「お姉ちゃん!」
「あなたはここにいなさい!」
ついて来ようとする克己を、私は叱責した。克己だけは、決して危険な目に遭わせる訳にはいかない。この子は守られなければいけない価値のある子供だ。いや、価値なんて関係ない。私が守りたい、そう思うから。
「大丈夫。必ず菊池をここに戻してあげる!」
玄関のドアを開けて飛び出すと、華歳がエレベータのドアを開けて待っていた。
「乗れ!」
飛び乗ると同時にドアは閉まり、エレベータは降下を始めた。
「まさか、菊池の身に何かあったの?」
「屋敷に火を放たれた」
「火を……!」
華歳の顔色が悪い。手は固く握りしめられたままだ。
「騒ぎが収まった後の移動中にかっさらわれた。COETの面子が3人ほどついているらしいが、たった3人でどこまで持ちこたえられるか」
エレベータが開くと同時に飛び出した華歳に続いた。マンションの正面にはすでにグランドチェロキーが待っていて、後部座席を開けてこちらを見ている男がいた。
「早く乗って!」
羽叉麻だった。あの柔和な笑みを消し、険しい表情をしている。
華歳に荷物のように押し込まれて、ドアが閉まると同時にグランドチェロキーは発進した。
「飛ばすから掴まってな」
運転席にいた、羽叉麻と同じダークグリーンのジャケットの男がそう言ったのと同時に、夜の住宅街にタイヤのきしむ音が響いた。
「わふ」
急に聞こえた変な声に驚いて顔を上げると、助手席に巨大な犬が乗っている事に気付いた。あまりの大きさに羊かと思った。
「COETで訓練してる犬だよ。とても賢いから怖がらなくていい。それより聞いて。運転してたのは犬養の姐さん。護衛にはあと2人。スターバー氏は片目を吹っ飛ばされる重症だけど、とりあえず命に別状はない」
「片目を……!」
私のせいだ。私にさえついて来なければ、そんな事にはならなかったのに。どんな言葉で詫びればいいのかわからない。
「反省はあとでね。連中は姐さんの車を空港へ誘導してる。そのまま飛び立つ気だ」
「待て。なぜ空港だ? 連中は王女を殺してぇんじゃなかったのか?」
「事情が変わったんだよ。あ痛! ちょっとパンサー、もう少し優雅に運転できないの?」
急カーブにさしかかって、羽叉麻は頭をぶつけた。運転席にいる男はどう見ても日本人だから、パンサーというのはきっとニックネームか何かなのだろう。
「優雅な運転方法なんか知らねぇよ。べらべらしゃべると舌咬むぜ、羽君。あとは俺が説明する」
運転手は乱暴な運転を続けていた。どっちに向かっているのかまったくわからない。
「キコヒーと王子の仲間割れだ。王女を殺した後での権利を巡って決裂したらしい」
「じゃあ」
華歳が私を押しのけて運転席に身を乗り出した。
「朱己を誘拐したのはキコヒー側か!」
「正解!」
またグランドチェロキーはお尻を振って90度曲がった。口から内臓が飛び出しそう。
「王子にはすでに王位継承権があるからな。キコヒーが王権を握ろうとするなら、どうしても王族直系の傀儡が必要だ」
「今や王女を手に入れようとするキコヒー側と、それを阻止して王女を殺したい王子側、それに俺達の三つ巴だよ。俺は今までそれを大地と探ってたんだ」
甲斐大地というのは確かキャラメルをくれた、髪の長いたれ目の男だ。あの男もまた、近江のような何らかの力を持っているのだろうか。
そんな私の思惑を見透かしたように、羽叉麻は揺れる車の中で必死にシートに掴まりながら説明を始めた。
「大地はCOETのメンバーではないけどね、日本の裏経済のドンと言われている人物と繋がりがあるんだ。今は詳しく説明している時間はないけど、心強い協力者なのは確かだから」
王春学園は政財官界の血縁者が多く通う学園だと聞いているから、多分甲斐もその1人なのだろう。せっかくくれたキャラメルを即座に捨てた私を助けようとしてくれるなんて。
私は守られている。その価値が私にない事は私が1番よく知っているのに、それでもこんなにも協力してくれる人がいる。
例えそれが私のためだけではなくても、菊池や近江や、他の誰かのためでもいい。私はその思いに応えなければならない。
私を殺したいお兄様も私を傀儡にしたいおじさまも、今は菊池の事を私だと思っている。絶対に菊池を守らなくてはなくては。
あと1日入れ替わるのが早ければ、菊池をこんな目には遭わせはしなかったのに。そもそもどうして私は菊池をおとりにするなんて作戦に従ってしまったのだろう。自分は守られて当然と思っていたあの時の自分を殴りたい。菊池がどんな気持ちでおとりを申し出たのか、なぜ考えなかったのだろう。
菊池にもしもの事があったら、克己をどれだけ悲しませるだろう。
いやだ。もう2度と克己の涙は見たくない。
「羽叉麻は、近江と付き合いが長いって華歳が言ってたけど、最初からCOETにいたの?」
質問すると、羽叉麻はちらりと華歳を見た後に私を見た。
「どこまで華歳に聞いたか知らないけど、俺はCOET設立時から10年の付き合いだよ」
では近江の壮絶な過去を知っているのだろう。今が18歳で10年前という事は、お母様とお姉様を亡くした時、近江はわずか8歳。たった8歳で家族の死を乗り越え、犯罪そのものに復讐するために対犯罪組織を設立するに至ったというのか。頭が下がるどころの話じゃない。よくぞそんな事を思いついたものだ。そのお陰でいま私はそのCOETに守ってもらえている。もし近江がCOETを設立していなければ、警察や政府がおじさま達に抱き込まれている現状、誰も私を助けてくれる人はいなかったに違いない。そうだとすると、お2人には迷惑な話だろうが近江のお母様とお姉様は間接的に私の命の恩人となる。
もし私にもお父様とおばあさまの死を乗り越えて成せる何かがあるのなら、お2人のためにも近江の力になりたい。
今の私には何の力もない。自分の身ひとつだって自分で守る事もできやしない。
だけど必ず生き抜いて、私は国に帰る。国に帰って全部やり直して、王女として誰かを助けられる人間になりたい。
「私、後悔してるの。心の中が後悔でいっぱいで溢れそう。もうこんな思いはしたくない。だから羽叉麻、お願い、菊池を助けて」
羽叉麻は驚いたように瞠目して私を見た。
「……なんか急に殊勝になったね。何かあった?」
「それ、華歳にも言われたわ。色んな事がたくさんわかったの。でも今は恥ずかしすぎて説明できない」
自分がどれだけ思いやりがなくて他人の心を踏みにじってきたかなんて、とても口にできない。
「朱己は今どこだ!?」
華歳が叫ぶ。
「COETの車両にはすべてGPSがついている。意地でもラークより先に着いてやるぜ」
「ラーク? ラークってのは確かヘリ操縦士の……っ!」
乗り出しすぎた華歳が、何回目かの急カーブで助手席のシートに体当たりをした。犬は驚いて華歳を見たが、決して牙を見せたりはしなかった。賢いというのは本当のようだ。
「俺ぁサバンナ育ちでジープの運転にゃ慣れてんだ。首根っこ押さえてな!」
グランドチェロキーが更にスピードを上げた。夜だし両脇に華歳と羽叉麻がいるのでどこを走っているのかまるでわからないが、高速道路である事を祈る。高速道路でも怖いけど。
「痛ってぇ……! 近江は何やってやがる!?」
「空に網張ってる。飛び立たれちゃそれまでだからな。最悪ネスフェリカのエアフォースに穴開けてでも止める気だ」
「そんな真似してみろ! 朱己の命に関わるだろうが! ぶっ殺すぞてめぇ!」
「だから急いでんだろうが! 大人しく座ってろ!」
また急に方向を変えられて、私は羽叉麻を飛び越えて頭を打った。