王女の覚醒
私の当面の居場所は、マンションの最上階となった。
あれだけ焦がれていた普通の生活ができるというのに、ちっとも嬉しくない。心は痛いままだ。
菊池は両親と離れたのち、従姉妹の華歳によってこのマンションをあてがわれたのだと克己が教えてくれた。
克己はその境遇のせいか、5歳とは思えないほど大人びていた。私へ対する態度も兄に似て丁寧だ。
華歳が一緒にそこに住むのは不自然なので、同じマンション内の空き部屋に仮住まいする事になった。
克己は一生懸命私の世話を焼こうとしてくれた。客間で寝るかとも聞かれたが、これから先どれだけこの生活が続くのかわからないし、できるだけ菊池になじみたいと思ったので、菊池のベッドで眠る事を選んだ。
菊池の部屋はきれいに片付いていた。小さなベッドと小さな机だけの小さな部屋。テレビもパソコンもオーディオすらない。その代わり、学生服をしまおうと開いたクローゼットの中に大量の本を見つけた。
菊池の部屋の隣が克己の部屋のようで、何かしたい事があればここにいるからと教えてくれた。
克己と私は、たくさんの話をした。
寂しいかもしれないけど、僕が一緒だから大丈夫だよ。普段はお兄ちゃんがお食事のお支度をするけど、明日は嘉月お兄ちゃんのお手伝いさんがお食事を届けてくれるそうだよ。僕も時々お料理のお手伝いをしているから、多分大丈夫だよ。ここがお兄ちゃんの教科書とノートがあるところだから、明日はここから必要な物を持って学校へ行くんだよ。僕は嘉月お兄ちゃんのお使いの人に王春学園の幼稚園まで送ってもらってるんだ。僕の方が帰ってくるのが早いから、おかえりなさいって言ってあげるね。
世話好きの克己と、私はずいぶん長い事話した。こんなに長く話すのは、おばあさま以外とは初めてかもしれない。祖国のみんなはできるだけ私と関わらないように避けていたから。
「克己、あなたご両親はどうしたの?」
「お母さんは、僕が生まれた時に死んじゃったの。『のうしゅっけつ』だったんだって」
では、克己は母親を知らないのだ。それが具体的にどんな人生なのか、お母様が存命の私にはわからなかったが、そのお母様がおじさまと結託して私を殺そうとしているのだから、存在すればいいというものでもないのかもしれない。
「お父さんは、いま新しいお母さんと暮らしてるの」
「どうして一緒に暮らさないの?」
そう尋ねると、克己は悲しそうな顔をした。
「僕のせいなの」
克己は小さな手をぎゅっと握った。
「新しいお母さんは僕が嫌いだったの。僕がもっと上手に我慢できれば、みんな一緒にいられたんだけど、お兄ちゃんが僕の怪我を見つけて、新しいお母さんと喧嘩して、僕を連れて家出したの」
ニュースか何かで見た事がある、虐待と呼ばれるものだろうか。それでもこの子には、助けてくれる兄がいる。私の兄は私を殺そうとしているというのに。
「お父さんは、僕達より新しいお母さんの方が大切なんだって。そうしたら、お兄ちゃんが嘉月お兄ちゃんにお話しして、おじさんに頼んでくれたの」
「おじさん?」
「嘉月お兄ちゃんのお父さん。死んじゃった僕らのお母さんのお兄ちゃんなんだって」
この子の叔父はこの子達を助けてくれた。でも私の叔父は私を殺そうとしている。
「あなた、恵まれてるわよ。本当に幸せだわ」
克己はことんと首を傾げた。こんな子供に、兄や叔父が自分を殺そうとしている今の私の気持ちなんかわかるわけがない。
やっぱり私は不幸だ。この子のように誰かが助けてくれたりしない。守ってくれる人なんかいない。
この子は幸福だ。いつも誰かに守られて、助けてもらえる。
腹立たしくなって、私は「もう寝る」と克己を突き放して菊池の部屋にこもった。
これから先どうなるんだろう。
お父様とおばあさまが亡くなるだなんて、これからいったいどうしたらいいんだろう。
お兄様とおじさまは、私を殺してまでどうして王家なんかを手に入れたいのだろう。欲しいと言ってくれたら、そんなもの喜んで差し出すのに。
運良くすべてが片付いて国に帰れたとしても、私はどうやって生きていけばいいのだろう。周り中敵だらけの中で、誰1人頼れる人もいないまま、いつ誰に殺されるかと怯えながら過ごす事になるのだろうか。
女王になんか絶対になりたくない。そんな事になれば今以上に自由なんかなくなる。
みんなに嫌われて、それがわかっているのにへらへらと笑いながら私に従う者達のもとで、たった1人でどう過ごせばいいというのか。心が折れそうだ。
色々考えていると眠れなくて、私は横になっていた小さなベッドから上半身を起こした。こんな時、王宮だったら誰かにホットミルクを持って来させていた。でももう、ここには誰もいない。
誰も、いない。
心細くて悲しくて、涙がこぼれた。
どうしてこんな事になってしまったんだろう。私が何をしたというんだろう。
王家に生まれただけで、命を狙われる。利権を巡って誰かの駒にされる。誰も何も教えてくれない。
私は1人ぽっちだ。
誰でもいいから傍にいて欲しくて、私は起き上がってそっと部屋を出て、隣の部屋のドアを開けた。この際克己でもいい。
しかし、ドアを開けた私ははっとした。
克己が泣いていたからだ。
照明を消した部屋のベッドの上で1人きりで、タオルケットを口に押し当てて声を殺し、小さな体を震わせてはらはらと涙をこぼしていた。
その時、私は金槌で思い切り頭を殴られたような感覚に陥った。
寂しいのだ。克己は。兄と離れて1人で眠る事が、寂しくてたまらない。
でも泣けば私に聞こえてしまうから、口にすれば私に迷惑をかけてしまうから、誰にも何も告げず、1人ぽっちで耐えている。
こんな幼い小さな体で、自分に降りかかる災難に必死に耐えようと、一生懸命我慢をしている。もしかして虐待を受けていた時も、こんな風に耐えていたのだろうか。
私は今まで、克己のような我慢をした事があっただろうか。
こんないとけない子供ですら自分の力で何とかしようと堪えているのに、私は私自身の力で何かをしようとした事があっただろうか。何ができるか考えた事があっただろうか。いつも誰かがなんとかしてくれるのをただ待っていただけではなかったか。
何にもできない。
私は、こんな幼い克己1人、寂しさから救う事もできない。
突然、何かが決壊したようにどっと涙があふれた。
私は間違っていたんだ。彼らの言う通り、私は確かに無能で無力な王女だ。
どうしてもっと周りを見なかったのだろう。今までこんな思いをたくさんの人にさせていたはずなのに。
お父様とおばあさまを殺したのは私だ。私がしっかりしていれば、あの2人を守れたかもしれないのに。
スターバーだって、私のSPなんかするよりお兄様やおじさまに付いた方が遥かに楽で安全だったはずだ。それなのに、日本へ付いて来てくれた。私なんかを守るために。こんな無能な私に。私はそんな彼らが羽叉麻や近江に横柄な態度をとられた時に、守ろうともしなかった。
今なら、おばあさまが悲しそうな顔をしていた理由がはっきりとわかる。私があんまりわがままで自分の事しか考えていないから、それが悲しかったのだ。
私を日本へ逃がすために、おばあさまやスターバーはどれだけ苦労をしただろう。私はそれを今の今まで思いやる事もしなかった。
それどころか、みんなが私を必死に守ってくれていたのに、事もあろうに私は逃げ出そうとした。
こんな私なんかに、お兄様とおじさまが国を預けようとしないのは当然だ。まったく信用されていなかったから、何も事情を告げられなかったんだ。
みんな他人のせいにしてた。知ろうともしなかった。私は悪くないと思っていた。
ホットミルクをいれていたあの召使いだって、きっとお兄様とおじさまの息がかかっていたに違いない。なのに私が無事だったのは、スターバーを始めSPのあの4人が私に何も言わず気を配ってくれていたからだ。この克己のように。
こんなにも守られていた。なのに、私は何も見ようとしなかった。
私のために、近江も羽叉麻も菊池も華歳も、いったいどれだけいやな思いをしただろう。あれだけ信頼し合っている華歳と菊池を引き離し、こんないたいけな克己にまで泣くほど辛い思いをさせている。
克己が恵まれてる? 自分の方が不幸? とんでもない。母親からの愛情を一切知らない克己が幸せなわけがない。継母に虐待された克己が幸せであるはずがない。家族のために暴力を振るわれても我慢を重ねた克己がどんな思いだったか。その克己を見て菊池がどんな気持ちだったか。親に捨てられた2人がどんな思いをしたか。
自分以外の誰かも自分と同じ人間である事を、私は本当の意味でわかっていなかった。何の根拠もなくただ王女だというだけで、自分は特別だと思い込んでいた。
こんな子供ですらできる事が、私は18になる今まで考える事すらしなかった。
悲しくて情けなくて、私はしゃがみ込んだ。涙が止まらない。
今まで誰かの気持ちを考えた事がなかった。ありもしない不幸を無理矢理作り上げて、それにどっぷり浸っていい気になっていた。自己憐憫の海が私の世界の全てだった。
なんて狭い世界だったのだろう。なんて独りよがりな人生だったんだろう。
与えられるのが当然の人生だった。その享受に感謝した事が1度もなかった。
与えられた分だけ誰かに何かを与えようという考えもなかった。それがどれだけありがたい事か、想像してみた事もなかった。
克己は兄を思って我慢した。だから菊池や華歳が助けてくれた。私は誰かを思って何かをした事がない。本当に、1度もない。そんな人間を誰が助けたいと思うだろう。なのにみんなは手を差し伸べてくれた。それが義理でも仕事でも差し伸べてくれた事実には変わりはないし、それは例えようもない僥倖だったはずだ。なのに私はその手を全て払いのけ、みんなの気持ちを踏みにじり続けて来た。
ごめん、みんな。本当にごめんなさい。許して。
涙が止まらなくて、嗚咽を堪えるために歯を食いしばるのが精一杯だった。泣いてどうする。何も解決しない。わかっているけど、自分の心の貧しさが情けなくてたまらない。
その時、ふと頭に何かが触れる感触がして顔を上げると、気づかないうちに近づいていた克己が精一杯手を伸ばして頭をなでてくれていた。
自分だって辛いのに、私を気遣ってくれる。私と違ってなんて優しい子なんだろう。おばあさま以外の誰かに頭をなでられるだなんて、いったいいつぶりだろう。
「……本当にごめんね」
何とか言葉にして謝ると、克己は自分のタオルケットで私の涙を拭い、私の手を引いた。
「……どこへ行くの?」
引かれるまま部屋を出ると、克己はキッチンへ向かった。
小さい身体で電気ポットに水を用意してスイッチを入れ、そしてカップを2つ出して、小さな箱を取り出した。『ココア』と書かれていた。
カップにココアの粉と砂糖を入れ、沸騰したお湯をちょっとだけ入れて丁寧に練る。そしてまたお湯を足して、それからミルクを入れた。
知らなかった。ココアってこうやって作るんだ。
「どーぞ」
克己はカップの1つを私へ差し出した。飲めという事だろう。
ココアは、正直砂糖の入れ過ぎで甘ったるくて、そのくせココアの苦さが残っていた。ミルクだって冷蔵庫から出してすぐに入れたから、変に生温い。
それでも克己は、大好きな兄と引き離した元凶である私なんかのために、自分にできる精一杯を考えてくれたのだろう。自分だって泣くほど寂しいくせに。
また涙が出て来た。克己ですら私にココアを淹れる事ができるのに、私には何一つしてあげられる事がない。
私はなんて王女として無能で無力で、そして人として恥ずかしい人間なんだろう。
「お兄ちゃんがね、いつも僕が泣いているとココアを作ってくれるの。僕、それがとても嬉しかったの」
克己が心配そうに見上げて来た。もうココアが甘いんだか苦いんだか塩辛いんだかわからない。
「美味しいよ。こんなに美味しいココア、飲んだ事ない」
この味を、私は一生忘れない。
翌朝、私は華歳に学校まで送ってもらった。リムジンだと不自然じゃないかと思ったが、私がそう尋ねる前に「これが俺のスタンダードだ」と言われた。聞けば、近江達が用意したあの別邸も華歳の所有物らしい。
昨夜のあの後、克己に華歳について少し聞いた。華歳は日本というより世界でもトップクラスの大企業の御曹司なのだそうで、私は一国の王女としての自分の物の知らなさに恥じ入った。もしかしたら華歳個人の持つ株だけでもネスフェリカ王国の国家予算に匹敵する額かもしれない。菊池と克己の母親が生きていた頃はよく一緒に過ごしたそうだが、亡くなって以降は疎遠だったらしく、克己は兄と2人で暮らすようになって初めて華歳と会ったのだそうだ。菊池兄弟の父親が中小企業の社長だったと聞いた時、私にはその理由がなんとなくわかるような気がした。
菊池達の父親は、義理の兄が世界的大企業の跡取りである事が妬ましくなったのだろう。多分援助も受けていただろうし、だとすれば立場は下だったに違いない。どうあがいても同じ土俵に上がる事は難しい相手と同じの血を引く子供達を、自身の実子であるにもかかわらず疎んでしまったのだろう。それほど義兄が妬ましかったのではないか。
父親の気持ちがわかるのは、私もそうだったからだ。私もお兄様が妬ましかった。お父様をはじめ、お兄様は色んな人に大切にされていた。お兄様は次期国王なのだから大切にされるのは当然なのに、私だって大切にされていたのに、それはとても不公平な扱いのように勝手に思い込んでしまっていたのだ。学校だって、私は貴族学校だったのに、お兄様は学力重視のきちんとした学校に通っていた。同じように家庭教師をつけられても、私は成績が落ちても何も言われなかったのに、お兄様は周囲が心配して色々と手を尽くしていた。
今思えば、それだけお兄様の方が厳しい扱いをされていたという事だ。公平どころか、私には甘く優しくしてくれていた。私はそれが全然わかっていなかった。私は気にかけてもらえていないから成績などどうでもいいし、何も言われないのだと思っていた。
菊池と克己の父親が私と同じくらい馬鹿だったなら、きっと今頃後悔している事だろう。自分が大切に思い、自分を大切に思ってくれていた家族を、自分の感情に負けて失ってしまったのだから。
従姉妹として幼馴染として親友として菊池とそのピアノを支援していた華歳は、突然疎遠にされて戸惑い、そして克己の虐待を知ったらしい。
華歳は菊池のピアノを高く評価していて、いつかプロのピアニストになるのを楽しみにし、応援していた。それを、横合いから見ず知らずの女が出てきて家庭を滅茶苦茶にした挙句、菊池からピアノを取り上げようとした。菊池自身が克己と2人で生きていくためにピアノどころか高校を辞めて働こうとしたからだ。
華歳は激怒し、菊池の父親と手を切るよう自分の親やその他親族に手を回した。そして菊池兄弟を自分の持つマンションに住まわせ、あらゆる生活支援を行った。それだけの価値を、菊池兄弟に持っているのだ。華歳は一人っ子だそうだから、菊池達を兄弟のように、家族のように思っているのかもしれない。
そんな大事な菊池の代わりに私の傍にいるのはさぞ苦痛だろう。私は学校に着くまで黙っていた。
学校へ着くと、早速初見が挨拶してきた。
「おはよう。昨夜は眠れたか? 信用できる友人達に、君の事は色々頼んでおいたから心配いらない」
初見は校門まで出迎えてくれただけでなく、教室まで案内してくれた。
「しゃべるとバレるから、風邪をひいた事にして欲しい。マスクを用意した」
用意周到だ。私はマスクを受け取った。
初見や他の『信用できる友人達』のフォローのお陰で、何とか無事放課後を迎える事ができた。こんな日があとどれくらい続くのだろう。
華歳が迎えに来ると言っていたので校門の陰で待っている間、初見が傍にいてくれた。初見は生徒会長だと言っていたから忙しいだろうに。
「ねぇ」
「何だ?」
「菊池の事、教えて」
華歳にあれだけ大事にされて、あんな笑顔を作れて、克己にあんなに思われている人。華歳が来るまでの時間つぶしにと言うと、初見は両手を組んで考え込んだ。
「そうだな。致命的にドジな部分がある」
「それから少し人見知りする。俺も初めて話した時は妙に警戒されたものだ」
「地理とミミズが大の苦手で、読書が趣味だ。部屋に大量の書籍があっただろう?」
「ピアニストを目指していて、ピアノの腕は個人的にはプロに匹敵すると思っている。本人はまだまだだと言っているがな」
「料理が得意で、どんくさい割には面倒見がよく弟思いだ」
「だが、少々頑固な傾向がある」
「音楽家を目指しているせいか、人一倍耳がいい」
菊池を語る言葉は尽きる事がない。一通り語り、そして初見はふと空を見上げた。
きっと、いま菊池が何をしているのか、無事なのか、そう思いを馳せているのだろう。初見にとっても菊池は大事な友人なのだ。
「……ごめんなさい。私のせいで菊池を危険な目に遭わせてしまって」
初見はやや目を細め、そして私を見下ろした。
「大丈夫だ。あいつはドジだが、運はいいから」
初見がふと笑って見せた時、華歳のリムジンが校門に停まった。
「乗れ。初見、どうだった?」
「安心しろ。何もない」
「ならいい。明日も頼む」
華歳は横柄に短い会話を終わらせると、私が乗車するのを待ってリムジンのドアを閉め、発進させた。
「菊池の方は? 無事なの?」
「無事じゃなかったら、俺はここにはいない」
華歳は前を向いたまま、私を見ようとしない。昨日怒鳴り散らしていた華歳を思い出した。どれだけ菊池が心配だろう。
「頼みがあるんだけど」
「あぁ? 厚かましいじゃねぇの」
華歳は不機嫌なままだ。今までの事を考えると、私に好意的にはできないだろう。当然だ。
「おじさまとお兄様を捕らえるにはエサが必要だわ」
華歳は初めてわずかに表情を変えた。
「……何が言いてぇ?」
「近江に言われて授業中ずっと考えてたの。お兄様とおじさまは、いったいどうやって私を殺そうとするだろうって」
私がわがままで自分勝手なのは2人とも知ってるから、誰かを人質に取るという可能性はない。かろうじて人質に取れただろうおばあさまもこの世にはいないし、近江はお母様もお兄様とおじさま側についていると言っていたからそれもない。
「今の菊池は4人のSPと近江達に守られてるから、そう簡単に手は出さないと思う。だから、わざと隙を作るの」
「どうやって?」
「私がわがままなのはみんな知ってるわ。それを逆手に取るの」
華歳の口角がわずかにつり上がった。
「私が日本の生活に耐えられなくて、ネスフェリカのお茶を欲しがっている事にするのよ。日本には売っていないから」
「空輸すればいいだろう」
「本国に頼んで? お茶の代わりに何を送られるかわからないわ。もしスターバーだったら、本国まで取りに行くでしょうね。1人じゃ危険だから数人で」
華歳は初めて私を見た。
「それで?」
「4人全員は無理でも、2人から3人は日本を出た事にする。日本政府と警察が敵に回っているなら、近江も嫌気をさして、警備が適当になるのもありだと思う」
「政府も警察も敵に回ったわけじゃねぇ。傍観する事になっているだけだ。それに、大きな問題がある」
「襲撃された時の菊池の身の安全ね」
精一杯考えた。これが私の結論だ。
「もう1度、入れ替わるの」
「お前が危険になるぜ?」
「かまわない。スターバー達もちゃんと説得するわ」
私は王女だ。王家の不始末で他人を危険にさらすわけにはいかない。何より、克己に悲しい思いをさせたくなかった。菊池にもし何かあったら、あの子は家族を失ってしまう。それだけは絶対に避けたい。
「そんな事を、あの頭の固いSPが了承するとは思えねぇな」
「納得してもらうわ」
これが最後のわがままだと言えば、きっとわかってくれる。
「ずいぶん殊勝になったじゃねぇの」
「しゅしょう?」
「けなげだって事だ」
この程度の事で見直されるだなんて、今までの私は本当に最悪だったって事だ。
隣で華歳が携帯電話の通話ボタンを押した。
今まで、私は散々みんなに守ってもらった。今度は私が守る番だ。
私は変わらなくてはならない。きっと変われる。
別邸での菊池達のやり取りを見ている時に胸が痛くなったのは、生まれて初めて正面から声に出して犬養に「大嫌い」と言われたからだと思っていた。でも違った。私は彼らの互いを思いやる行為に羨望を感じたのだ。
私は彼らがうらやましかった。彼らのような人間関係を築きたかった。
その理想と実際の自分とのギャップに、私の胸は物理的な痛みを覚えたのだ。
あれだけ大好きだったおばあさまが亡くなったと聞いても、驚きこそすれ、私は泣かなかった。まだ亡がらを見ていないせいもあるのだろうけど、きっと私はおばあさまじゃなくてもよかったんだろう。私に優しくして甘やかしてくれる人なら誰でもよかった。そういう人が好きだっただけだ。
ごめんなさい、おばあさま。私は最低な孫でした。
もうお会いする事は叶わないけれど、天国から見ているだろうおばあさまに恥ずかしくないように生きる事を誓います。
今ならもっときちんと大事な事を話せるような気がする。あんな悲しい顔をさせる事なく。
そんな時に限って、何もかも手遅れなんだ。
きっとこういう事を、私はもっと早くに知らなければいけなかったんだ。
でも今の私はそれを知っている。遅かったかもしれないけど、まだまだ足りないかもしれないけど、以前のようなわがままなで物知らずな人間ではなくなったはずだ。
華歳が携帯電話での通話を終えた。どうやら近江と話していたようだ。
「ねぇ、近江っていったい何者なの?」
私の問いに、華歳は少し面倒そうな、そしてどこか苦しげな表情を見せた。
「どうしてあんな大人達を従えて警備まがいの事ができるの? どこかの警備会社と関係が?」
華歳はため息を吐いた。
「あいつは家族を殺されている」
想像していなかった言葉に、私は息を呑んだ。
「あいつがまだガキの頃の話だ。母親は今でも腕1本しか見つかっていない。姉は密輸のために鞄代わりに腹を割かれて麻薬を詰められて死んだ」
平和だと言われている日本で、そんな現実があるなんて。
私は克己を思い出した。あの子もあの年齢で信じられない苦境を乗り越えていたが、近江はそれ以上だ。
「当時はまだ俺は近江とは知り合っちゃいなかったが、羽叉麻がそう言っていた。あいつは近江と付き合いが長いからな」
携帯電話をポケットにしまいながら華歳は続けた。
「あいつの家は、歴史は古いがそれほど権力のある家柄じゃねぇ。だが、あいつはその長い歴史を武器にあらゆる政財官界と渡りをつけ、代理人を立てて会社を経営して利益を確保し、それで対犯罪組織……Crime organization extermination team、通称COETを設立した。俺は、まぁ、友人としてそれを助けてやってるってところだ」
対犯罪組織。そんなものを作り上げようと思うなんて。
「近江って……私と同じ18歳よね?」
「留年したって話は聞いてねぇからそうだろうよ」
同じ18歳なのに、私は近江のように何か成し遂げようとした事があっただろうか。近江よりずっと権力に近い場所にいたのに、それを人のために使おうと思った事は1度もなかった。
華歳はガキの頃と言ったが、一体いくつくらいの時なのだろう。近江はどれだけ傷ついただろう。なのにそれを乗り越えようと努力したのだ。なんてすごい人なんだろう。どれほどの努力を重ねたのだろう。
「一応警視庁管轄の組織としての体裁を保っちゃいるが、実際は日本唯一の地下民間武装組織だ。あいつはCOETをもっとでかくして、いずれ復讐するつもりなんだ」
「復讐って……家族を殺した犯人に?」
「いや」
そう告げて、華歳は正面を見た。
「犯罪そのものに対してだ」
熊谷の言葉を思い出した。
『お前さんとボスじゃ、背負っているものと覚悟が違う』
あの時、私は生まれてよかったと思った事などないと口走った。その時近江はゾッとするような気配をまとった。
なぜそんな態度をとったのかあの時はわからなかったけど、今ならわかる。近江は、殺されてしまった家族の事を思ったのだろう。近江のお母様とお姉様は、どれだけ生きたかっただろう。どれだけ死にたくなかっただろう。なのに私は生きている不満を叫んだ。
私はなんて浅はかだったんだろう。
おばあさまやスターバーが必死に守ってくれている中で、なんて罰当たりな事を口にしてしまったんだろう。熊谷に叱られて当然だ。よくぞ近江に殴られなかったものだ。
確か日本は個人での銃刀類の所持は法で禁止されている。そんな国で武装組織を合法的に設立するなんて、どれだけの労力を必要としたのだろう。並大抵の事ではなかったはずだ。色んなものを我慢したり大切なものを犠牲にしたに違いない。そんな人に、私はなんて甘えた発言をしてしまったのだろう。
黙り込んだ私に、華歳は静かに語る。
「今はまだCOETは小さい組織だ。せいぜい日本国内にしか影響力はない。だがお前を守るりきる事が出来れば、わずかだろうと影響力を強める事ができる」
私はすがるように顔を上げた。
「私でも……こんな私でも、近江や誰かの役に立てる?」
華歳は私を見た。その視線は今までのように氷のような冷たいものではなくなっていた。
「役に立ちたきゃ、覚悟を決めろ」
生きる覚悟。王家の血を引く者としての覚悟。
私は、今までにない気持ちでうなずいた。