王女の葛藤
私の脱出は夢に終わった。
近江によってSP達に引き渡された私は、またみんなにため息を吐かれた。吐き気がする。
「やれやれ」
熊谷がソファで丸太のような足を組んだ。
「いくら女の子のお守りだからって、ちょっと気ィ抜きすぎじゃねぇか?」
「お前は何をしていた!?」
バスルームまで付いて来ていたSPが、そのリーダーらしきSPに頭を下げた。
「申し訳ありません!」
「申し訳ないで済むか! 王女に何かあったらどうするつもりだったんだ!?」
怒鳴るリーダーに、そばかす女が乾いた笑い声を上げた。
「そこまでにしてやんなよ。どうせ外には警官が立ってんだ。逃げられっこない。つか、怒る相手を間違えてんじゃねぇの?」
そばかす女は私を見た。
「自分のしようとした事が周囲にどれだけ迷惑をかけるか全然わかってねぇ、そっちのお嬢ちゃんを叱ったら?」
SPのリーダーが黙った。
「さっきの今だってのに、まったく状況がわかってねぇ。どれだけハッピーな頭してんだ?」
「お前なんかに何がわかるのよ!」
私は怒鳴っていた。
「何の自由もない、指図された通りの毎日を送って友達だってできやしない! 今だって何の説明もされずのけ者にされて、人形扱いされる私の気持ちなんか!」
「うわぁ」
そばかす女は肩をすくめて近江に身を寄せた。
「ボス、何ですかこの馬鹿。本当にボスと同い年なんですか?」
「時間の無駄だ。黙ってろ、犬養」
近江の低く冷たい声に、犬養は再び肩をすくめた。
いま近江はボスと呼ばれた? この下品な集団のリーダーなのか? 私と同じ年齢で、なのに熊谷や犬養のような大人を従えて? なら私をここへ閉じ込めているのも近江なのか。もう何もかもが腹立たしい。
「Mr.スターバー」
近江はSPのリーダーを見据えた。そんな名前だったのか、このSPは。
「面倒だとは思うが、どうにもならん事は王女にも話しておいた方がいい」
「しかし」
「今回我らは孤立無援。これ以上足を引っ張られるのは正直ごめんだ」
スターバーは唇を結び、うつむいた。
「あなたの口から言いにくいのなら俺から言おう。……王女」
近江の視線がひたりと私を射抜いた。
「お前の叔父夫婦は死んではいないし、兄も健在だ」
何ですって?
「お……おじさまご夫婦旅先で行方不明、お兄様も行方不明のはずよ!」
「生きている。お前を殺そうと狙っているのはその2人だ」
すぐには理解できなかった。あの2人が私を殺そうとしている? なぜ?
「い、意味がわからないわ。私を殺してどうしようと言うの? 王位継承権はお兄様の方が上なのよ。私を殺したところで何の得にもならないでしょう」
近江は壁に寄りかかった。座ろうとはしない。
「お前の兄の身体は不完全だ。子孫は残せない」
知らなかった。そんな事誰も言ってくれなかった。
「本当……なの?」
そうだとすれば、お兄様が王になっても王子は生まれない。
「でも、だからどうなの? 養子でも取ればいいじゃないの。それこそおじさまにはお子さんがいたはずよ。血筋はそれで充分残せるはずだわ」
「お前はどれだけ王家に無関心なんだ?」
近江は私を見据えたまま動かない。
「お前の叔父には王家の血は一滴も流れていない。嫁いできたお前の母親の弟なんだからな。現在ネスフェリカ王家の直系子孫を残せるのは、この世にお前しかいない」
近江の言葉は、遅効性の毒のようにじわじわと身体にしみ込んで来た。ゆっくりと追い詰められているような感覚。不快感より恐怖が募ってくる。
「お前の兄は、叔父と共謀してお前を殺そうと狙っている」
「ど、どうしてお兄様まで」
「妹に家督を取られるのがいやなんだろう」
そんな。
「わ、私は、女王になんかなりたくないわ。そもそも王は男性なのよ。お兄様にしかなれない」
「例えそうなったとしても、いずれお前の子供が王位を継ぐ。王子には何も残らない。そもそもそんな事、お前の国の元老院が許すとでも思うのか?」
「元老院なんか関係ないわよ! 私がいやだと言ってるのよ!」
「うぬぼれるな。自分にそんな力があると思っているのか?」
「私は王女よ!」
「ああそうだ。国政にも国民にも国家にも興味のない、自分の事しか考えていない無能で無力な王女だ」
無能で無力。
私をここまで侮辱するなんて。
「……支度をなさい。国に帰ります」
「王女!」
私に近づこうとするSPを睨みつけた。
「お兄様にも元老院にも直接話すわ。それで全部丸く収まるでしょ。もう日本になんかいたくない」
「今のお前の居場所など、もうネスフェリカにはない」
近江の無礼な言葉に息か詰まるほど頭にきた。何なのこの国は。最低最悪だわ。
「私は王女よ! 王宮へ帰るわ!」
「敵の手に落ちた王宮へか。殺されに帰るようなものだ」
「お父様がいるわ! おばあさまだって味方してくれるわよ!」
「2人とも、お前が祖国を発った翌日に殺害されている」
完全に思考が停止した。
嘘だ。この男の言う事はすべて嘘だ。
あわててスターバーを見ると、彼は私から逃げるように視線をそらせた。
まさか。
まさかそんな事。
「嘘よ……!」
「さっきの連中が直接手を出して来たのがその証拠だ。お前の母親はすでに弟と結託しいると思われる以上、残った邪魔者は、もうお前1人だ」
「嘘よ! どうやってお父様とおばあさまを殺すというの!? お父様にはたくさんの護衛が付いているし、おばあさまのお屋敷だって、王宮には劣るかもしれないけどセキュリティは万全のはずよ!」
「……驚いたな」
近江はため息を吐いてスターバーを見やった。
「王女は本当に何も知らなかったのか? だとしたら、あんたも相当だ」
近江に視線を向けられて、スターバーはまた顔をそらせた。
「お前の味方は今ここにいる4人のSPだけだ。それ以外はすべて兄と叔父に抱き込まれている」
「4人……?」
「やっと気付いたか。あの世話係兼家庭教師は、お前の叔父が送り込んだスパイだ」
もう何も信じられない。口を開く気にもなれず、私はだらりとソファに身を預けた。
「もうずいぶん以前から、お前の周囲は敵だらけだったはずだ。Mr.スターバーと皇太后の2人がいなかったら、お前はすでにこの世にいない」
王女なんて、なんて孤独なんだろう。
みんな足下にかしずくくせに、みんな私なんか死ねばいいと思っていたんだ。邪魔だと思っていたんだ。
「……どうして今まで黙ってたの」
スターバーは答えない。
「どうして言わなかったの! 私1人をのけ者にして陰で笑ってたの!?」
「いい加減にしろ」
近江の声がカンに障る。何も知らないくせに。私がどんな思いで生きて来たか知らないくせに。
「うるさい! 黙りなさい!」
「誰のお陰で生きていられたと思ってるんだ?」
「私は1度だってこの世に生まれてよかったと思った事はないわ!」
怒鳴りつけた瞬間、近江の周囲が一瞬で黒く重く染まった気がした。何この空気、ぞっとする。
黙り込んだ近江に、熊谷が巨体に似合わないそっとした仕草で近江の腕を掴んだ。
「冷静になってください、ボス。この子はまだ子供なんですよ」
「…………わかっている」
近江はゆっくりと息を吐いた。
「何が子供よ。自分だって子供のくせに。王女でいる事がどれだけ苦痛か知らないくせに」
「いい加減にしな、お嬢ちゃん」
熊谷が私を見た。小さな目が鋭い視線を放っている。
「お前さんとボスじゃ、背負っているものと覚悟が違う」
「私だって国を背負ってるわ!」
「口先だけだ。ボスと比べるのはおこがましいですぜ」
何なの。どこまで私を馬鹿にする気なの。王女より重い責任と覚悟ですって?
「お前達こそ何もわかってないんじゃないの? 実際に王族として生活した事もないくせに」
「王女」
私を止めたのはスターバーだった。
「もうおやめください。我々の味方はもはや彼らしかいないのです」
「こんなならず者達に頼らなくても、日本にだって警察くらいいるでしょう! 日本政府にだって言えばいいじゃない!」
「彼らはキコヒー様側です」
「おじさまの……」
何も考える気になれなかった。
お父様もおばあさまも亡くなって、お兄様とおじさまは私を殺そうとしている。国には帰る場所もなく、異国でたった1人ぽっち。
その時、近江が耳にしていた無線のようなものに手を当てた。
「俺だ。……そうか、わかった。……いや、いい。深追いするな」
近江は顔を上げてスターバーを見た。
「やはりかなりの人数が日本に送り込まれているようだ。こっちでもチェックしているが、何せ使える駒が少ない」
「わかっている。……迷惑をかける」
近江はうなずいて私を見た。
「ここも危険だ。別邸を用意させたから、移動の準備をしてくれ」
「わかった。……王女、お支度を」
こうやって勝手に物事を進められる事にはもう慣れている。
私は黙って立ち上がった。
「ふざけるな。そんな事は絶対に許さねぇ!」
華歳が近江を怒鳴りつけていた。
いったい何事だろう。どうして華歳がここに。
たった今この新しい屋敷にやって来た私達へは見向きもせず、華歳は怒鳴り散らしていた。
「華歳、気持ちはわかる。だかこれが1番得策だ」
「そりゃそっちの得策であってこっちの得策じゃねぇ! 朱己に何かあったらてめぇ責任が取れるのか!?」
「もちろん全力で守る」
「てめぇなんぞに任しておけるか! 俺は反対だ!」
「もう菊池には連絡した。あいつに決めさせろ」
「てめぇ……!」
華歳が近江の胸ぐらを掴んだ。だが、近江はまるで抵抗しない。
「あいつが事情を知って断る訳ねぇだろう……! わかってて知らせやがったな……!」
近江は無言だった。近江の部下達も、誰1人華歳を遮ろうとしない。自分のボスが目の前で首を絞められているのに。
「俺は認めねぇぞ近江。朱己に何かあったらてめぇを殺す……!」
「大丈夫だよ、嘉月」
唐突に聞こえた声に視線を向けた私は、息をするのも忘れた。
私だ。私が立っている。
一瞬鏡かと思った。それほどそっくりだった。
部屋の入り口で、その少年は幼い子供の手を引いて、静かに華歳を見ていた。
「心配してくれてありがとう、嘉月」
声が聞こえていないはずはないのに、華歳は近江につかみかかったまま少年の方を見ようとしない。
「俺なんかでも役に立てるのなら、ちょっとでも協力したいんだ」
半ばつま先が浮き上がるほど締め付けられ続けて、近江は苦しげに眉をひそめた。
「大丈夫だよ、嘉月。……手を離して」
華歳は近江を突き飛ばすように手を離した。近江が2、3歩よろめく。
「ごめんな、嘉月。わがまま言って。でも、俺も何か役に立ちたいんだ」
「……わかってるのか? 命を狙われるんだ。おとりだぞ」
「天武さんが守ってくれるよ」
「こんな男が当てになんかなるか!」
「なるよ。嘉月だって信用してるくせに」
私にそっくりの少年は子供を連れてゆっくり華歳に近づくと、自分の方を見ようともしない華歳の背中をなでるように叩き、近江と視線を合わせてうなずいてから、真っ直ぐ私のもとへ来て足を止めた。
「初めまして、菊池朱己です」
さすがに声は低いものの、身長はさほど変わらない。髪は私より黒いが、ショートボブに近い長さはほぼ一緒だ。
これなら確かに王春学園の者達が驚いたのもうなずける。全くの赤の他人であるはずなのに、生まれた国すら違うのに、双子のように瓜二つだ。信じられない。
「男の子になり切って生活するのは大変だと思うけど、学校の友達にはちゃんと言っておいたから、フォローしてくれると思います。それから」
菊池は、手をつないでいた幼い子供を視線で指した。
「この子は俺の弟で克己、俺のたった1人の大事な家族です。あなたに預けます」
家族? 見下ろすと、克己と呼ばれた5歳くらいの男の子が小さく頭を下げた。
「克己、王女様を守ってあげてね」
「お兄ちゃんは?」
「俺は大丈夫。全部終わったら、また一緒にプリンを作って食べような」
克己は大きな目を潤ませて、小さな手でそっと菊池に触れた。
「電話もメールもできなくなるけど、寂しいのは俺も一緒。一緒に我慢しような」
「……はい」
克己は菊池から手を離し、私を見上げた。菊池に、そして私の幼い頃に少し似ているが、私よりずっと利発そうな子供に見えた。
「王女」
近江が私を呼んだ。のど元を押さえているところを見ると、華歳に相当強く絞められたのだろう。声もかすれている。
「お前にはこの先、事が片付くまで菊池と入れ替わって生活してもらう」
「片付くまでって、いったいいつまでよ」
「いつまでだと思う?」
「聞いているのは私よ」
「少しは自分で考える癖をつけた方がいい。……いつまでだと思う?」
そんな事を言われてもわからない。だって私は何も知らされていなかったもの。何も教えてもらっていないもの。
「無駄ですよ、ボス。その子は人形にすらなれねぇ、できこそないの王女様なんだから」
「犬養」
「何もかも全部を他人のせいにして、自分は世界一かわいそうな人間だと思ってる。私ゃそういうはた迷惑な世間知らずが大嫌いなんだ」
犬養は吐き捨てるようにそう言い、部屋を出て行った。
どうしてだろう。さっきまでだったら、あんな事を言われたらものすごく頭にきたのに、なぜか今はとても悲しい気持ちになった。そうか、私は誰かに正面から声に出して誰かに「大嫌い」と言われた事がなかった。王女の私にそんな口をきく人間など祖国には1人もいなかった。こんなに傷つくなんて、思っていなかった。
克己が私の腕をぎゅっと掴んだ。つぶらな瞳がとても不安そうに揺れている。
「確かにお前に与えられていた情報は少なかった。それでも考える事はできるはずだ」
近江は私を見下ろした。
「お前の兄と叔父だろう。お前を抹殺しようと思ったら、彼らならどうすると思う? どんな手段でどれだけ時間がかかると思う?」
答えられなかった。わからない。わからないもの。
今まで自分で何かを考えて行動した事なんかなかった。全部周囲がやってくれたから。
「……まぁいい。何か思いついたら連絡しろ」
近江は私に背を向けた。その広い背中はまるで私を拒絶するようで、すごく心細い気持ちになった。
「大丈夫ですよ、王女様」
私のその心細さを吹き飛ばすように、菊池は私に笑顔を見せた。王宮や貴族学校のみんなとは違う笑顔。おばあさまのような、優しい笑顔。
同じ顔をしているのに、私はこんな笑顔を1度も作った事がないような気がする。
「きっと上手くいきます。ここにいる人達は、俺の知る限り世界一頼りになりますから」
この子は、今までいったいどんな風に生きてきたのだろう。
どうしたら、こんな風に笑えるんだろう。
私と同じ顔を、どんな感情に染めて来たのだろう。
私は生まれて初めて『他人』の事を考えた。
私と菊池は衣服を取り替えた。
学生服はごわごわするし、胸がちょっとキツい。ウエストが緩くないのがショックだった。
「おやまぁ菊池君、よく似合うよ」
着替えている間に来たのか、なぜかそこには羽叉麻がいた。
「……スカートって、こんなに心細いはき心地だったんだな……」
菊池は困ったような顔でスカートをつまみ上げた。
「そのうち慣れるよ。レンディーデさんも学ランが着られたようで何より。慣れないうちは動きづらいと思うけど我慢してね」
羽叉麻もダークグリーンのジャケットを着ていた。だとすると、近江の仲間なのだろう。近江の姿はもうなかった。
「いいかい2人とも。まず菊池君には、俺達COETとSPがつきっきりでガードします。頑張ってお姫様してね」
COET、とはなんだろう。近江が率いる同じ色のジャケットを着用している人達の事だろうか。そういえば同じ色のジャケットを着た者達全員の左腕と胸の部分にそんな刺繍のようなものが入っている。どんな組織なのか。そんな私の思いをよそに、うへぇと菊池が情けない声を出した。
「レンディーデさんには華歳が付きます。学校ではここにいる初見君がフォローするので、何かあったら相談してください」
紹介された初見という男は、無表情気味の人間だった。近江の持つ怜悧さに似たものを持っているように見える。
「初見です。話は聞きました。菊池の通う高校の生徒会長で、菊池とは友人です。できる限り協力します」
初見は私に小さく頭を下げ、そしてすぐに菊池に向き直った。
「菊池、無茶はするなよ。お前に何かあったら、俺には他の友人連中を押さえる自信がない」
「初見の言う事はみんな聞くよ」
「俺自身が冷静でいられる自信がない。頼むから無事でいてくれ」
「うん。心配してくれてありがとう」
菊池は苦笑した。
あの子は私と違って好かれているんだ。友達もたくさんいるみたい。みんなにこんなに心配されて。大事にされて。
「華歳、王女様をよろしくね」
「俺が朱己を守る」
「無茶言わないの。本物にも誰かが付いてなきゃ。不自然じゃないのは華歳だけだよ」
「朱己にかすり傷1つでも付けたら、本気で殺すぞ、羽叉麻」
「うわぁ、ちょっと妬けるくらいに過保護だね」
「ふざけるな!」
突然華歳が怒鳴った。いや、突然ではない。さっきから怒りを押し殺すように黙り込んでいただけだ。
「俺は最初からこの作戦に反対してんだ! てめぇらの仕事にどうして朱己をかり出さなきゃならねぇ!? てめぇらの力不足で一般人の朱己を巻き込んでおいて、よくもそんな悠長な口がきけたもんだな羽叉麻! 例え上手くいって怪我1つなかったとしても、片が付くまで朱己はピアノに触れる事もできねぇんだぞ! この時期に無期限にピアノに触れられない事が、朱己の将来にどれだけ影響すると思ってるんだ!? その責任をどう取るつもりだ! それでなくても朱己と克己は今まで散々な目にあってるんだ! これ以上辛い思いをさせてみろ! 絶対に許さねぇ!」
「嘉月……」
菊池が困ったように華歳の名前を呼んだ。
「……それを言われると、本当に返す言葉がないよ」
羽叉麻は真面目な顔でため息を吐いた。
「できるだけ早く片を付けるよう尽力するし、当然、命がけで菊池君を守るよ」
「そんな事は当たり前だ!」
華歳は近くのソファを思い切り蹴飛ばした。重厚感のあるソファが飛び上がる。
「嘉月、もうやめろよ」
「お前の事だぞ朱己!」
「嘉月だって、本当はこうするのが1番いいってわかってるんだろ?」
華歳は舌打ちして菊池から視線をそらせた。
「心配してくれて本当にありがとう、嘉月。……ごめんな」
「お前が謝る事じゃない」
「でも、俺の決断が嘉月にいやな思いをさせたのは事実だから」
菊池は華歳の肩に手を置いた。
「約束するよ。間違っても死んだりしない。また嘉月にピアノを聴かせるから。克己をよろしくな」
「その言葉、忘れるなよ」
菊池の肩を1度だけ強く抱いてから、華歳は私を見た。さっきまで菊池を見ていたその視線との温度差が凄まじい。冷え冷えとした視線だ。あからさまに態度が違うのに、まだ私には怒る気持ちは湧かなかった。ただ悲しい気持ちがずっと心の奥底に沈殿したように淀んでいる。
「行くぞ。てめぇは俺が守ってやる。克己、ついて来い。俺に任せておけば大丈夫だ。心配いらねぇぞ」
前半の私に対する言葉とは裏腹に、華歳は克己に優しく語りかける。さっきから泣きそうなほどに胸が痛い。これは悲しいからなのだろうか。
「羽叉麻、ごめんな。嘉月も八つ当たりだってのはわかってるから」
「いや、華歳のが正論だよ。真実を突かれると堪えるってのは本当だね」
羽叉麻は力なく笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「菊池君の事は、俺達COETが全力で守る。しばらく窮屈だろうけど、我慢してね」
「うん。俺も頑張るよ」
ああ、胸が痛い。