茨城政府
「タイムスリップしたことは確実。とういう前提で行動します。一刻の猶予もありません」
もはや篠崎の言葉に異議を申し出るものはいなかった。
つくば大学の助教授の説明は、あまりにも現状と合致しており、当の彼らが時空変換装置の使用を認めたのだから、希望的観測はどこにもない。
「まず、この時代。とくに我々がいる1945年、昭和20年4月1日の日本というのは、どういう状況なのか、そして終戦までどのような途を辿るのか、軍事ジャーナリストであり戦史研究家でもある古川悟氏にご説明いただきます。時間がないので、質問は後ほどにしてください。まずは、現状を知ることが急務です。では、古川さん。お願いします」
ロの字型に配置された席の入り口側に座っていた中肉中背の男が立ち上がりノートパソコンを抱えてスクリーンの傍へ歩く。夏の登山者のようなメッシュベスト。ベストの下に着た半袖から伸びる腕。抱えられたパソコンとのアンバランスなまでの太さが彼の鍛え上げられた身体をさりげなく魅せる。
「ご紹介いただきました古川です」
慣れた手つきでパソコンの日本列島をスクリーンに投影すると一礼する。
「手持ち資料の寄せ集めで失礼いたします。
これが現状、つまり昭和20年4月の日本の勢力圏です。台湾、朝鮮半島、中国東北部つまり満州は日本の勢力下にあります。そして南方ではシンガポール、ベトナムそしてブルネイ、インドネシアなどの資源地帯。
これだけを見ると、現在の日本よりはるかに広いとお感じになるかもしれませんが、つい一週間前の3月26日には、東京都の一部である硫黄島が陥落し、そして今日、沖縄に米軍が上陸しているはずです」
ざわめきが小さくなるのを待って、古川は続ける。
「一方でフィリピンは昨年昭和19年10月から米軍の攻撃を受け、日本軍は山間部でゲリラ戦をしている状況です。
グアム、サイパン、テニアンも昨年占領され、ここを基地としたB-29によって、日本の各都市は焼け野原にされていきます。
お手元のF-2が撮影した東京の様子は3月10日の東京大空襲による被害で、約10万人が亡くなりました。たったひと晩で…」
古川はいったん言葉を区切る。ひと晩で10万人…仕事柄、あの戦争の話ばかりするが、ここまで怒りが込み上げてくることはなかった。本の中の遠い過去、研究対象。と、どこか客観的に思っていたことがあったのかもしれない。
自分は日本人で、今、日本人が苦境に立たされている。
「B-29は高性能といえど爆撃機です。天敵は戦闘機。これを護衛する戦闘機が必要ですが、戦闘機は航続距離が短く、サイパンから日本までは届かない。そこで硫黄島を占領し、戦闘機の基地として、また戦闘で傷ついたB-29の緊急着陸用として飛行場を整備しました。本日、大塚池に墜落したP-51は、その硫黄島から飛来したものです。
この頃の日本は、南方資源地帯との交通を絶たれ、資源も食料もなく、工業生産はがた落ちです。度重なる空襲と資源不足で兵器の生産もままならず、本土を防衛する飛行機も足りません。
護衛戦闘機を得たB-29は、ますます大胆な活動をし、日本中の都市や工場を爆撃し、多くの人命と生産力を奪いました。主要な港湾には機雷をばらまき、日本を麻痺させました。戦後唯一活動を許された日本海軍の部隊は掃海部隊で、これら無数の機雷除去に携わりました。命がけで…。その末裔たる海上自衛隊の機雷除去能力は世界一を誇ります」
海上自衛隊の制服を着た将官が頷く。
「話がそれました。沖縄に上陸した米軍に対して日本軍は、前年のフィリピン戦線で投入した特別攻撃隊。いわゆる特攻隊による攻撃を主戦法とし、さらに陸軍は義烈空挺隊を編成、兵士を乗せた爆撃機を夜間沖縄の米軍飛行場に強行着陸させて、地上の敵機を焼き払う作戦を実施しました。海軍に至っては、世界一の巨大戦艦『大和』と軽巡洋艦1隻、駆逐艦8隻、計10隻から成る艦隊で沖縄の海岸に乗り上げて大和を砲台とし、乗組員は陸戦隊となる水上特攻作戦を行いました。もちろん、この艦隊は沖縄に到達することはできず、大和はじめ6隻が沈没、4千名以上の戦死者を出しました」
滅茶苦茶だ…誰かの呟きと共に異口同音の囁きが溢れる。
「沖縄戦で完全に消耗した日本軍は、これまで以上に制空権も制海権も失いました。B-29による無差別爆撃や硫黄島からの戦闘機だけでなく、日本近海には、米軍や英軍の艦隊が遊弋し、艦載機は我が物顔で日本中の空を飛び回り、老若男女問わず一般市民を銃撃しました。学校でさえ銃撃したのです。さらに沿岸まで近づいた戦艦による艦砲射撃も行われ、茨城ですと日立市やひたちなか市で大きな被害が出ました。
大本営、簡単に言いますと、陸海軍の元締めのようなものですが…この大本営は、本土決戦を計画し、積極的な戦闘を控え、兵力温存を図ります。
8月には御存知の通り、広島と長崎に原子爆弾が投下され、8月9日には、瀕死の日本に対してソ連、今のロシアが参戦しました。日本がソ連に連合国との終戦へ向けた調停を何度となく打診していたにもかかわらずに、です。
今も昔もロシア人は領土的野心の塊ですね。
ソ連は、日本が8月15日にポツダム宣言受諾し連合国に無条件降伏した後も侵略を止めず、暴虐の限りを尽くします。そして、さらに民間人を含む57万5千人を抑留し、過酷な強制労働に就かせ、5万8千人を死に追いやりました。いわゆるシベリア抑留です。
以上が我々のいる今日から、終戦までの状況となります」
古川が締めくくると、緊張の静けさに包まれる。ピーンと張りつめた空気、強ばった面々。突きつけられた現実の過酷さに、誰も一歩踏み出すことができないでいる。
これでは駄目だ。この我々は何のためにいるのか?篠崎は立ち上がった。
「古川さん、ありがとうございました。皆さん、ご説明頂いたとおりの状況です。時空変換装置によって、中央、そして他県と切り離された挙句、破滅へ向かう日本の一部と入れ替わってしまいました。
頼れるものなど何もない。我々が舵を取るしかないんです」
見回した篠崎は、自分に向けられた決意の眼差し達のひとつひとつに感謝の気持ちを込め、大きく一度肯くと、声を張り上げた。
「まず、次の3点を早急に行わなければならないと考えます。
一点目、米軍の攻撃を避けること
二点目、県民の生活を確保すること
三点目、県民への状況説明を行うこと
その他にありませんか?」
急ぎではありませんが、と手を挙げた総務部長の笹塚が丸まった背筋を伸ばす。
「この状況ですから議会の承認はあと回しにできますが、緊急の召集を掛けておかねば後々議員からの協力が得づらくなりますので、私の方で手配します」
「そうですね。よろしくお願いします。皆さんは、議決が必要なものを挙げておいてください」
「よろしいですか?」
航空自衛隊百里基地の石山司令が遠慮がちに手を挙げる。
「どうぞ、何なりと」
「この事案による最大の災害は、米軍からの攻撃なのではないでしょうか?今すぐ発生してもおかしくはありません。
私たち自衛隊の最高指揮官は、内閣総理大臣となっておりますが、この状況では日本政府と連携をとることはできません。
現状、行政のトップである知事に、自衛隊は県知事による災害派遣の形のままなのか、県知事を総理大臣の代理として指揮下に入るべきなのか、ご判断いただきたい」
うーん、と篠崎は腕組みをし、ゆっくりと目を閉じうつむく。
「現状の自衛隊の立場で、米軍の攻撃から県民を守ることは可能ですか?」
ゆっくりと顔を上げた篠崎が尋ねる。
「法的には可能です。
県民への攻撃に対しては、本来、武力攻撃事態法に該当するものですが、対処の方針を決める政府がここには存在しないため、現段階では適応できません。ただ、自衛隊法の国民保護措置の観点からいえば、自然災害やその他の事態において、自衛隊は国、地方公共団体、指定公共機関等、国民保護措置の各実施主体と連携し、国民の保護のために必要な措置を講じることができる。とあります。
自衛隊の基地や設備については、『武器等防護のための武器使用』により、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができます」
石山は、言葉を詰まらせる。ここまでが限界なのだ。
「つまり、正当防衛の範疇での武器使用が限界です。
いかにこちらの技術が進歩していても、少ない装備で多数の攻撃から県を守るには限度があります。法的には守れても、物理的に守りきるのは不可能です。しかも今の我々には抑止力を示す手だてがありません」
力無く言った石山は、悔しそうに机の上で握りしめた拳を見つめる。
「抑止力?」
篠崎は石山の言葉を意外に感じ、聞き返した。
「そうです。抑止力です。我々の時代に大きな戦争、特に核保有国の間で戦争が発生しないのは、核の恐ろしさを互いに認識しているからです。だから撃てない。核を撃ち合えば必ずどちらも滅びることを知っているからです。これを『核の抑止力』といいます。
一方で核を持たない我々自衛隊は、装備の性能と練度の高さを示し、他国に対して、日本を侵略しようとすれば、甚大な損害が出る。あるいは、日本を侵略することは不可能だ。と思わせ、侵略の意図を断念させる。それが我々の抑止力です。
しかし、この時代の人々は、我々の装備の能力を知りません。この時代にはあり得ない、いかに優れた装備を我々が持っていても、これを知らない米軍は攻撃してきます。攻撃に失敗すれば、さらに大きな兵力で攻撃してきます。こうなってしっては防衛しきれません」
そりゃそうだ、やっつけてしまえ、何のための自衛隊だ。さまざまなざわめきが起こる。どれも間違えではない。そう、それぞれが思っているに違いない。
「実力を示すべきだ。と?」
腕組みをしたまま、篠崎は目を見開き、口を堅く結んだ。自称、軍事マニアの知事だからこそ、その恐ろしさを想像することは難しくない。ざわめきに批判の色が濃くなる。
「それは、私どもが言える立場ではございません。シビリアン・コントロールの範疇を越えてしまいます。我々をどう使うか、武力を持つ我々自身が決めることはできません」
確かにそれはそうですね。呟いた篠崎はなおも考え込む。
「すみません。ちょっとよろしいですか?」
古川が声のトーンをあげて、その場をまとめるように見回す。注目を得るとスクリーンにあった地図は茨城県の部分を拡大する。
「我々は、世界中を敵に回して戦っている日本の一部として存在しています。しかし、我々は戦後の日本人です。この時代で孤立しているのです。これを明確に世界に示さなければなりません。
我々は、日本に属さない。したがってアメリカをはじめとした連合国とも戦闘状態にはない。まずは、このことを全世界に表明してはいかがでしょうか」
確かにそうだ。同意の輪が広がる中で、
「表明する。って言うが…どうやって示せばいいんだ。それに、そんな突拍子もないことを、信用してくれる奴なんているもんか」
土木部長が吐き捨てるが、誰も反論できないでいる。絶望のため息があちこちから漏れる。
「ありますよ」
古川は、優しいトーンで答える。大丈夫だよと、語りかける父親のような笑みを浮かべて続ける。
「ラジオです。テレビもネットもないこの時代、民衆の娯楽はもとより、政府、軍隊、諜報機関に至るまで、ラジオの情報を収集していました。一方で各国は、ラジオを使って謀略放送を行っていました。これは今でもありますが。
ラジオで表明し、呼びかけるんです。NHK水戸放送局に茨城放送から、ありとあらゆる周波数で流しまくる。世界の裏側まで届くように短波放送もやりましょう。独立を認める国家がなければ成立しませんが、少なくともラジオ放送で我々を全世界が注目する中、一方的な攻撃は躊躇するはずです。この間に我々の優位性を徐々に示し、他国の興味を引く、我々は危険ではない、有用だと、味方になってくれる国家を増やすんです」
なるほど、という言葉がちらほら沸く中で、誰もが気になるワードを篠崎がぶつける。
「しかし、独立って言ったって」
弱々しく言う篠崎に、古川はきっぱりと言い放つ
「茨城政府」
独立は、自ら勝ち取るものです。
古川が力強く付け加えると。徐々に賛同の声が起きた。
茨城が産声を挙げた瞬間だった。この過酷な世界で生き残るために。