壁
「これまでの情報から、残念ながら我々は、1945年つまり、昭和20年の4月1日にタイムスリップしてしまったと言わざるを得ない状況です」
茨城県知事の篠崎がここまで言うと、「信じられない」「そんなはずないだろう」といった、否定的なざわめきが場を埋め尽くす。
「お静かに願います」
防災・危機管理部長の川崎が声を張る。
「私だって信じたくはありません。ですが、昭和20年というのは、ご存知のとおり太平洋戦争終戦の年にあたります。そして、4月といえば、沖縄に米軍が上陸した月です。言うまでもなく、大戦末期、東京の偵察写真でご覧になったように、日本のあらゆる都市が爆撃されるんです。水戸も空襲を受けました」
篠崎は、いったん言葉を区切ると、土木部長の海野が、間髪入れずに立ち上がった。
「根拠は何なんですか?タイムスリップだなんて、映画じゃあるまいし。あんた県知事ですよ!」
篠崎は立ち上がり、射るように海野を見据えて口を開く。
「成田空港も東京タワーもスカイツリーも存在しない。東京は焼け野原と化した。茨城も東京のようになってしまうかもしれない!いや、確実にそうなるだろう。仰るとおりここは映画の世界じゃない。だから犠牲者は必ず出る。空振りだっていいじゃないですか。先手先手でいかなければ、取り返しのつかないことになるかも知れない。それに原因と思われる情報が先ほど入りました。つくば大学の研究施設で発生したトラブルの影響が濃厚です」
海野の態度に最初は声を荒げた篠崎だったが、諭すように話を結んだ。
「大学の研究が関係しているんですか?」
罰が悪そうに擦れぎみの声で海野が聞く。
「大学の関係者から直接連絡がありました。準備出来次第、オンラインでこの会議に出席いただくので、具体的な話は、そこで聞くことにします。とにかく、一刻の猶予もありません。昭和20年にタイムスリップしたことを前提として会議を進めます。よろしいですね。空振りだった場合の責任は、全て私がとります」
強い決意の眼差しと語気に、一同が力強く頷く。
「ありがとうございます。我々は戦史も軍事も素人です。オブザーバーとして、戦史に詳しい軍事ジャーナリストの古川氏に加わっていただきたいと思います。歴史を逆手に取って先手を打っていきます。古川氏については、ご存知の方も多いと思いますので、紹介は割愛させていただきます。異論ありませんか」
すっと手を上げたのは総務部長の笹塚だった。笹塚は、防災・危機管理部長の川崎と並んで知事の篠崎の片腕とも呼ばれている男で、口の悪い議員からはイエスマンと陰口をかれることもあるが、論理的思考で多角的に物事を捉える彼は、議会の答弁を明快に裁き、難癖をつけたがる野党の付け入る隙を見せない。そして、一点に注力しがちな篠崎のよきアドバイザーでもある。
「古川氏のことは、私も存じ上げております。知事の仰るように、軍事、戦史への造詣は深く、取材で来県されていたことは、不幸中の幸いです。ただし、古川氏はジャーナリストですので、職業柄、スクープを追うなど、我々と優先順位が異なることが懸念されます」
笹塚は、回りの反応が肯定的なのを確認して続ける。
「そこで提案なのですが、古川氏にポストを用意して県民に対して責任ある立場で働いていただきます。もちろん、彼にはジャーナリストとしての手腕を発揮し、記事を書き、記録を残すことも認めます。いかがでしょうか?」
「いくら災害だからといって、そんな勝手な採用が許されるんですか?」
土木部長が口を挟む
「問題ありません。職員の任用に関する規則 第4章 第32条の第4号に該当し、災害その他重大な事故により発生した業務についての人事は、人事委員会の承認があったものとみなすことができます。これに則り、古川氏を総務部付き戦略情報担当課長、あるいは知事室付情報担当顧問などに就いていただくのはいかがでしょうか?」
土木部長が大きく頷く
「それなら問題ない。さすが総務部長だ、全部頭に入れておられる。本当にタイムスリップしたのだったら、我々だけでは予断を許さない状況になってしまうが、歴史を逆手に取れれば、県民の安全を保てるかもしれない」
珍しく肯定的な意見を口にした土木部長に安堵の空気が流れる。
「なるほど、いいですね。それでは、ただ今の総務部長の意見に賛成の方は挙手願います」
この場にいる部課長全員が手を真っ直ぐに挙げたのを見回した篠崎は、川崎部長に現状の情報共有と、まだ招集していない陸上自衛隊、海上保安庁の代表を呼ぶように伝え、自分は古川に電話をするために席を立とうとすると、その様子を見ていた石山司令が耳打ちする
「海上自衛隊も県内の港に寄港していますが、呼んでみては如何でしょうか車はこちらで手配します」
そうだった。昨日、航空護衛艦『かが』のセレモニーに参加していたのに、まったく気付かなかった。自分の迂闊さに苦笑した篠崎は石山に礼を言うと、一緒に聞いていた川崎部長に「海上自衛隊も頼みます」と言い残して部屋の外へ向かった。
茨城県常陸那珂港、この茨城県で最も新しく巨大な港の桟橋に繋がれた航空護衛艦『かが』では、この土日の二日間に及んだ一般公開の片付けが始まっていた。立ち入り禁止区域を囲むロープや、展示パネルを片付ける紺色の作業服姿の隊員たちが、きびきびと動き回る様は、見ていても気分がいい。飛び交う号令が、どこか明るく弾んでいるのは、この後の『上陸』への期待の表れかもしれない。護衛艦に居住する隊員にとって、寄港した街へ繰り出せる『上陸』は、この上ない楽しみであった。
終戦記念日にちなんで、先の大戦で活躍した軍艦の名を受け継いだ護衛艦で臨時に編成した『慰霊艦隊』は、全国の主要な港湾を巡り、一般公開を行ってきた。ここ茨城の常陸那珂港に停泊する『かが』もその1艦である。海上自衛隊最大、かつ初の空母である『かが』は、その旗艦をつとめている。全国の主要港を巡り7月から8月の土日という短期間で一般公開を行うために、艦隊は,県内4箇所の港に2隻ずつ訪問している。県民にしてみれば、南から鹿島港,大洗港,常陸那珂港,日立港で一斉に護衛艦の一般公開ということになるので、見学者の中には,最寄りは鹿島港だが,空母化した『かが』をひと目見たいがために常陸那珂港まで車で2時間掛けて来た家族連れもいた。そういう点でみると、『かが』が寄港した常陸那珂港のある、ひたちなか市や隣接する県庁所在地、水戸市の人達にはラッキーだったというわけだ。もちろん常陸那珂港が巨大なこともあるが、海上自衛隊の広報としては、県庁所在地に最も近い常陸那珂港に最大の目玉であり旗艦でもある『かが』を持ってきた方が記念式典への来賓の招待も、集客にも好都合だった。
艦橋から甲板で作業を行う隊員を見下ろす艦長の金成一等海佐は、もう一度司令と打合せるべきか気を揉んでいた。あと1時間もすれば、課業を終えた隊員は上陸する。必要最低限の乗員を残した半舷上陸とはいえ,通信障害は、未だ回復しておらず、原因も不明だった。
--もしあの閃光が原因だとしたら--
仮にあの閃光がきっかけだとしたら…あれが核爆発の閃光ならば電磁パルスで通信障害は発生する。しかし、いつまでも通信障害が続くわけではない。だが、核攻撃を受けて横須賀の護衛艦隊司令部や、その他指揮機能、通信施設が破壊されてしまったとしたら、こちら側の通信機器に異常がないことも頷ける。
--やはり、もう一度司令と相談しよう--
司令官公室へ向かうべく艦橋を出た金成の目の前に、純白の制服を着た長身の男が駆け寄り一礼する。ずっと走っていたのか、呼吸を軽く整えてから、背筋を伸ばす。
「艦長、これを」
短く言ってメモを差し出す男の左腕には『自衛隊 茨城地方協力本部』と書かれた紺色の肩吊り腕章が見えた。
地方協力本部、略して地本は、自衛隊員の募集活動をメインとし、地域でのPR活動や各種相談窓口を担っている。茨城県に海上自衛隊の施設はないが、地本には海上自衛官もいる。この一等海尉の階級章を付けた男は、数少ない茨城県配属の海上自衛官。ということになる。
「ご苦労様です」
答礼してメモを受け取った金成は息を飲んだ。たった2行のメモなのに疑問が噴出する。
「どうしてこれを?」
信じられない内容を信じるための出自を尋ねる。
「地本に県庁から電話がありまして、至急、海上自衛隊の指揮官にこれを伝えてほしい。とのことでしたので」
「本当に県庁なんですか?」
艦長であり、階級も立場も上であるが、他部署の隊員には丁寧に対応するのが金成という男だった。
「確かです。県庁と地本は連絡体制をとっておりますので間違いありません」
「了解しました。すぐに司令に報告します。地本でも本部長に報告をお願いします」
「了解しました」
金成は、踵を返す一尉を見送る間も惜しみ、足早に司令公室へと向かった。
茨城県庁の屋上ヘリポートに降り立った臨時護衛艦隊、通称慰霊艦隊司令官の清瀬智弘海将補は、エンジン出力を絞り、ローターの風切り音だけを大げさに振りまく護衛艦『かが』搭載のSH-60Kヘリコプターを背に、迎えの県職員の元へと大股で歩き出した。8月にしては汗ばむこともない気温は、ビルの屋上だからだろうか、ふと、そんなことを考えながら、いや、と清瀬は自分自身に否定した。あのメモにあったことが事実ならば、この気温も頷ける。
そのまま、案内に従いカードキーで開けられた分厚い鉄の扉をくぐると飾り気のないモノトーンの階段を下る。そして会議室や、倉庫など、様々なプレートが貼られたいくつもの扉が連なる廊下を巡ると、大きな窓のない金属製の扉の前で職員が立ち止まり、カードキーをかざして扉を重そうに開ける。
「どうぞ」
瞬間に耳を圧する喧噪と、熱気が清瀬を包む。そしてイメージの違いに感心すら覚えた。
清瀬は立場上、自治体との合同訓練で対策会議に参加してきたが、いずれも体育館に長机とパイプ椅子を並べ、床は電源や電話の配線がのたうち回る急ごしらえのものだったが、ここは違う。整然と並ぶ備え付けの机とその上に配置された電話にパソコン、長時間使用しても快適なメッシュ状の椅子、天井からは部署を示すプレートがさがっている。イメージと同じなのは、役割と所属が書かれたさまざまな蛍光色のビブスを着た職員が慌ただしく動き回り、声を張り上げている点だけだった。
案内の職員はさらに奥へ進み、周りから一段床が高くなった『対策エリア』と書かれたコーナーに清瀬を導いた。喧噪から遠ざかったこの場所では、スーツ姿の職員と様々な制服の人間が入り交じってある者は隣の人間と議論し、ある者はタブレット端末を見つめている。正面のモニターにはまだ何も映っておらず、会議に間に合った清瀬は、ほっと息をついた。
「急にお呼び立てして申し訳ありません。県知事の篠崎です。昨夜はありがとうございました」
昨夜『かが』で開かれた式典で挨拶をもらった茨城県知事が、駆け寄り頭を下げる。挨拶を返した清瀬は、こちらへどうぞ、と示された席に座る。左に航空自衛隊の制服を着た空将補、右に陸上自衛隊の制服を着た陸将補が座り、着席した清瀬と簡単な自己紹介を交わした。
航空自衛隊の空将補は百里基地司令、陸将補の方は、勝田駐屯地司令で施設学校長も兼務しているとのことだった。勝田駐屯地は、水戸市の隣町、ひたちなか市に所在し、清瀬がヘリで飛び立った『かが』が停泊している常陸那珂港があるのもひたちなか市だった。清瀬は自分がヘリで移動したのは大袈裟だったかと思いつつ、資料に目を通す。その思いを打ち消すような悲惨な写真にヘリで来てよかったのだと自分に言い聞かせた。
「それでは、会議を再開させていただきます」
資料の配布が完了したのを見届け、知事の隣に立ち上がった男が一礼する。丸々と太った身体、愛嬌のある丸顔に団子鼻。県の幹部というよりは、某子供向けアニメのパン屋のおじさんを思い起こさせる。
「改めて、簡単に状況を説明させていただきます。先ほどお配りした資料をご覧ください。1枚目は、百里基地の戦闘機が撮影した本日の東京の様子と、利根川付近の謎の壁、この壁は県境付近の至る所で観測されています」
来たばかりの清瀬は、驚きの声をあげそうになったが、周りは言葉ひとつ発しない。きっと、清瀬が来るまでに議論し、現状を受け入れたということだろう。
受け入れる?これを?
清瀬は拳を強く握りしめ、資料を見つめる。
メモで状況は分かっていたつもりだったが、こうして写真を目の当たりにすると、とても平常心ではいられない。東京が廃墟となっている。地震や津波などの天災と異なり、瓦礫さえのこらない、黒く焦げたコンクリートや鉄骨を残すのみの圧倒的な暴力の跡、人間はなんと愚かな生き物なのだろう。と武器を扱う身であるからこそ、怒りがこみ上げてきた。
「そして、2枚目は、本日水戸市の大塚池に墜落した第二次世界大戦中の米軍戦闘機、そして百里基地に着陸した旧日本海軍の零戦と、そのパイロット墨田准尉の写真です」
えっ、零戦?
途中から参加したメンバーだろうか、そこまでは聞いていなかった。という驚きの声がところどころで挙がる。もちろん清瀬もその1人で、傍の百里基地司令に目を向けると、真剣な眼差しで頷き返した。
「知事、沢村助教授とオンライン会議の準備ができました」
零戦の写真でざわめきが起こり、会議が途切れたタイミングを見計らってか、情報担当と書かれたオレンジ色のビブスを着けた職員が篠崎と川崎の間に低く屈んで報告した。
「始めましょうか」
篠崎は傍の川崎に頷いてみせる。
「繋げてください」
川崎の言葉に情報担当が立ち上がり、モニターの近くにいる職員に合図する。モニターにチューブ状の巨大な輪が緑の中に鎮座する上空写真が映し出され
『時空転換装置の開発 つくば大学 工学部 環境エネルギー工学科 高エネルギー研究室』
という文字が誇らしげに画面を泳ぐ。全員がモニターに注目するのを横目に篠崎が立ち上がる。
「それではここで、今回の現象について、情報提供をいただきました、つくば大学の沢村助教授からご説明いただきます。正面のモニターをご覧ください」
ざわめく出席者に一礼した篠崎は、有無を言わさぬ意志でマイクを持つ
「沢村さん、県知事の篠崎です。聞こえますでしょうか?」
『はい、沢村です。聞こえております。よろしくお願い致します』
透き通った柔らかいトーンの声に、篠崎はどこか記憶の奥底がくすぐられる感覚を覚えた。
「お忙しいところ、つくば市役所まで足をお運びいただき、ありがとございます。早速ですが、『時空変換装置』と、大学側がお考えの状況をご説明いただけますでしょうか」
『時空変換』という言葉に再び沸いたどよめきは、先ほどの比ではない。幸い、オンラインのため、マイクを切っていれば相手に動揺は伝わらない。相手を萎縮させては何も引き出せない。
『はい、かしこまりました。では、初めさせていただきます』
スライドが切り替り、汚染された海や大気汚染を如実に示す画像が並ぶ。
「静かに!まずは聞きましょう」
声を荒げた篠崎の滅多に見られない態度に、一同静まり返る。
『…先進国では、脱炭素の動きが広がり、化石燃料に頼らない技術革新により大気汚染を減らす取り組みが進む一方で、全世界的にみると、途上国の急激な近代化により、化石燃料の使用が増えています。また、海洋汚染、湖沼、河川の汚染も減っているとは言い難い状況です。環境破壊はと止まることはなく、そして、破壊された環境を取り戻すのは、非常に困難であると言えます』
数百年前…流れた文字に続いてスライドに光の筋が瞬くと、豊かな緑の景色と、底の砂を映して柔らかく光を反射する水面が一面を埋める。
『自然には、レジリエンス、つまり回復力がありますが、圧倒的な人間による汚染にそれが追いつけなくなったがゆえに、環境破壊は起きている。そう考えた時、はるか昔の汚れのない自然、回復力が豊富な時代の大気や水質の一部を現在の汚染されたものと交換する。そうすることで、現在の汚染は過去の自然の中で浄化され、現在には、過去の汚れない自然が取込まれる。こうして、現在の自然環境を回復させることを目的に、私たちは『時空変換装置』の開発に着手しました』
「それって」
立ち上がろうとする土木部長を、篠崎は広げた手と鋭い眼差しで制する。質問は後だ。
一瞬でどよめきは収まり、学術的なスライドが次々に飛ばされる。
『開発のために技術的なお話は割愛させていただきます。
私たちが開発した時空変換装置は、過去の大気、水質資源を現在と交換するのが目的であって、歴史が変わるようなことがあってはなりません。過去との交換の際に、過去には存在しないあらゆる物質、生物の混入を防がなければなりません。
そこでもう一つの重要な要素となったのが、『エリアブロック』という機能です。』
こちらの動揺とざわめきに気付いたかのように、説明の声が止まる。
『ここまでよろしいでしょうか?』
不安げな声音でモニターから流れる。無理もない、こんなことを説明された相手の反応を幾度となくこの助教授は目にしてきたのだろう。会ったこともないこの女性に同情の念を抱き始めていた。
篠崎は、立ち上がると
「静かに!」
一喝した篠崎は「どうぞ、続けてください」と優しくマイクに吹き込んだ。
『ありがとうございます。『エリアブロック』機能は、過去と物質の交換中に外部からの侵入と外部への進出を防ぐためのものです』
スライドが切り替わり、同じ大きさの半透明の球体が2つ並び、それぞれ『過去』、『現在』と注釈が記載されている。
『簡単に申しますと、交換対象のエリアを時波の膜で包み込みます。
時波とは、時の流れをコントロールするエネルギーです。
例えば過去については、時波で囲まれた外部から向かってきた物は、内部を通ることなく、反対側に抜けます。『抜ける』というよりは、『飛ばされる』と言った方が分かりやすいかもしれません。つまり南から近づいて来た物は、時波の膜にぶつかった瞬間、北側の膜の外に出現します』
説明に合わせてスライド左半分の『過去』と書かれた球体がクローズアップされる。
球体の外側、左からゆっくりと移動してきた長方形の物体が球体にぶつかると、その丁度反対側、球体の右側の外に物体の右端が出現し、物体の移動にともなって右に伸びていくように見える。そして物体の左端が完全に球体の左側面に吸い込まれるようになくなると、球体の右側の物体は元の長方形の形となり、何事もなかったかのように球体の外を右にゆっくりと移動を続ける。
『過去』の球体が元の大きさに戻り、スライドの左半分に収まる。小さくなった『過去』の球体に同じく小さくなった長方形の物体が先ほどの動作を繰り返し続けている。
次に右半分の『現在』の球体がクローズアップされる。
球体の内側、中心にある長方形の物体が右方向に移動を始める。長方形が球体の内壁にぶつかると、その丁度反対側、球体の左側の内壁から物体の右端が出現し、物体の移動にともなって右に伸びていくように見える。そして物体の左端が完全に球体内壁に消えると、球体内壁左側から伸びていくように見えていた物体は元の長方形の形となり、何事もなかったかのように球体内を右へゆっくりと移動を続ける。
『簡単ではありますが、以上が時空変換装置の概要となります。ここまででご質問はありますでしょうか』
スライドでは、過去と現在の球体が左右に並び、長方形の物体が説明された動作を繰り返している。
まるでSFの世界に取り込まれたように呆然とする者、昔のアニメや映画の話題を持ち出し、評論家さながらに憶測を披露しあう者で場が混沌とする。
「ありません、続きをお願いします」
機能不全に陥ってしまった面々を苦々しく見回した篠崎が、先を促す。
『はい。ありがとうございます。
この時空変換装置と今回の現象についてですが、本日、時空変換装置が扱われた形跡がありました。その・・・』
どよめきが充満し、沢村の声が搔き消された。
「皆さん、お静かに!まずは聞きましょう。」
マイクのスイッチを入れた篠崎は、
「すみません、扱われたというところから、もう一度お願いします」
と静かに語りかける。
『詳細は調査中なのですが、防犯カメラの情報によると3名の留学生が無断で装置を扱ったことが判明しました。そして、彼らの行動を発見したこの研究の責任者の高砂教授が襲われ、意識不明の重体となっています。
現在彼らの行方を追っていますが、時空変換装置の設定が1945年4月1日にセットされていました…
高砂教授は意識を失う前に、エリアブロックを掛けました。彼らの目的が不明な中、歴史が不当に混じらないための防御の行動と考えられます。
恐らく何かが1945年と入れ替わっている可能性があります』
沢村の声は、無念に震えた。
「質問よろしいですか?」
一拍おいて、咳払いと共に発せられた言葉に、一同は静まり返る。
篠崎がゆっくりと声の主に頷くと、マイクのスイッチを入れた川崎が沢村の無念に同情するようにゆっくりと話し出す。
「防災・危機管理部長をしております川崎と申します。高砂教授の一日も早い回復をお祈り申し上げます。
さて、時空変換装置について仕組みはともかく、機能は分かったのですが、航空自衛隊の戦闘機が、1945年と思われる東京上空に行けた。ということは、エリアブロック機能が働いていない。ということでしょうか」
『ありがとうございます。
エリアブロック機能の操作履歴を確認したところ、最大範囲を設定したことが分かっております。最大範囲として、茨城県全体をプリセットしておりますが、未だ実験もシミュレーションもしていない未知の大きさです。このため、エリアブロック機能が完全に動作していない可能性は否めません』
申し訳なさそうに消え入りそうにな語尾が対策会議エリアに響く。
「一件、よろしいでしょうか」
薄いベージュ色のシャツに小さな金色の星の肩章を付けた体格が良くて上背もある男が真っすぐに手を挙げる。陸上自衛隊施設学校のある勝田駐屯地の司令で施設学校長も務める菅谷陸将補だ。施設部隊は、世界の軍隊では工兵と呼ばれる兵科で、戦闘部隊を支援するため、重機をはじめ様々な特殊器材を扱い障害の構成・処理、陣地の構築、渡河等の作業を行う部隊だ。施設という呼び名は護衛艦と同じように平和憲法に翻弄される自衛隊独特の呼び名である。
「陸上自衛隊で施設学校長をしております。菅谷と申します。エリアブロックを茨城県に掛けていた。ということは、県境一帯に何か変化があるという認識でよろしいでしょうか、どうぞ」
思わず無線用語が出てしまったらしい。相手の顔が見えず、電話のように送話と受話を同時に出来ない無線通話では「どうぞ」と相手に言われるまで、自分は喋れないルールになってる。
『はい、透明の膜を形成します』
答えの続きが無いのを待ってから菅谷が続ける。
「そうですか、透明の膜ではないのですが、県境付近で白い壁が出現した。という報告が相次いでおりまして、栃木県境付近の古河駐屯地の部隊が調査したところ、高さ300mもある白い壁が県境に沿って出現しております。工業用ダイヤモンド相当のとても固い材質で、純度の高い炭素で組成されていると考えられます。これとエリアブロック機能との関連性はあるのでしょうか?」
「どうぞ」とは言わずに、村沢助教授の言葉を待つ
『白い壁…、透明の膜を作る過程で、一時的に、と言ってもほんの一瞬ですが、炭素由来の白い硬質な物質が発生します。先ほど申し上げました通り、茨城県全体をエリアブロックすることについては、未知数でしたので、エリアブロックの形成途中で機能が停止してしまったと思われます』
「途中で停止!?ということは、あの時代と我々はツーツーということですか。早くブロックしないと、いや、また戻せばいい。仮にタイムスリップしたとしたら、元の時代に戻してくれればいいんだ」
じれったそうに手を揉みながら通話を聞いていた土木部長が勝手にマイクを入れて割り込む。
静まり返った場には、反論するものはいない。「戻してくれればいい」そう、それだけでいいのだ。一刻も早く。
『その通りです。エリアブロックが完全でない今、あの時代と空が繋がっています。しかし、戻ることはできないんです。装置が破壊されてしまって、復旧の目途がたっていません。エリアブロックも、元の時代に戻ることも…できないんです』
学者然としていた口調は、不安に押しつぶされそうなか弱い声へと変わっていった。