冬はやっぱりお鍋です
アールトーチ大陸の果てにある、魔王の根城の巨大な地下迷宮。その最奥にある玉座の間には、玉座は無く、一風変わった木の部屋がある。
そこは魔王バラサークの常在する『和室』という部屋であった。
かつてこの大陸を暗雲で覆い尽くし、人の世を奈落に突き落とした残酷なる魔王は、ある出会いを切っ掛けに悪の権化を辞め、今やすっかり善い人(?)になってしまった。
戯れに覗き見た異世界のニッポン。そこで目に留まったのはちゃぶ台という、魔王の世界には無い、背の低い小さなテーブルであった。何故か一目惚れした魔王がちゃぶ台を手に入れたその時。魔王の中で何かが変わり、何かが終焉を告げた。
もう、血飛沫とか悲鳴とか、殺伐とした事は嫌である。悪の権化やら闇の化身なんかは止めにする。
魔王バラサークは、今まで自分や魔王軍が死に至らしめた人々の魂一つ一つに心を込めて謝罪をし、安らかな場所を与えた。勿論すぐには許してもらえなかったが、時間を掛けて接するうちに和解が成立し、しまいにはとても仲良くなれた。
それから地上に蔓延っていた魔物達を撤退させ、暗雲を消し、破壊した建物や自然を元に戻した。人々は急に空が晴れて平和になった事に驚きつつも、その喜びをみんなで素直に分かち合った。
配下の魔物達は、魔王が方針を変えたからと言って不満に思う事も無く、むしろ迷宮の地下でのんびりと出来る事に嬉しそうな様子を見せた。
万事問題無し、これで良かった良かったと茶を飲んでいる所に勇者達がやって来て、一悶着あった末に何とか仲良くなれて、今は見事なまでの『ニッポンの和の暮らし(現代の便利さも込み)』を満喫してる魔王の部屋で、コタツ仕様になったちゃぶ台を囲み鍋をつついている次第である。
「ちょっと、いい加減にしなさいよフレデリク!」
魔導士サフィアが心底呆れた様子を見せる。絹糸の様な銀髪に青紫色の瞳を持つ美しいハーフエルフの乙女は、叡智を極め真理を探求する為に深淵にまで潜る程の勇気と実力を有した、強力な魔法を使いこなす天才であり、剣士フレデリクの(一応)恋人である。
「生煮えは体に悪いですよ」
大神官カルナードがフレデリクを嗜める。彼は茶色の短髪と焦茶の綺麗な目をした落ち着きのある好青年で、十八歳にして大神官になる程の才能を持つ、至高神グランゼリウスの信徒であり、回復や蘇生等を引き受ける頼もしき存在でもある。もうすぐ十九歳になる。
「いくらおいらでも生じゃ食わねーな。お前すげーよ」
大盗賊タルケットが感心した様に目を丸くして呟いた。麦の穂色の髪と榛色の目。一見可愛らしい少年に見えるハーフリングの彼は、孤高の義賊から一転、盗賊の頂点に立った過去を持つ。解錠や罠感知に優れた迷宮の達人であり、軽妙なノリとツッコミが得意の、勇者一行のムードメーカーでもある。
箸を手にやり場を無くしたフレデリクが膨れっ面を晒す。この剣士は他のメンバーよりも早く箸を使いこなしていた。以前一度だけ箸を使う機会があったサフィアは、自分より経験が無い筈のフレデリクの、天性の器用さと勘の良さに少しだけ嫉妬した。だからつい叱る様な口調になってしまう。
「もう、子供みたいにしないで! 魔王が困ってるでしょ!?」
「ぬっサフィアまで。何故みんな魔王に味方するのだっ」
「味方しているのではない。それが当たり前だから言うておるのだ!」
バラサークは鍋の蓋に手を置いたままプンプンと怒る。
「全く! 具を入れる端からひょいひょいと持って行きおって! これではみんなが均等に食えぬではないか! おまけにお主も腹を壊してしまうぞ!」
それを聞いたフレデリクは堂々とした笑顔で胸を張り、気持ち良いぐらいにこう言い切った。
「大丈夫だ! 俺は何を生で食っても決して腹を壊さん! 獣の肉も何でも全く平気だ!」
「何を食ってもって……馬鹿者! 獣の肉は生では危険であろうが!」
一喝してからバラサークはハッと気付き頭を抱えた。
「……何故魔王の儂が生肉を危険視して人間のお主が平気だと言うのだ?」
「おいおいフレデリク、いくらなんでも獣の肉を生でってのは言い過ぎだろ……死ぬぞ?」
タルケットが薄らと汗を浮べつつ、「嘘だよな?」という意味を込めて言った。フレデリクはきょとんとした顔でタルケットを見返し、朗らかに答える。
「いや、本当だが? 山籠りでしょっちゅう食ってる」
「えっ……」
「猪だろ、熊だろ、鹿に兎に鳥は何でも」
「……全部、生肉で……?」
ゴクリ、と喉を鳴らして、カルナードが恐る恐る尋ねる。
「おう! 山にある物は何でも食えるぞ、生で」
「川魚も?」
「食える!」
「茸も?」
「食える!」
「虫も?」
「食える!」
「……木の皮も」
「食える!」
「土」
「食え」
「もうやめんか!!」
魔王はちゃぶ台をぱん、と叩いて変な会話を止めさせた。フレデリクは再び胸を張り、
「俺は腹まで負け知らずの覇者なのだ! 参ったか魔王よ!」
と豪快に笑った。
フレデリク以外の者達は皆げっそりとした表情で顔を見合わせ、ただ静かに鍋の具が煮えるのを待った。その間中、バラサークは蓋を手で押さえたままだ。
「魔王、熱くないのですか?」
「うむ。平気である」
「まあそうだろうな。何たってバラちゃんは魔王だし」
心配そうに声を掛けたカルナードと、それに笑顔で答えたバラサークのやり取りに、タルケットがのんびりと口を出す。サフィアは鍋の湯気を眺めて欠伸をひとつ。
和室にはしばらくの間、ぐつぐつという音だけが響いていた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「何か喋れよお前達!!」
フレデリクが立ち上がりまた吠える。
「ここは曲がりなりにも魔王の根城だぞ!? そんな所で勇者が腑抜けになるなぞあってはならん!! 鍋にお呼ばれしたとてここは戦場! 何時如何なる時も戦場なのだ!! よってこれから俺達がする事は一つ!」
勝手に盛り上がって来た最強の剣士フレデリクは、芝居がかった大袈裟な身振りで魔王を指差し、声高らかに言い放つ。
「魔王から鍋の具を奪い取り、魔王に勝利する事だぁっ!!」
バラサークがフレデリクを無視して一言。
「……うむ。もう良さそうじゃ」
その鍋料理は寄せ鍋という物だった。肉と魚、様々な野菜に茸、そしてトーフとか言う謎の食材を、薄く色づいた汁で煮た、ニッポンの食べ物だと言う。
サフィア、カルナード、タルケットの三人は、箸の使い方に悪戦苦闘しながら鍋の具を自分の器に移し、湯気の立つそれらに息を吹きかけ冷ましながら口に入れ、旨さに感動しながら夢中で食べた。
しかしフレデリクだけは何故か再び膨れっ面で魔王と睨み合っている。
「っんだよ邪魔すんなよ魔王コラァ!」
「だ・め・じゃ! お主は既に自分の分を食うておる。後は彼等の食べる分!」
魔王と剣士の小競り合いを横目に見つつ、他の三人は懸命に箸を動かす。
(何だかんだで仲がいいよね、あの二人)
などと三人同時に思いながら。
鍋の具がすっかり無くなる頃に、魔王はつと立ち上がり、何やら白い物を二種類持って来た。一つは卵。もう一つは白い小さな粒の集合体である。
「おっ! これコメだろ?」
タルケットが目をまん丸くして言った。サフィアとカルナードは顔を見合わせ、タルケットに説明を求めた。
「コメって言う穀物でね、おいらが屋台で売ってたセンべーの原材料さ。大陸の端っこで作ってる村があるんだわ」
「麦とは違うのね……」
「初めて見るけど、美味しそうな物ですね」
「うむ、これは米である。精米して白いので、白米と言う。炊いた物はご飯と呼ばれておる。これからこのご飯を鍋に入れて雑炊を作る。鍋の〆と言うものじゃ。ちなみに雑炊にする時はご飯を流水で洗い、この様にぬめりを取るのが良いらしい」
そう言うとバラサークはさらさらのご飯を鍋に入れ、襲いかかって来たフレデリクの箸をお玉で弾いて逸らし、頃合いを見て卵を割って掻き混ぜ、再度襲いかかって来たフレデリクの箸をやっぱり弾いて逸らし、鍋に溶き卵を回し入れて素早く蓋をした。
「くっ何故だっ! 最初は楽勝だったのに今はまるで隙が無いっ!!」
「それはお主が鍋の具を生でひょいひょい食う奴だとは夢にも思わなかったからじゃ!」
バラサークは真っ赤な目をジト目にしてフレデリクを睨み、少しの間を空けてからまた鍋の蓋をゆっくりと持ち上げた。覗き込んだサフィア達が見た物は、フツフツと泡を立てる汁の中で、白いご飯と薄黄色の卵がふわふわと軽やかに煮えている光景であった。仕上げに魔王は、細かく刻んだ香味野菜(万能ネギと言う)をパラリと散らして入れた。
「完成じゃ」
「わぁ……」
「こりゃいいや」
「凄く美味しそうです!」
「うむ。これはレンゲで食うと良いぞ。ほれ剣士、お主も」
「おう、ありがとう魔王」
バラサークは四人に雑炊を盛った器とレンゲと言う匙を配り、自分の器にもよそってから、手の平を合わせ目を閉じて、「いただきます」と神妙に呟いた。ニッポンで使われているこの言葉には、素朴な品の良さと心地良い丁寧さを感じ、大層気に入っている。
「そう言えば魔王、ヨセナベは食べてなかったですね。足りますか?」
カルナードがまた気を使って声をかける。バラサークは雑炊にフウフウと息をかけながら「うむ。大丈夫であるぞ、カルナード殿」と返事をした。
「フレデリクが貴方の分まで食べちゃったんだわ。ごめんなさいね」
サフィアが申し訳無さそうに謝ると、その横でフレデリクは勝利のガッツポーズを取り、「魔王から食い物を奪い取ったぞぉ!」と雄叫びを上げる。それを見て眉をしかめたタルケットが、「せこい事で勝利宣言すんな」と、小さな手でフレデリクの頭を叩いた。
そんな騒ぎもすぐに治まる程、みんなひたすらに雑炊に夢中になった。色んな具材のダシがしみでた鍋の汁。それを吸い込んで膨らんだ米と卵。そんな旨い物を友と食べる。バラサークは雑炊と一緒に幸せも噛み締めた。
「あー食った食った」
食後、満足の溜め息とともに、タルケットが畳の上に伸びた。サフィアはちゃぶ台に両腕を組んで乗せ、その上に可愛らしく頬を重ねる。カルナードは鍋を片付けるバラサークの手伝いをして食器を下げた。フレデリクはテレビの画面に見入っている。
カルナードが三人の所に戻って来ると、その後からバラサークがお盆を掲げて戻って来た。お盆の上には湯気の立つ湯呑みが五つと、鉢に盛られた橙色の果物。
「煎茶とみかんである」
それからは実にまったりと過ごした。誰もが目をとろりと垂らし口元を緩ませて、コタツに突っ伏したり、畳の上に寝転がったり。
知らない者が見れば、魔王を前にした勇者にしても、勇者を前にした魔王にしても、確実に「駄目だろそれ」と口走るに違いない光景だ。だが彼等はそれでいい。儂と剣士達はこれで良いのだ、と、魔王バラサークは目を閉じ、ホッコリした顔で一人ごちた。
――と、不意に奇妙な音がして片目を開ける。ブチブチッモギュッモギュッ。
剣士フレデリクがみかんを手に持ち、口に運んでいるのが見えた。……外皮ごと食っている。魔王は目を閉じてこめかみを押さえ、こう言った。
「剣士よ…………それは皮を剥くのじゃ……」