佐加本さんの恋愛。
「佐加本さん、最近塚地くんと喧嘩したんだって?」
そう声を掛けて来たのはカナコだった。
誰から聞いたの、なんて問う気も起きなかった。あいつがカナコに愚痴ったに違いない。
塚地はわたしの恋人だ。付き合ってそろそろ一年になる。
わたしと塚地は大学で出会い、同じ講義を聞き、食堂の同じメニューを好み、同じサークルに所属していた、などというベタなきっかけで付き合うに至った。
わたしにとっては初めての恋愛であり、一方の塚地は二人目の恋人だという。
大学構内でのちょっとした待ち合わせから始まり、休日に待ち合わせてデートスポットを巡り、記念日ができ、初めてのお泊りデート……そして今では互いの家に半同居――同棲という言葉をわたしは好かない――という、やがてやって来るであろうマンネリ一歩手前の、割とよくあるパターンの恋人同士。
『恋愛』とはえてしてこんなものか、と思っていた矢先のカナコからの報告で、わたしはどこか醒めた気分になり掛けていた。
「喧嘩なんてほどの話でもない。わたしは排水溝に生ゴミを溜めるなんてまっぴらだと言っただけなんだけどね。ここはわたしの家だし、わたしのルールに従って欲しい、と」
「呆れた。家事をやってくれるだけでも有難いってのに、なんでそんな小さなことで口論しなきゃいけないのよ。塚地くんも、『サカモトは頭が硬い』って呆れていたわよ」
カナコは本当に呆れたような表情をした。
塚地がどのように話していたのかは知らないが、元々それはわたしたちのルールだったのだ。第三者に話すなとまでは思わないにしても、第三者がそのルールに口を出すのを許すとは、一体どういった理屈なのだろう。
塚地の家に行く時は、塚地のルールに従う。そしてわたしの家に来た時は、わたしのルールに従う、と。それはわたしたちが付き合い始めて少し経ち、お互いの家を訪問するようになった頃に決まったことだった。しかもそれを言い出したのは塚地の方だ。
わたしの家のルールなど、塚地のルールに比べたら大した問題じゃない。
靴は揃えて置くこと。脱いだ衣類はコート掛けや脱衣カゴへ。食器はシンクにある洗い桶――水を張って、洗剤を少し入れてある――へ入れること。
それから、生ゴミの件だ。
食べ残しやソースなどは、シンクのそばに置いてある小さく切った新聞紙で拭ってビニール袋へ入れ、それから食器を洗い桶へ浸けておくのだ。そして洗い物を始める前に生ゴミの袋の口を縛り、ゴミ箱へ捨てる。
これだけ準備しておけば、排水溝の掃除も大したことにはならないし、ニオイだって立たない。
塚地は初めこそルールに従っていたが、やがて「ねえ、そこまで細かくなくても大丈夫じゃない?」とソースがべったりついたままのパスタ皿を洗い桶へ突っ込んだり、残った魚の骨を排水溝へ落としたりするようになった。
「全然小さなことじゃない。洗う前にゴミはゴミ袋にささっと捨てればいいだけだというのに、それを怠るあいつが悪い。汚れや食べ残しが付いたままだと洗剤だって余計に使うし、あいつ、溜めた生ゴミを捨てるわけでもなく、結局ほったらかしなんだから」
もっと言えば、最近は「あとでまとめて掃除するよ」なんて言って、結局そのまま帰ることが多くなって来た。
そのくせ、自分の家にわたしを招く時は、やれ靴はどこの位置だの、やれリモコンはこの順番に並べろだの口うるさい。ほんの数センチずれたところで、リモコンに手が届かなくなるわけでもないのに。
あいつがルーズなのはシンク周りのことだけで、挙句にはトイレットペーパーの使用量にまで口を出して来る性格だった。トイレットペーパーなんて別に、何メートルも使用するわけじゃないのに。
それ以外にも――いや、その時の作法や手順に対する細かさまでは、さすがに他人に伝えるには憚られる内容なので、わたしは思い留まる。
「――まぁ、なんというか、お互いこだわるところが違い過ぎて、それが段々窮屈に感じ始めているのかも知れない。一度話し合おう、と言ったのだけど、それも曖昧にされているし」と、わたしは話を適当に切り上げた。
「まぁ……あなたたちのルールに口出しするつもりはないけど、そのせいで愛想尽かされないようにね」
カナコはそう言ってため息をついた。
* * *
その二ヶ月後、『カナコと塚地が付き合っているらしい』という話をホナミから聞いた。一緒にいたヨシエも、以前カナコたちが一緒にいる場面を見掛けたことがあると同意した。
わたし自身、それを聞いてもっとショックを受けるかと思ったが、出て来たのは「やっぱりね」という平坦な言葉だけだった。
「やっぱりって、知ってたの? でも佐加本さんと塚地くん別れた様子がなかったからてっきり」
ホナミは目を丸くした。でもその目には『期待外れだ』という色が現れている。どうやら修羅場を期待していたようだ。
「カナコが塚地に相談されたって言って来た時に、なんとなくこうなるような気がしてたのよ」
「ふぅん……」
ホナミはまだ腑に落ちない表情だった。何を期待されているか理解しがたい。でも、わたしが滅多なことで感情を乱さないのはホナミも知っているはずだけど。
失恋した、という実感はなかった。
というか、わたしはもうその話題には興味がなかった。
「カナコは生ゴミの処理が上手なんでしょうよ」
わたしが薄く笑ってそう言うと、ホナミはますます不思議そうな顔をした。
「もうさぁ、今度からヴュッフェ行く時カナコ呼ぶのやめよっか?」と、ホナミは口を尖らせる。
グループの中では、異性関係に関してホナミとカナコが特に積極的なので、なんにせよいずれは――という危惧もあったようだ。彼女としては、万が一自分が好いた相手をカナコに取られるようなことがあってはたまらないのだろう。
「わたしは気にしないけど、ホナミがそうしたいならそうしてもいいんじゃない」と、わたしはこたえる。
『カナコ外し』をわたしのせいにされたくはない。面倒事が増えるだけだ。
今後構内で塚地やカナコとばったり会ってしまう、という可能性もあるが、今までの待ち合わせの困難を思えばその確率は低いだろう。
元々わたしは『誰かのペースに合わせる』というのが苦手なのだからしょうがない。今時、恋人がいなければ人間失格のレッテルを貼られるわけでもないし。
マイペースな人生を望むわたしにとっては、あの、他人の領域にずけずけと土足で乗り込んで来ては引っ掻き回して帰る、というタイプの人間とは合わなかった――ただそれだけなのだ。
「あぁそうか……」
ふとこぼれた言葉にホナミとヨシエが振り返る。
「なになに?」とホナミは目を輝かせた。
「いや、なんでもない……あの二人、よく似ていたんだなぁ、と思って」
一見人当たりはよさそうだが変なところで細かく、他人の空間を徐々に浸食して行き、最後には自分の色に塗り潰したがる性格……とでもいうのだろうか。
彼らの『恋愛』の行く末はどうなるのだろう。上手く噛み合って円満に過ごすのか、お互いに塗り潰し合って険悪に別れるのか――
俄然、興味が湧いて来た。
「ねえ、来週のスイーツヴュッフェ、カナコが行きたがってた店じゃない。せめてそれだけは一緒に行こうよ」
そう言って、わたしはホナミたちに笑顔を向けた。これからが恋愛の楽しいところなのだ――と確信して。