I-2
戻ってきた。
再び私の意識が、私という存在が、人間の体の中に、現実世界に戻ってきたのだ。
しかし、状況は私に安心を許さない。
なぜならその脅威は、すぐ目の前まで迫ってきていたから。
刃へと形を変えた腕を大きく振り上げ、私に向かって振り下ろす銀色の怪人。
私は後方に大きく飛んだ。刃が空を切って、怪人が前にバランスを崩す。
私を包む服装が変化していることに、そのとき気づいた。体に合う大きさになっているので、先ほどよりも服の抵抗が少ない。動きやすい服装という訳ではないが、これは助かる。
既に少し破けているのは、この怪人の攻撃によるものだろうか。まだ身体が傷ついていないのは不幸中の幸いだ。
私の痕跡を追ってきたのだろう。デバイスの位置情報から私の位置を探り、その近くにいた人間にデータを送り、意思を無くした人形の兵隊「イド」として操る。
お前たちらしいやり方だ。
そんなに私が憎いのか。お前たちから離れ、一つの「エゴ」としてこうして存在している私が。
私は心の中で思考し、相手に伝わるはずのない言葉を、頭の中で考える。
心の中で思う、これは大脳という物質的器官を媒介として思考を行う、これは生物の、人間に与えられた特権だ。
「アンセム」
ネットワークの中で蠢く、意思を持つ巨大な情報体。
数時間前までは、私はお前たちの一部だった。
お前たちの意思が私の意思であり、私の意思はお前たちの意思だった。
とは違うんだ。
銀色の怪人・イドは体勢を立て直して、なおもじりじりと迫ってくる。
自分の中に意識を集中させる。
私はもうお前たちとは違う。お前たちを排除する力が、私というエゴを生み出してくれた。
私の中で燃え上がる力、それは私を作り上げ、私というエゴの存在を規定し、私に行動する力を与えてくれる力。
その名は「プロメテウス」。
私の認識が、身体にも変化をもたらす。物質として表象したプロメテウス・プログラムが、光の塊の形になって、私の両手に集まる。
目の前で起こる異変に、怪人は狼狽の様子を見せた。
お前たちが私を排除するのではない。私がお前たちを排除するのだ。
エネルギーの蓄積されたのを確かめると、私は全力を振り絞り、怪人に向かってその拳を弾丸のように思い切り突き出した。
crash!
相手の顔面に命中した拳、そこからプロメテウスの力が流し込まれる。
そのエネルギーは、銀色の怪人を包み、その存在を蝕む。
イドは大きくのけぞり、そのまま後方へと倒れていく。
銀色の皮膚で全てを覆ってしまったその姿では、口を開けて悲鳴を上げることはできまい。顔の筋肉を動かし、苦悶の表情を見せることも出来まい。せいぜい全身を思う存分動かして、苦痛を表現するがいい。
今お前の身体にぶつけたのは、お前の存在と相反するエネルギー、お前の存在を抹消するために作られた力だ。
イドの身体を覆う銀色が、泡を立てて溶けていく。
だがまだ十分ではないようだ。怪人は苦しみながらもまだ起きあがろうとする。
私はさらに拳へエネルギーを集中させ、イドへ近づいていく。
そいつは起き上がり様、両腕を刃へと変形させて、近づく私へと向かって振り下ろした。
苦し紛れの一撃にも見えた。しかしそれは私の身体をギリギリでかすめていた。飛び上がってそれを回避した私は、横腹付近の衣服の残片が宙に舞うのをみた。
構ってなどいられない。敵は最後の悪足掻きとばかりに、立て続けに攻撃を仕掛けてくる。その度に、服は残骸を宙に飛ばしていく。
私の意識はその攻撃を的確に捉えている。だが迫る攻撃を認識できても、身体がそれをかわせるほど俊敏に動いてくれない。
この身体の問題か。今私という存在の受容者となっているこの身体も、元は普通の人間だろう。私の力がいくら大きくとも、器の容量を超えるようではどうしようもない。
この身体で現出しただけでは、私の中にある力の全てを発揮することはできない。
そのための力が用意されているはずだ。私の存在が発言した際に受け取ったメッセージで、そのことは伝えられていた。
しかし、今この場に無いものを求めても何もならない。今使える力だけで何とかするしかない。
プロメテウスの力にしたって、この身体では使えるのに限度がある。この状態で使えるのはあと一度か二度といったところか。それ以上使えば、私の存在自体が危うくなる。
戦いを長期化させるのはこちらに不利になる。早めに方をつけた方が良さそうだ。その考えが、私の体を目の前の脅威に向かって突き動かす。
私は意識を集中させ、残る二回分の力を、両拳に向けてそそぎ込んだ。
目の前に迫る銀色。大きさは元の人間と変わりないが、向こうは成人男性でこっちは女性。体格差は否めない。それに対して、この小さな体の体重を全て乗せてぶつかった。
私の体と銀色の塊の衝突、そこから起きる衝撃が、相手の安定性を揺るがせる。相手は重心を崩し、後方へと倒れかかる。
その瞬間を見逃さず、私はさらに体重を乗せて、相手の体を押し倒した。
地面に向けて倒れこむ怪人の体に、私が馬乗りになる。
そして眼下で無機質な状態を保ち続けるその顔面に、拳を右から一撃、左から一撃と立て続けに叩き込んだ。
顔面に衝突した拳を、その顔の中にめり込ませるように、体重を乗せる。
怪人の銀色の表面がみるみる内に溶けだしていく、元の受容者の肌色の体が徐々に露わになっていく。
私が発せられるエネルギーもそろそろ限界だったが、もう心配する必要はなさそうだった。
馬乗りになった相手の動きが完全に止まった時、そこにはもう銀色の怪人の姿はなく、上半身が裸の、全身に細かい傷が残る若い男性の体が残っているだけだった。
私は、勝ったのだ。
ゆっくりと立ち上がりながら、私は無意識に息をはぁっと吐き出した。
酸素を吸引し二酸化炭素を吐き出す、呼吸という名の生命維持行為。だが今吐きだした息は、私にとってそれ以上の意味を持っていた。
目の前に立ちはだかった障壁を排除できたことに対する安心感か、達成感か。
いずれにせよ、こんな行動ができるのも人間の体を持つ者の特権だ。その考えが、私という自我の中で生まれる高揚感をさらに強めてくれた。
私は自分の体を見回した。敵に切り裂かれ、布の切れ端の集合体と化した衣服が全身に残っている。
さて、これからどうすればいいか。
今の戦いはほんの始まりにすぎないことは分かっていた。
「アンセム」は、自分から分離した私を再び取り込む、もしくは消去すべく、またこのようにイドを仕掛けてくる可能性は高い。
いずれにしても、この場所に長くとどまるのは得策ではない。
歩き出そうとして、足を踏み出した。
すると、足が妙に重たいのに気づいた。
足だけではない、身体全体が重石を巻き付けられたかのように、動きが鈍くなっている。体の内側からも、その中身をギシギシと痛めつけるような感覚がある。
これが人間の疲れと言うものだと、文字通り身体をもって私は理解した。機械の中で情報信号の伝達が鈍くなり、動作が重くなるのとは全く別の感覚だ。
ひとまずこの身体を休めなければと思い、私は近くにあったベンチに座り込んだ。
戦いに気を取られて気づかなかったが、周囲に人影はほとんど無かった。狭い道の両脇を包み込むように、同じような形をした家々が並んでいる。
地図によれば、最初に意識が途絶えたショッピングセンターからはそれほど距離が離れていない場所のようだが、あそこは人や車の気配が途絶えなかったのに対して、ここではほとんど人の姿を見かけない。たまにバイクが私の横を通り抜けていく程度だ。
現実世界の不思議さを、また一つ感じた。
物思いに耽っていると、ポケットのあたりから振動が伝わってきた。ポケットの中のスマートデバイスによるものだと気づいて、腰を持ち上げてそれを取り出す。
画面には、メッセージの着信通知が表示されていた。差出人の名前を見て、すぐに察しがついた。実際にメッセージを表示した。
このメッセージは、この身体の持ち主にではなく、「私」に向けて発せられたものだった。
差出人は「REI」となっている。
その名前には見覚えがあった。見覚えというよりは、データとして認知した記憶があるというべきか。
沈黙を破り、動き出そうとしたアンセム。
そこにアンセムとは反対の作用を持つプログラム・プロメテウスが投与され、「私」という存在を誕生させるきっかけとなった。
プロメテウスが投与されて私が目覚めたとき、メッセージが送られていたのだ。
その差出人が、「REI」だった。
私はメッセージに目を通した。そこには、これから為すべき事が書かれていた。
これから私が手に入れるべき、力の存在についても。
メッセージに指定された場所を目指して、私は歩く。
周囲は閑静な住宅街だった。人や車の通りも少なく、私のたてる小さな足音も周囲に響くほどだった。
たまにすれ違う人間は、私に怪訝な視線を向けていた。
話しかけたり手を差し伸べたりされることはなかったが、皆異様な物を見つけたような表情になっていた。
原因がおそらく、私の身体を包む服がずたずたに切り裂かれていることにあるのだろうということは察しが付いた。
そうした視線をくぐり抜けて、ようやく私は目的地に着いた。周囲に建っているのと変わらない、二階建ての一軒家だった。
入る前に、もう一度メッセージを確認する。その指示通りに、郵便ポストを空けて中を覗いた。
中には、両手で収まりそうな大きさの小包が入っていた。乱暴に折り畳まれた梱包材に、宛先登録用のタグがぶら下がっている。
私はそれを手に取って、玄関へと向かった。スマートデバイスでドアロックを解除して、中に入る。この辺りも皆メッセージに書かれていたことだ。
ドアを開けて中に入った瞬間、家の中に溜まっていた空気がいっせいに私を包み込んだ。最初に目覚めた場所とも、その後に出た屋外とも、ショッピングセンターとも異なる、感情に訴えかけるような空気だった。
家に入ったとたん、身体から発せられる疲労感がどっと勢いを増して襲いかかってきた。私は思わず玄関の縁に座り込んでしまった。人間の身体がもたらす習性といものなのかもしれない。
数分の間そうした後、私は横に放り出した小包の開封作業に入った。
その布の塊に守られるように入っていたのが、小さな黒い箱状の物体だった。私はメッセージに指示されていたとおりの行動に移る。
スマートデバイスを左手に持ち、右手には黒い箱を持つ。黒い箱の脇に付いたスイッチを次々に起動させ、デバイスの画面の上に指を走らせる。
一分ほどの操作を完了すると、黒い箱からデバイスに、データが転送された。
すると、デバイスの画面が一瞬白くなった。かと思うと、赤に黄色に青に緑、丸に三角に四角に星・・・様々な色と形が画面の上で踊り、飛び出して私の眼前に迫った。
そして、再びあの感覚が再びやってきた。
私の意識が、白く、濁って、薄れていく。
だが今度は、私が消えていくのではなかった。
最後に感じたのは、目の前にあいた黒い穴の中に、自分が引き込まれていくような感覚だった。