A-2
霧に閉ざされた空間にいるような、一面の白。
それが徐々に晴れ始めて、世界が形を帯び始める。
夢、そう、夢を見ていたんだ。
学校で授業を受けていたら、突然僕の身体が溶けるように変化し始めて、慌ててトイレに駆け込んで鏡を見たら、そこには女の子と化した僕の姿があった。
非現実的だが、生々しい夢だった。でもようやく目を覚まして、現実に戻ってくることが出来たんだ。僕はそう納得しようとした。
……夢からの目覚めにしては、何かがおかしい。
まず今自分がいるのは、寝慣れた我が家のベッドではなかった。布団も掛けられていなかった。
周囲を何かに囲まれている感覚が伝わってきた。妙に狭い空間だ。
それに、やたら寒い。もう5月だというのに、こんなに寒い朝があるだろうか?
そもそも僕は、寝てすらいなかった。意識を取り戻した時点で既に身体は起きていた。どこか狭い空間に、ひざまづいていた。
僕は顔を上げて、前を見た。
白。
でもさっきまで視界を包み込んでいた霧の白ではない。
それは雪の白、絹の白、すこし赤みも帯びていた、人の目を引きつけるような白が、柔らかみを帯びた曲線の中にある。
全裸の女の子が、目の前で脚を横にして、ひざまづいていた。
顔がフライパンに押しつけられたように熱くなる。
「う、うわあああああ!」
周囲の壁中に響きわたる、女の子の悲鳴。
目の前の彼女は顔を真っ赤にして、慌てて腕で胸と股間を隠す。ぱっちりとした目をかっと開いて、その目を涙で潤しながらこちらを見つめてくる。
泣きたいのはこっちだ。悲鳴を上げたいのはこっちだ。どうして。僕はこれまで女性と無縁の生活を送ってきた。恋人どころか女友達すらいないのが現状だ。そんな僕が、どうして裸の女の子の目の前にするという状況に置かれているのか。脳みそが直接かき回されたかのようなパニックに、僕は陥ってしまった。
そのせいで、目の前にあるのが鏡だと言うことを認識するのにも、一分近くかかった。
鏡に映っているのは僕だ。
つまり、女の子になった僕が、すべての服を脱ぎ捨て、脚を横においた女の子座りで座っているだけだ。
なんだ、よかった。
……よくない!何も解決していない!
女の子になったのは本当だった。あの夢は現実の出来事だった。
それだけでも異常事態だが……それを認識したときは、学校のトイレだったはずだ。学校の鏡で、身体が小さくなったせいで少しダブついた制服をちゃんと着て、鏡を覗き込んでいたはずだ。
その直後に、頭が砂嵐の入ったテレビのような状態になって、そしてそのままプツンと切れて……
「あの、お客様、どうかされましたか?」
声が聞こえた。女性の声だった。さっき上げてしまった叫びを聞きつけたのだろうか。僕は恐る恐る、周囲を見回しながら後ろを振り向いた。
身体の周りには、衣服がまき散らされていた。その中には今まで僕が着ていた肌シャツや制服の上下もあったが、大半はフリルやレースがついている、女性用のものだと分かった。何故かブラジャーまで複数まき散らされている。
背後の空間は、カーテンで仕切られていた。どうやらここは試着室のようだ。
「お客様、開けてもよろしいでしょうか?」
「あ、いや……!な、何でもないです!」
女の子の声で慌てて言うと、声の主はそうですかといって去っていった。一瞬待って、僕はそっとカーテンを空けて外を見た。声の主らしき女性の姿が目に入る。その格好には見覚えがあった。いつも買い物に利用する、駅前のスーパーの店員さん服だ。
ここは駅前スーパー、知っている場所にいるという確認が、少しだけ心に安心を取り戻させる。
さて、これからどうするか。この場所に留まっていてもどうしようもない。
学校に戻る、いや女の子の格好のまま戻っても、誰も僕だとは認識してくれないだろう。最悪不審者が入った言われていろいろな人に目を付けられてしまう。
ならば、家に戻るのがとりあえずの選択としてありだろう。宛がある訳じゃない、でも家に戻って落ち着けば、何か次に為すべき事が思いつくかもしれない。
そこまで考えた後、僕は自分の姿に気がついた……でも何よりまずは、服を着るのが最優先だ。
僕は脱ぎ捨ててある服の中から、脱ぎ跡の残る肌シャツとパンツを拾い上げ、それを身に着ける。
さらに身体を倒して、制服上下へと手を伸ばす。
が、ここで僕の手は止まった。僕の全身を包む違和感と、そこから浮かんだ一つの考えが、僕を制止したのだ。
全身に纏わりつく布の、下着の感触がいつもと違った。下のほうはごわごわとした感触があり、どうも気持ち悪い。そして上のほうは……身体を動かすたびに、突き刺すような、痛いような、それでいて少し気持ちいいような感覚が……胸の膨らみが動くたびに、その先端がそれを覆うシャツと擦れる度に、そんな感覚が全身を走った。
今着ている下着が、身体には合っていないことを自認した僕は、床に何着もまき散らされた女性用の下着を、壊れ物でも触るかのように、指先でそっと拾い上げた。
両手の間に握りしめたそれを見つめて、ごくりと息を飲んだ。そして脇の方に付いていた値段表を見る。
いったんその下着を置くと、制服のポケットに入っていたスマートデバイスを取り出して、財布アプリを起動する。
毎月姉から送付される生活費。衣食住に必要な額よりも遙かに多くの額を振り込んでくれる上に、一週間前に送金されたばかりなので、十分に金額はあった。
今は女の子の身体になっている。それに合う服を着たほうが、動く上でも都合がいい。それだけの理由だ!それ以外に理由はない。
自分自身にそういい聞かせると、僕はカーテンからそっと顔を出し、こちらを見つめている店員さんに声をかけた。
店を出て、入り口近くのガラスに、自分の姿を映してみた。
僕はそれほど女性に対して積極的に興味を抱くほうではなかった。しかしそんな僕から見ても、鏡に映ったその姿は「可愛い」と言ってしまうようなものだった。
ブラジャーにより胸の膨らみは押さえられ、パンツ……女性用のはショーツと呼ぶらしいが、それも下半身にしっかりフィットしてくれている。
身体を包んでいるのは、のブラウスにショートパンツ。元男としてのせめてもの意地で、なるべく男性用の衣服に近い形状のものを身につけたかったのだ。……下着を身につけてしまった以上、もう意地も何もあったものではないけれど。
あと靴も、上履きではどうしようもなかったので、サイズの合ったスニーカーを履くことにした。
総額で1万円近くかかってしまった。普段は特に何とも思わない姉からの多額の送金に、ここまで感謝したのは初めてだ。
元着ていた物が入れられた袋を、片手からぶら下げている。
店を出たところで、僕はガラスに自分の姿を映してみた。
こちらを見つめるその姿は、誰が見ても可愛い女の子だ。
僕は思わず見とれそうになるが、何とか自分の欲望を押さえつける。ナルキッソスになっている場合ではない。今は家に帰ることが最優先だ。
僕は家への道を歩き出した。駅に掲げられた時計は11時の近くを指していた。駅前の広場も、人の姿が増え始めていた。
「ねぇねぇ、そこのキミ!」
駅前広場を出ようとしたところで、突然呼び止められた。男の声だった。
そこにいたのは、大学生の男三人組だった。みな現代風のファッションに身を固めていて、背もそこそこ高い。いや、僕が小さくなったから、彼らが大きく見えるのか。
「キミ可愛いね。よかったらさ、」
……もしかして、これはナンパというヤツなのでは。平日の昼間から街中でこんなことをするなんて、なんて暇な人たちなんだ。
「俺たち暇なんだぁ。一緒に遊んでよぉ、ホラホラ」
「ご、ごめんなさい!僕急いでるので……!」
逃げようとするが、男たちはあきらめない。
「自分のこと僕なんて言っちゃうわけ?可愛いじゃんかもう」
「そんな素っ気ないこと言わずにさぁ……ほら、いい店知ってるから、ちょっとお茶付き合ってほしいなぁなぁんて」
男の一人が僕の手をぐいと掴んでくる。
「ちょっ、やめて……」
振り払おうとするが、男の力が強くて全く離れない、いや、女の子になった僕の力が弱くなっているのか
スマートデバイスを取り出して画面を取り出す。私はその隙に逃げようとするが、残りの二人が私の行く手を妨げるように前に立つ。
もう無理やりにでも逃げるしかないか。幸いここは駅前の近くだ。いざとなったら大声でも出せばいい。
「おい、 どうしたんだ?」
二人の男の注目が、僕からもう一人の、スマートデバイスを手に持った彼の方へと向いた。逃げるには絶好のチャンスだったが、異変の気配を感じて、その場を動くことができなかった。
そして、異変は始まった。
その男の身体から、ピキピキという音が聞こえ始めた。木と金属が奏でるような、重々しくも乾いた音だ。
そして男の身体も、その音に合わせるかのように、大きく揺れ動く。
「お、おいどうしたんだよ……ユウタ」
男の一人が、異常を示したユウタという仲間にそっと手を伸ばす。
しかしユウタは、獣のような唸りを上げてその手を払う。明らかに先ほどとは違う男の様子に、仲間二人は怯えを見せ始めていた。
さらにユウタの身体の表面にも変化が起き始めた。髪が、顔が、服から露出している手が足が、盛り上がる粒子によってその形を失い始めた。
それは僕にとっては見覚えのある光景だった。同じだ、僕の時と。僕もこんな風に、全身が泡立つ奇怪な現象とともに、僕の身体は女の子のそれに変わっていった。
その男の身体は女性に変わるわけではなかった。代わりに、その肌が銀色に染まり始めていた。それはまるで銀色の絵具が素肌を塗り尽くしていくかのように、男の身体は金属に包まれていった。
すっかり銀色になった頭がゆっくりと起きあがる。目も鼻も口も、全てが銀色に包み込まれ、彫り跡が残るだけの無機質な顔がそこにはあった。
銀色の男はカタリという音とともに、その無機質な僕の方に向けた。
「ひいっ!」
二人の男はそれに合わせたかのように逃げ出した。
怯えていたのは僕も同じだ。瞳も瞼もない、銀色の目の形をした彫りから向けられる視線に突き刺され、蛇に睨まれたカエルだ。
ヒュウン!
銀色の一閃が、それを避けようとした僕の本能が、僕を動かしてくれた。
銀色の男は、顔と同様に銀色に覆われた右腕を、僕に向かって突き出したのだ。一瞬の差でそれをかわした僕の身体は、横に大きく傾き、そのまま床に手を突く形で倒れる。
男はじりじりと僕の方に迫ってくる。その顔には何の表情もない。しかしその中には、僕に対する敵意、いや殺意が見て取れた。
僕の身体の変化に対する衝撃など、どこかへ飛んでいってしまった。
今はただ、目の前の脅威が僕の頭の中を占めていた。
一体何なんだ。なんで人間が銀色の怪物に。そしてなぜ僕に襲い掛かってくるんだ!
人通りのない道を、逃げるしかない。逃げても逃げても、銀色の影が追いかけてくる。
叫んだところで、完璧な防音の壁に囲まれた家の中に僕の助けを求める声が届くはずもない。
人がいるところまで、逃げるしかない。
0……1……0
0001010000……00000101101101010……000010110110100010
それが、また起きた。
脳の神経を駆け巡る電気信号が、数字のイメージをもって僕の中に迫ってきた。
00001011010……No,……No,……100100100001000100001
目の前の脅威から逃れるために必死に体を動かす中でも、それは僕の中で蠢いていた。
No……No……チ…ガ……ウ…No……違う……
前と同じように、それは僕の認識の中で、言葉という明確な形を持って現れ始める。
違う……違う…………戦う…………
言葉の形はだんだんと大きくなり、僕の意識を支配し始める。それは僕の中で沸き起こる、僕の意思とは異なる存在だった。
戦う。
私は、戦う。
まただ。またやってきた。
再び自分の意識の中に霧がかかっていき、見えているものが、聞こえているものが、感じているものが薄れていく。
消えていく中で、僕は確かにその存在を認識した。
僕の中に、誰かがいる。