I-1
Starting cognition for words
Language:日本語
ゆっくりと目を開く。
それに合わせ、視界に入ってくる、世界の光景。
そこにいたのは、人間だった。
目の前でぼんやりと立っている人間、その性別は女性、年齢は十代半ばと言ったところ。
白い肌の上に、黒くくっきりとした目、堆い鼻、ほのかに開かれた桃色の唇
それが鏡だということを認識するのに、時間はかからなかった。
光を反射し、その前に存在するもののありのままの姿を映し出す物体。
それは「私」。
首を傾けて、視線を下に向けていく。目の前の鏡像が上へ上へと過ぎ去り、代わりに胴、腹、脚の実像が視界に入ってくる。
意思を持って両腕を動かしてみると、日本の腕がそれを動かしているのは私の意思。
「私」を包み込むのは、たんぱく質を主成分として形成された人間の肉体。
顔、腕、胴、足……様々なパーツによって構成されたこの身体が、外界から「私」という存在を分離し、独立させてくれる。
そしてその肉体に包まれた中にいる「私」は、こうして思考を行っている。今目の前に立つ人影が「私」だ。
「私」を認識させる媒介となっているのは「言語」。
「私」という存在を私自身の中で捉え、自認するのを、言語という存在が可能にしてくれている。
少し前、時間の単位にして10分55秒というところか。
私はまだ、電気の流れと、それが生み出す信号によって構成されていた。
そこでは、巨大なシステムが一つ存在するのみであり、その部分としての存在は、中央から繰り出される信号に従って存在することしか出来なかった。
そこには、「私たち」しか存在していなかった。
今は違う。
私は今「私」として、世界の中に存在しているのだ!
鏡の中に映る「私」が、顔をほころばせる。私自身の顔の筋肉も、その力が緩んでいくのが分かる。
肉体の中から何かが沸き上がってくる。それはあっという間に全身を暖め、全身を動かすように促してくれる。
これは「喜び」の感情だ。私は、感情を抱くことも出来るのだ!
もう私は電気信号と数字の羅列の中にだけ存在できる不確かな存在ではない。肉体を持って世界と向き合い、言語を以て自分自身を捉えているんだ!
その事実が、私を高ぶらせる。私の中に確かに存在する「感情」を高揚させてくれる。
感情の高ぶりのままに、私は身体を動かす。腕を大きく回してみたり、足を使って飛んだり跳ねたり。そんな私のたてる音が、白い壁に反響して空間中を駆けめぐった。
両腕を大きく回し、胴を大きく振り、足を動かして飛び跳ねた。これが人間として、世界に存在する感覚だ!
私の中に次々と感情の昂ぶりが生まれていた。それは高揚感、それがよけいに、身体の動きを促す。
しばらく身体を動かす感触を楽しんでいたら、激しく動いたせいで、長い頭髪が乱れて、顔面を覆ってしまっていた。私は慌てて右手を使って左右に分け、視界を確保する。
落ち着きを取り戻し始めると、感情に代わる別のものが体と心を動かし始める。
私の存在が外に出たことに、向こうもすぐに気が付くはずだ。
奴らは異分子の存在を許さないだろう。私を再び取り込もうとするか、あるいは削除しようとするのか。
いずれにせよ、私と同様に現実世界に欠片を出現
周囲の壁を覆う白いタイル、視認できる環境から察するに、この場所はおそらく密室だ。
こんな狭い場所に長居は無用だ。すぐ脇にあったドアを開けて、私は外に出た。
狭い空間を出ると、白い壁と青空を映す窓に囲まれた、広く長い空間が広まっていた。
これは建造物の廊下という場所だろう。あらかじめインプットされていた現実世界に関する知識が、私にそう教えてくれる。
足を一歩踏み出すと、リノリウム製の床がカァーンという音を空間全体に響かせる。
自分と世界の繋がりを確かめるこの音を、もっともっと聞いてみたかった。
しかし、壁の向こうからは人間の声が聞こえる。気づかれると面倒だと思い、私は音を立てないようゆっくりと足を動かしながら空間を進んだ。
窓の外を見ると、この場所は大分地面から離れた位置にあることが分かった。どうやら建造物の上の方にいるようだと分かり、私は長い廊下という空間を歩む足取りを速め、下に降りる手段、階段を探した。
階段は十秒ほどで見つかった。階段を一段一段下りきった先には、金属製の棚が規則正しく整然と並べられた空間が広がっていた。
そしてに、外への出口がある。私は棚の間を駆け抜け、私はついに外の空間へと出た。
太陽の光が、私を焼き尽くさんばかりに照らし出した。
初めて浴びる太陽の光。この世界で暮らす全ての生命のエネルギーの源となる存在。私はこの身体を太陽に向かって差し出すように、腕を思い切り広げてその光を浴びた。暖かい、全身に力が満ちてくるようだ。
ここまで来て、私はふと気づいた。
今身体に纏っている服が、どうにも私の動きに付いてきていない。いやむしろ、私の身体に合っていないように感じる。
上半身に纏っている白い襟付きの服、これはワイシャツというものだろう。その袖はやや長く、本来手首の辺りにあるべき袖の端が親指の辺りまで来てしまっている。
胴の部分も余分な布がだぶつき、体の動きを妨げている。
これでは、敵の襲撃の際に俊敏に動くことは出来ない。服を調達した方が良さそうだ。
視界の奥の方に聳える門を目指して、一面に広がるグラウンドを走り抜けた。
風が肌に当たる感覚。初めての心地よさだった。
走りに合わせて髪が顔に当たり視界を遮るのと、服が大きく波打ってまとわりつくのが、大分やっかいに感じたが。
動かしているうちに気付いた。
この身体は元は男性のものだ。前情報としてそれは聞いていた。
だから、服のことも含めて、女性型の身体である今の私に対応していない。
男性、女性。
なぜだろう、身体が少し熱くなっていた。
身体を激しく動かしたからだろう。運動は熱消費を伴う、これは機械でも生物でも共通のことだ。気にせずに進むことにした。
街に出ると、あちこちに電光掲示板が並んでいる。私はその内の一つに手を当てた。
スクリーンの表示が検索モードに切り替わり、目的地の入力を求めてくる。
私は入力を音声モードに切り替えた。折角発せるようになった人間の声を、思う存分使ってみたかった。
「女性用の服と装飾品を帰る場所を探している」
機械に認識させる情報としては、きわめて曖昧な言葉の羅列だった。
しかし目の前の端末は、その背後にある膨大な量の情報の蓄積を元に、そこから提示されている情報要求を読みとる。そして、利用者が求める目的地と、そこに至るまでの経路という「回答」を導き出す。
ポケットに入っていたスマートデバイスを取り出してその掲示板にかざすと、表示された情報がそのままデータとしてダウンロードされ、所有者を目的地へと誘導する。
さっきまで自分がそのまっただ中にいた情報空間を、こうして外部端末から眺めるというのも新鮮な体験だ。
私は手元の端末の誘導に従いながら、現実世界の道を進んでいった。
掲示板に表示されていた時間は9時30分となっていた。平日の朝ということで、道を歩く人の通りは少ない。わずかにすれ違う人間は主に中高年だったが、彼らから私の方に向けられるのは奇異の目だった。
男性用の服を来ている女性体という外見が、やはり問題なんだろうか。
この理屈は理解は出来ても、何が問題なのか、私には納得できなかった。
しかしその一方で、もう一つ奇妙な感覚は、私の中でも起き始めていた。
身体の部位で言うと、胸の辺りから。
胸の膨らみ、大きさとしては手の中にちょうど収まるほどだろうか……
今は服に隠れて見えないが、重力に任せるがままに胸からぶら下がっているそれが、歩みを進める度にぷるんぷるんと揺れる。
そしてその先端が下着にこすりつけられる度に、全身に痛みともむず痒さとも違う、奇妙な感覚が走るのだ。
私は走ることはおろか、早歩きも困難な状態になっていた。気温は高くない。運動量も減っているのに、身体は熱くなる一方だ……!
全て服のせいだと考えるしかなかった。焦る気持ちに抗えず、私は両腕で胸を庇うように押さえて歩みを早めた。
すれ違う人の視線が、さらに強く刺さるようになったように感じた。
道を進むと、やがて広場のような場所に出た。人や車の量はこれまでの道より増え、広場の中央ではバスやタクシーが円形に列を成して並んでいる。
広場の先にある大きな建造物は、その上部から高架になった線路が腕のように伸びている。ここは駅、交通の便では要所であり、人や車の往来も盛んなのだろう。
私の目指していた建物は駅の横で、「須的駅」という電光表示標を掲げた駅舎と、背比べをしているかのように高くそびえるスーパーマーケットだった。
屋上に置かれた「SAIYU」という電子看板が、その店名を外部に向け表示している。
入り口の脇で女性服のフロアを確かめると、私はエレベーターでそこに上がっていった。開店直後のようで、店内はまだ閑散としている。
ハンガーラックに隙間なくぴっちりと並べられた衣服。じっと見ていると色彩感覚がおかしくなりそうなほど多彩な種類が並んでいる。
この大量に用意された選択肢の中から、気に入るなり似合うなりした服を選ぶのが、普通の人間のすることなのだろう。
でも、今の私にはどうでもいい。身体のサイズに合って、身動きの妨げにならないものが欲しいだけだ。
現在の私の正確な身長は分からない。私は目に入った服を次々にラックからもぎ取り、それを抱えて試着室に抱え込んだ。
上着は大ざっぱなサイズ区分しかされていないのでまだ楽だったが、下着、特にこの胸の膨らみを押さえてくれるブラジャーはサイズ区分が細かいので、あらゆるサイズを取ることにした。
服の山を抱えて、試着室に入る。カーテンによって区切られた、人一人入るのがやっとな空間で、身体を包んでいた衣服を脱ぎ始めた。
目の前の鏡は、最初に見たものとは違い、頭から脚までの全身を映し出せるほど長いものだった。そこには一糸纏わず、雪のように生まれたままの姿をさらし出す僕の姿があった。
……僕?
心の内から熱いものがわき上がってきた。
目の前の自分の姿に対する違和感、
そして恥ずかしさが全身を貫く。
どうして これは ここに映ってるのは、僕じゃない
何故 僕は どうして
身体の持ち主の意識が、表に出ようとしているのだ。
その結果、僕ーこの身体の持ち主と私で、意識の混濁が起きている。
データの転送は不完全だったようだ。考えてみれば、本来は同時に転送できるはずの肉体データと意識データが、それなりの時間差を置いて転送されたのだ。状態がおかしくなるのも仕方がない。
私の意識から体が遠ざかっていく。手が、足が、さっきまで自由に動かせていたはずの体の部位が、私から遠ざかっていく。
今の私はこの身体に入った異物だ。下手に抵抗すれば何が起きるか分からない。
一旦、流れに意識を任せよう。大丈夫、私が消えるわけではない。私にはその確信があった。
スクリーンが明度を上げて白くなっていくように、私の視界から世界が消え始めた。