《参》-3
「ならば、のう、ケイ」
「何でしょうか、姫」
「旅に、出ようか。お主と妾の二人で。二人っきりで」
いつか……初夏の頃、屋敷にほど近い川辺で花冠ならぬ草冠と共に贈られた言葉。その時と同じやり取りにケイは小さく苦笑した。女は恐らく、あの時はもう既に全てを覚悟してあの言葉を選んだのだろう。
あの時は文字通り、狭く退屈な屋敷を抜け出して自由な外へ出たいのだと思った。今年の夏で命が終わってしまう事は何となく察していたから、最後に女との思い出を作ってから行こうと……逝ってしまおうと、思っていたのに。
今はあの時と違う覚悟で、同じ言葉を返せる。
「姫の行かれる所なら、何処へなりと」
女はその返事に満足気に頷くと、互いの指を絡めるように手の平を重ねた。しっとりと柔らかい女の手と、節くれ立って硬い男の手。
ケイはしばらく固まっていたが、やがて覚悟を決めたようで自分から女の手を握った。そうしてから、おずおずとおぼつかない仕草ながら、女の長い髪を一房掬ってそこに口付ける。
長い年月の中で、髪や手だろうとケイから女の体に触れたのはこれが初めてだった。
「死出の旅路も、そなたとならば悪くない」
「申し訳ありませぬ、姫」
「謝るでない。これは妾が勝手に……」
「いえ、そうでなく。確かに姫まで死なずとも、という思いもあるにはあるのですが……嬉しいのです」
「何故じゃ」
「自らの事ながら卑しいと思うのですが……私ごときに姫がお命までかけて下さる事が、嬉しいなどと思ってしまいまして」
「何じゃ、そのような事か」
女はハ、と小さく息を吐いて男の手を握り強い力で引き寄せた。見目は麗しい女の姿をしていても、女の本質は紛う事無く鬼だ。白くたおやかな手は見た目からは想像も出来ない力強さでケイを捕らえている。
もっとも、女の力が弱かったとしてもケイが彼女から逃れようとする事は有り得ないだろう。
「妾の隣にいても良いのは、そなただけぞ。ケイ」
「私も、姫以外のお方のお傍では満足できませぬ」
くすくすと、どちらからともなく小さく笑い出してしまう。これから死に逝くというのに、二人の心は不思議な程に穏やかで、これ以上ない程に晴れやかだった。
「不思議じゃな。ケイとはこれっきりで終わるように思えぬ」
「そうですね。人間の言う輪廻転生など真に受けるつもりはありませんでしたが、姫にまたお会い出来るなら信じるのも悪くない」
「――ならば、そなたを縛る鎖をもう一つ贈ろう。妾の名じゃ」
「え?」
女はケイのポカンとした間抜け面を始めて見た。男の幼少期から共に過ごしているが、彼は予想外な事が起こった時はただ黙って固まってしまうだけだったのだ。
初めての表情はものの数分で崩れたが、わたわたと勝手に焦るケイの姿を女は人の悪い笑みを浮かべて観察していた。
「姫のお名前……ですか?」
「そうじゃ。呼ばれずに久しいこの名を妾が覚えておったのも、思えばいつかそなたに呼ばれたいという感情だったのであろうな」
「私が呼んだところで、姫のお名前に何かお変わりがあるわけでは……」
「全く、無粋な奴め」
ぺしん、とごく弱い力で額を叩かれた。
「好いた男に呼ばれるだけで特別なのじゃ。そんな女心くらい気付かぬか」
「え、あ、すすみませぬ……」
しゅん、と肩を落とすケイに女はふと頬を緩ませる。己の一挙手一投足、何気ない言葉一つで一喜一憂する様は、始めこそ理解できない事も相俟って奇妙に映り、鬱陶しくも思っていた。しかし慣れてくると幼い可愛らしい事だと思ったし、愚直なまでの忠誠心と好意は冷え切っていた女の心をゆっくりと温めた。
結局のところ、どんな理屈をこね回してもケイと女が好き合っているのは疑いの余地も無い事だった。
「出発するのはあまり長引かせとうないな。町中でそなたが倒れては一大事じゃ」
「お気遣い頂きまして」
「人間が多い場所も却下じゃ。騒がれるのが目に見えておる」
「でしたら……先程申し上げた、山間の宿はいかがでしょう? 元廃屋で誰もおりませぬし、山道からも少々外れておりますので人間が来る事もまずありえませぬ。近くに川もございますよ」
「そなたはそこで良いのか?」
「はい。我ら化身は逝く時、それほど場所を要しませぬので」
「ならばそこで幕を閉じるとしよう。……ふふ、おかしなものじゃ。ヒトの生が息づくこの町で、ヒトでない我らが逝く相談とはな」
「姫、お声が大きいですよ」
諌めるケイの言葉に真剣さは無い。いつの間にか人間達は、己らが作り出した光で闇を遠ざけるようになっていた。それに従い、闇を恐れる心も遠ざけてしまったようで、始めこそ過敏な程に警戒していたケイも今は鷹揚に笑っていられる。
「ケイ」
「何でしょう、姫」
「好いておるぞ。人間流に言えば慕っておるぞ、か?」
「……私は、愛しております」
そう言って、ケイは女の指先に柔らかく唇を落とした。
とある夜、一本の川辺の蛍だけが一斉に光を消した日があった。まるで息を潜めるように、じっと草葉の陰に隠れる様子は何かを祈っているようにも見えた。
「おじいちゃん、ホタルどうしたの?」
「そうさな……祈ってるんじゃよ、きっと」
「いのる?」
「大事な人達がいなくなってしもうて、その人達が離れないように、迷わないように、光を消してしまうくらい真剣に祈ってるんじゃよ」
「ふーん。あ、また光った!」
あどけない少女の手が蛍を捕まえようと伸びる。一匹の蛍は少女から逃れ、ゆっくり一度光を灯すとそのまま飛び立って行った。
『妾の名は――じゃ。忘れるでないぞ。次に会えたならば、今度はそなたから声をかけよ。妾は待っておる故、な』
~了~
※小さな後書き、というか補足
今回のお話の舞台は冒頭が陰陽師が妖怪バスターしてたような時代、最後の方は大正かその辺を想定。
史実としては明治政府になるまで陰陽庁が実在したらしいですが、その辺はあまり細かく設定してません。この2人には関係ないので。
作中でもあった通り、姫は鬼の一族、男は蛍の化身。
そんな時代のこんな二人による、純愛を絡めた心中物でした。
二人の『次』があったかどうか、あったなら再会できたのか……それは、皆さまのご想像次第。
感想、お待ちしております。