《弐》
屋敷の奥深く、半ば地に埋もれるように建つ座敷牢を訪れる者はあまりいない。日に二度の食事を届ける役目も、そこに封じられた『姫』の相手をする役目も、もっぱら蛍の化身たる一人の男が担っていた。
雪のように真白の髪、対して血のように紅い瞳。額から生える一対の角は漆を塗ったような黒。
『しらめおに』
それが『姫』を表す言葉だった。厄災を呼ぶ、凶事の前触れ、滅びの使者――根拠の無い恐怖は払拭しがたく、瞬く間に広がる。それを背負った『姫』に伸びる手は、当然の如く皆無だった。
来訪者がいないのだから必然、そこは静謐な空気に満ち全ての時間から切り離されたかのような錯覚を起こす程に、静かで……そして、変わらない場所であったのだ。
『姫』が突然、真綿のような牢を破ってしまうまでは。
「さあ行くぞケイ!」
「ひ、姫……どうしたのですか? 突然、このような暴挙に出るなど……」
ずんずんと進む女の後を追うケイは顔を見るでもなく困惑していた。
それもそうだ、今の今まで不平不満を撒き散らせど女がこのような強硬手段を取った事など無い。幼き頃でも、ただ使いの者に当たり散らすだけで決して自分から出ようとはしなかったのに。
「前々から何度も言うたであろう、妾は飽いたのじゃ。変わらぬ事は美徳かもしれぬが、ただ朽ちるのを待つには長すぎる」
「ですが、何も牢を力任せに破らずとも……」
「妾が『出たい』と申したところであの偏屈ジジイは首を縦に振らぬわ」
「へ、偏屈……」
女の吐き捨てた一言にケイは苦笑するしか無い。女の父でありケイを始めに雇い入れた男は、確かに厳格で融通の利かない所も多々ある。それ故に女は幼少から座敷牢にて育ったのだから、悪態の一つもつきたくなるだろう。
「ですが姫、貴女様の御身が」
「妾とて鬼の端くれじゃ。有象無象の輩なぞ何の障害にもならぬわ」
「ですが……」
「ええい全く、融通の利かぬ男め。頑固な偏屈ジジイは父上だけで十分じゃ。それでも何か言うならば……ケイ、お主が妾を抱えるか?」
くす、と小さく笑って落とされた一言にケイの顔がみるみる赤くなった。それに女はおかしそうに、着物の袖で口元を隠しながら笑った。その上品な笑い方の中に時折、背筋が凍るような凄味が混じる。
「それが姫のお望みとあらば」
「よいよい、無理はするな。妾もちいとは自分の足で歩きたいのじゃ」
そう言って、迷わず進みながら何重にも着込んでいた打掛を脱ぎ捨てた。豪奢なそれは彼女の父が贈った物で値も相当張るはずだが、女がそれを気に掛ける様子は微塵も無い。ケイは何か言いたげにしていたが、女が見苦しくない程度の軽装で留めたのを見ると何も言わなかった。
端から、今まで見た中で一番イキイキとしている彼女に何か言う気など無いのだ、ケイという男は。
「ケイ」
「何でしょう」
「妾は川辺に行きたい。案内せよ」
「――仰せのままに」
自分は身も心も彼女に捧げている。女の望む通りに、行きたい所に連れて行くだけだ。
ケイの案内で川べりに着いた女は着物が汚れるのも構わずしゃがみ込んだ。それに注意しかけ、意味の無い事だと口を閉じる。そんなケイの様子を知ってか知らずか、女はぷちぷちと種々の草花を摘み取っていた。
「姫、何をなさっておいでですか?」
「完成してからの楽しみじゃ。ケイ、そなたも何ぞ面白い物でも探して来やれ。妾はここにおる」
「ですが姫をお一人にするわけには……」
「妾に危害を加えられる者など早々おらぬわ。いたとしても都合が良い、妾の力がどれだけか試す贄としてくれよう」
そう言う女は本気だ。ケイも事実、女に危害を加えられる者など早々いないと知っている為、しばし迷ってから一礼した後に少し離れて行った。しかし互いが見える位置に必ずいる辺り、心配性というか何というか。女はくすりと笑みを零し、作りかけのソレに目を落とした。
初めて作ったのは遠い遠い昔、まだ座敷牢に囚われる前だ。作り方を忘れてしまっているのではないかと不安だったが、どうやらそれは杞憂であったらしい。些か不格好だが、それはご愛嬌という事にしてしまう。
太陽がゆっくりと沈み始めた頃、ケイは女に呼ばれた。その手には様々な森の恵みとも呼ぶべき木の実が抱えられており、それを見た女から呆れた視線を送られ苦笑で誤魔化してしまう。
「まあ良い。そなたの心遣いは受け取っておく。……ケイよ、何も言わずしゃがんで目を瞑れ」
「え、あ……はい、これで宜しいでしょうか」
促されるままに膝をつき目を閉じると、女が一歩近づいた。何かを後ろ手に隠しているのは分かったが、さて今度は何だろう……とケイが期待半分恐れ半分で待っていると、頭の上に何かが置かれる感触。随分と軽い。
「もう良いぞ」
「はい……あの、これは一体?」
「冠じゃ。本当は花で作りたかったのじゃがな、あまり咲いておらぬ故にほとんど草になってしもうたが……それもまた一種の『味』じゃろ?」
ドヤ、と胸を張る女は常よりも幼く見える。失礼します、と断りを入れてから手に取った草冠は、あちこちから茎が飛び出ていたり不揃いであったりと不格好だった。けれどもそれが女の作った物という何よりの証に見え、ケイの胸を熱くさせる。
「そなたに何か贈り物をしたくて、な。じゃが屋敷にあるのは全て父上が妾に用意した物であるし、妾は何も持たぬであろ。……迷惑だったか?」
「いえ。姫にこのような物を贈られるなど、私は感無量でございます」
この思い出一つあれば、自分は振り返らずにいける――
そっと目を伏せたケイの心情を読み取りでもしたのか、女は未だしゃがんでいるケイの顔に触れた。常ならば見上げる程に上にある彼の顔も、しゃがんでいる今ならば女が苦も無く触れられる高さにある。
そっと、下から掬うよう頬に触れる手はひんやりとしていながらも柔らかい熱を持っていた。
その手の主の表情を、男は見れずにいる。
「のう、ケイ」
「何でしょうか、姫」
「旅に、出ようか。お主と妾の二人で。二人っきりで」
真実を言えば女は悲しむ。
本音を言えば男は迷う。
だから二人は、真実も本音も隠して……けれどもそれに近い言葉を紡ぐのだ。
「姫の行かれる所なら、何処へなりと」
雨の匂いと緑の匂いが強くなる、それは夏の始まりだった。