《壱》
これは遠い遠い――此方がドコカと繋がっていた頃の、それだけ昔の頃の、小さなお話。
ひよひよと、何かの鳥が唄う声を聞きながら男が歩いていた。男は膳を持ったまま、迷う事無い足取りで奥へ奥へ――暗闇へ沈みながらも、どこか気品を漂わせる区画へと入って行く。
鍵などは必要ない。ここへ入ろうとする者は男しかおらず、ここから出ようとする者は誰もいないからだ。
「姫」
「何じゃ、ケイか」
幾つもの扉を抜けた先、朱塗りの格子の向こう側には一人の女が座していた。しどけなく足を崩して壁にもたれながら、ぱちりぱちりと扇子を弄ぶ女は、一見すればこんな場所には似つかわしくない気品と雰囲気を持っていた。
「暇じゃ」
「……裾をお直し下さい、姫。はしたのうございます」
ぱち、と手遊びの扇子を閉じた女――少女と呼ぶには年かさで、女性と呼ぶにはあどけない年齢に見える――は、ちろりと眼球のみで苦言を呈した男を見据えた。その男は薄暗がりの中でよく見えないが、頭から二本の触覚が生えているように見える。男を見据える女の額には、漆を塗ったように艶のある黒い角が一対、鎮座していた。
男に言われるまま、渋々と面倒そうに乱れた裾を直した女はもう一度口を開く。
「暇じゃ。暇過ぎて妾は朽ちるぞ」
「ご冗談を。暇を持て余し滅びた者はおりませぬ」
「つまらん奴め。もうちっと慌てるか何かしたらどうじゃ」
「お生憎ながら、姫のお相手を務めさせて頂き幾年になると?」
「ふん。可愛げの無い奴め」
「申し訳ありませぬ、性分です故」
深々と頭を下げる男を見やり、女は一際音高く扇子を鳴らした。丁寧に磨かれた木の骨格、細かく織られた布に艶やかな花々が描かれた大層高価であろう扇子だが、女はいとも容易く自分の脇にそれを放り投げた。
男は再び諌めようとして、諦めて持って来た膳を格子の下に設けられた隙間に差し入れる。女は慣れた仕草でそれを受け取り、並べられた器を見て鼻を鳴らした。
「ふん。妾を知らぬ輩が増えたようじゃな」
「申し訳ありませぬ。私からよく言って聞かせますので」
「気にせずとも良い。このまま全ての者が妾を忘れてしまえば楽であろうな」
「そのような事は……」
「安い慰めはいらぬぞ」
男の言葉を遮り、女は淀みの無い手つきで箸を操り食事を始めた。
朱塗りの格子を隔てて二人の間には明確すぎる境界がある。男のいる格子の外側は硬い地面が剥き出しの土間だが、女のいる格子の内側には高級品である畳が敷かれている。小振りな箪笥や鏡台、今は隅に追いやられている寝具や座布団に至るまでが見事な誂えで、格子さえ無ければどこか良家の奥座敷に見えるだろう。
「全く忌々しい。ふざけた言い伝え如きで妾をこのような所に押し込めおってからに」
「姫、あまり乱暴な言葉使いは覚えなさらぬよう」
「誰が構うものか。父上なんぞ妾をここに押し込めてから一度も顔を出しに来ぬぞ」
「お忙しいお方ですから……」
男の言葉に女はもう一度『ふん』と鼻を鳴らし結われていない髪に指を通した。座敷牢に入れられてから、これまで一度も切っていない髪は、今では腰よりも下まで伸びている。艶のある髪は自慢でもあるが、同時に鬱陶しい事この上ない物だった。
ぱちん、と綺麗に平らげた膳に箸が戻される。
「のうケイ」
「はい」
「お主を喰ろうてしまえば、この退屈も少しは紛れるだろうか」
「ご冗談を。姫のようなお方にかかれば私のような羽虫、瞬きの合間すら必要ないでしょう」
「変わらずつまらん奴め」
「申し訳ありませぬ」
ぺこ、と頭を下げる男……ケイの頭上で触覚が揺れる。背中には服と紛れてしまいそうに薄い羽が畳まれていた。蛍の化身だから、ケイ。初めて出会った頃、戯れに贈られた名は今では男の宝だ。
「しかし、姫」
「何じゃ」
「僭越ながら、姫ならばこのような結界如き腕ずくで破る事も可能でしょうに。何故わざわざ留まり続けておられるので?」
「ふむ。父上にでもそう聞けと命じられたか」
「いえっそのような事は……お気に障られましたならば申し訳ありませぬ」
恐縮し深々と頭を垂れるケイに、女はころころと笑う。扇子で隠した唇の間から鋭く尖る牙が覗いた。
「よい、頭を上げよ。そうじゃな……敢えて言うなれば、理由が無い。ひたすらここにいるのも退屈じゃが、外に出る理由もまた妾には無いのじゃ」
「姫……」
「どうせ外に出た所で頼りに出来る者もおらん。なれば、ここで退屈を持て余しながら朽ちるのを待つのも選択肢の一つじゃろうて」
「それは……私は、頷けませぬ」
渋い顔で呟くケイに女は瞬きを一つ、二つ。そうしてからゆるりと目元を細めた。
「ケイは甘いのう。砂糖水のようじゃ」
「ご冗談を」
笑い続ける女にケイは渋い顔のまま返す。ようやく笑うのをやめた女は膳を格子の方に押しやり、傍らに投げ捨てた扇子を拾うとそれでケイを示しながら命じた。
「話し過ぎて喉が渇いた。茶を持て」
「承りました」
「ついでに話し相手でもせよ。そなたの分も茶と菓子を持て」
「承りました」
一礼して退出していくケイを見送り、女はふと高い位置に取られた明り取りの窓を見やる。季節感などは無くなって久しいが、ケイの話では深緑が芽吹く春の頃らしい。空は薄く雲がかり薄墨色をしているが、穏やかな晴れ模様のようだ。
「そなたが居らねば妾が留まり続ける意味も無くなろうて……」
目を閉じ思い出すのは、まだ互いに幼かった頃の二人。座敷牢に入れられたばかりで、使いの者に当たり散らし時には傷つけていた自分。そんな頃に引き合わされたのは、蛍の触覚と羽を持つ自分よりも幼い少年だった。
『羽虫か。妾の世話にと遣わされたのだろうが、生憎だったな。妾は今腹立たしゅうてならんのだ。今すぐ消えるか、妾に消されるか選ぶがいい』
『……えと、あの……ぼくは、ひめさまのモノになったので……すきに、していただいてけっこう、です』
『ほう? 妾に消されると申すか、殊勝な心がけよな。幼い見目に反して肝は据わっておるようだ』
『ぼく、ほたるだから……ひめさまよりずっとずっとはやくしんじゃう、ので……』
『……気が変わった。そなたは妾のモノなのだな?』
『はい』
『ならば今この時よりそなたの名はケイだ。そなたの人生、その全てを妾に寄越せ』
『……はい! よろしくおねがいします、ひめさま!』
そう言って、笑って頷いた少年は本当に女の思うままに行動してくれた。時折苦言を呈して来る事もあるが、大概の責は女にあったので女は面倒そうにしながら反論する事は無かった。
「……今年の夏が、潮時であろうな」
蛍の一生は短いのだ。悠久の時を過ごす鬼よりも、ずっとずっと。