003
幸いな事にこの国に拉致されて来て以降、私は未だに人前で名乗ったことはなかった。
そこで二人で相談に相談を重ね、恥ずかしがる里菜を押し切って、聖女の名前を「リィーナ」にした。
表に出ている私ではなく神殿の中で歌う里菜こそが聖女なのだと、何よりも最優先にするべきなのは本物の聖女である里菜なのだという自らに対する戒めでもあった。
それからの日々は目が回るように忙しかった。
聖女のお披露目に毎日の儀式、それから王侯貴族との交流から果ては戦火で疲弊した民の慰問まで。
けれどもそのどれもが聖女リィーナの自由になる物ではなく、聖女は城の中で結界を張って現状維持だけに努めていればそれで良いのだと言わんばかりの扱いを受けていた。
豪奢な衣装を身に着けて、美味しい物を食べて、美しい物だけを鑑賞して、そして歌ってくれてればそれで良いのだと。
里菜がこの国で歌うようになってからというもの、以前までとは比べ物にならない程に結界は強固なものになったらしい。
この国に生まれ育った歴代の聖女達の結界は里菜のものより精度が悪かったそうだ。
そして更に悪いことに、年々弱まっていく聖女に見切りをつけて新しい聖女を探したにも関わらず、ついに次代の聖女は見つからなかったのだと言う。
だからこそ一度限りの奇蹟とやらを行って、異世界の聖女の召喚を強行したのだと。
その結果として手に入れた異世界の聖女は、それはそれは強大な神力を持った存在だった。
だからだろうか。
誰もがこれ以上悪化する事のない停滞という現状に満足するばかりで、十年先、二十年先の未来を見据えてなんていなかったのだ。
例えばリィーナが結界を張れなくなる未来が来てしまったらどうするのか。
なんて、誰もが気づきながら誰もがその未来から目を背けていた。
その事に私が気づくのには、それ程時間がかからなかった。
逃げ惑って大きな都市部に避難してきた人は多くいるのに、農耕地が足りなくて彼等を養う事は難しい。
慰問に行く度に彼らの痩せて浮き出たあばら骨が痛々しく私の目に映った。
時間が経てば経つほど痩せていくのは彼等だけではなくなり、ついには街を歩く子供達まで無気力な瞳になった。
誰も笑わず、絶望を口にして、未来に希望を持てず、無気力に日々を過ごすだけ。
そんな彼等を見ていられずに、ある日私はついに我慢できずに里菜の元へと走った。
突然の訪問に驚いている里菜に単刀直入に尋ねると、実は今の結界の範囲に神力を張り巡らせることにはまるで負担を感じていないと言った。
私はそれを聞いて頷いた。
どこまでやれるか分からない。
どこかで里菜の限界が来たらそれまでにする。
それを誓った上で、私は里菜にお願いをした。
――どうか私を信じて、結界を拡げて欲しいと。
「一人でも多くの人が笑えるように、生きていけるように、未来をこの国の人達の手で築いて行って欲しい」
その言葉一つで王族の嫌味を無視し、渋る神官長を説得し、里菜に説明をし。
聖女リィーナは自らを示す色である白を基調として蒼をあしらった聖女の衣装を纏い、多くの民の前に立つようになった。
共に戦い、誰もが笑える平和な未来を手に入れようではないか、と。
一人でも多くの人間が笑えるような国にしていこうではないか、と。
最初は誰もが私の言葉を聞き入れる事はなかった。
けれど何度も何度も、どれだけ無視されようとも人々に演説をして回った。
お客さんが疎らなステージだって、何日も何日も繰り返せばきっと誰かが興味を抱いてくれるのを私は知っている。
ステージ上の私の声が、容姿が、キャラクター性が人を惹きつける事は知っている。
だからこそ諦めずにずっと人々を鼓舞し続けた。
一人、二人と私の声に耳を傾けてくれるようになって、それから一年も経たない内に多くの人々が心を一つにまとめるようになった。
そして神に祝福され、常勝を重ねる事となる聖戦の幕は、聖女リィーナの名の元に切って落とされたのだ。
* * *
日々“聖女”に入る報告には、戦場での被害状況についてまとめたものがある。
本来なら国防のみを司る聖女だけれど、聖女リィーナは聖戦を訴え、結界を越えた地域へと足を伸ばしている。
その為、自然と聖女の周りには軍事的な話題が集まり、殺伐とした緊張感に溢れた空気が執務室に満ちていた。
大きく豪奢なテーブルの上に広げられた戦況を書き込んだ地図を硬い視線で眺め、先日聞いた将軍の話を思い出していた。
曰く、戦況はこちらが有利である。
曰く、被害状況は軽微である。
曰く、このまま進撃を続ければ全ての魔獣を狩り尽くす事だって可能である。
将軍の語る口調は明るく、意気揚々としていて、それが事実である事は疑いようもなかった。
けれども戦況は良いと言うのに、晴れない心が私の表情を硬くさせた。
聖戦として今回の戦は成功している。
順調に魔獣に占拠されていた都市を奪還し、強固な結界がより大きく張り直され、以前の国土を取り戻して行っている。
安全が確保された事で徐々に農耕地に人が戻り、作物の安定供給の目途も立ちはじめている。
それは確かだ。けれど。
自分から切り出した聖戦であるのにも関わらず、その成功を心から喜べない自分の強欲さに目を伏せて、手元の報告書を折りたたんだ。
極秘に調査を頼んでいたそれが示す結果に、私は迷いが生じていたのだ。
鬱々とした気分のまま地方領主や王族との謁見をつつがなく済ませ、民衆に対しての演説会を終えて帰城すると、自分の離宮の前に、フードを被った小柄な人物と神官長が立っているのが見えた。
聖戦が始まってからというもの、歌を歌いに行く以外の用事で神殿に赴く事の出来る回数は減ってしまっていたけれど、それでも神官長が神官見習いとして働く里菜と私の間に立って意思の疎通を図ってくれていた。
けれど、神官長自身がわざわざ私の住居に訪れる事は滅多にない。
今日はどうしたのだろうかと内心で首を傾げながら、後ろに付いていた護衛をここまでで良い、と下がらせた。
神官長がほら、待ってて良かったでしょう、とにこにこと人の良い笑みを浮かべながら小柄な人物の背を押す。
「キリエさん……あの、今日も、お疲れ様です」
見慣れない人物だと思ってその小柄な人物に目を向けると、そこには前髪を眉よりも少し高い位置で切って揃え、簡素な聖職衣を身にまとった少女が居た。
一瞬それが誰であるかに気づかず、にこにこと微笑む神官長を見て、もう一度視線を戻して少女の正体にようやく思い至った。
最早トレードマークにすらなりかけていた、あの長く垂らしていた前髪を切っていたのだ。
「里菜、前髪切ったの?こっちの方が似合ってる!」
ずっと引っ込み思案で人と目を合わせる事すら苦痛に思っている様子だった里菜に、一体どんな心境の変化が訪れたのだろうか。
何かが良い方向に働いている事は分かっていたからこそ、喜びもひとしおだった。
里菜はとても優しい。優しくて臆病だ。
けれど、私がいつまでも彼女の盾になり続けるのは無理があるだろうとずっと懸念していたのだ。
「え、あ、ありがとう……ございます……」
照れたように前髪を引っ張って必死に目を隠そうとする様すら愛らしい。
あまりの可愛さに里菜を抱きしめると、わあわあと腕の中で騒ぐ里菜と、神官長の優しげな瞳が折れかけていた心を優しく包んだ。
帰りを待ってくれている人が居て、私の事を信じてくれている。
少しずつ誰もが明るく未来を夢見るようになってきている。
だからこそ私は自分の選んだ道に疑問を抱かず、先に進んで行くべきだ。
そう思えるだけの心の余裕があったのだから、この時の私はまだまだ元気があったと言えるだろう。
たとえ、元の世界に帰還する事は出来ないかもしれないという事に気づいてしまっていたとしても、それでもまだ幸せな頃だった。
けれど、神官長が亡くなって状況は一変した。
元々私達を召喚するときに随分と無理をしていたらしく、それ程長くは生きられないのだと前々から本人に言われていた。
だからこそ、もしも自分が死んだ時にはお二人でいつまでも協力してこの国を護っていってください、と。
神殿に仕える者は全て聖女の味方となるでしょう、と。
日々身体が弱っていく神官長を目にしていたから、私達の覚悟はとっくの昔に出来ていると思っていた。
でも、神官長の葬儀を執り行った後、聖女リィーナの結界は揺らぎを見せ始めたのだ。
聖女は心身に危険があったり精神状態が優れない場合などには、その力に揺らぎが出てしまう事がある。
この世界に来てからというもの、何度か里菜の浮き沈みに合わせて結界が揺らぐ事はあったけれど、今回程までに大きく強度が変化した事はなかった。
何度も里菜を見舞ってその精神的な傷を癒そうとしたけれど彼女は常に困ったように笑いながら謝罪するばかりで、私は一向に彼女の心に添ってあげる事は出来ず、結界は揺らぎ続けた。
思った以上に里菜にとってはショックな出来事だったのだな、と冷静に考えたところで自分の薄情さに苦笑が零れた。
私にとって神官長とは、計算高くも心優しく私達に分け隔てなく接する良い人ではあったけれど、それと同時に新しい未来を作ろうと一歩を踏み出していた私を「拉致」した人間の一人だった。
彼が私達を丁重に扱ってくれたことに対して感謝していない訳ではない。
王族の元で聖女として働いていれば、私達は一年と待たずに処刑されるか結界を保てずに自滅するかしていただろう。
けれど、彼の優しさをこの世界から私に与えられた「飴」の一つのように感じられてしまったのだ。
掴もうとした未来を取り上げながらも、彼らを恨ませないようにする手段の一つとして。
――私は里菜と、前の世界の話をしていない。したくない。
一度里菜が私をアイドルである「キリエ」として扱ったことがあるけれど、私がそれを酷く嫌がって以降、彼女は私を元の世界でそうであったような存在としては見ず、前の世界での話を振る事も無くなった。
私も私で、里菜が日本に帰りたがらない理由も、この国に来てから不平不満を一つも言わずに日々幸せそうであった事にも、何となくその理由が分かっていて触れる事は出来なかった。
少なくとも里菜はこの環境に満足しているのだから、私のこの神官長に対するぐるぐると腹の奥底に溜まっている汚い感情を共有させられはしなかった。
私にとっての神官長に対する認識はともかく、日々を穏やかに暮らしていた里菜にとっては彼は恩人であり父親のような存在だったのだろう。
この国に来てからの唯一の支えを失ったのだ。
揺らいでしまう気持ちは分かるつもりだった。
だからこそ私の口先ばかりの哀悼の言葉を聞かせたいとはどうしても思えず、次第に慰めの言葉も口に出し辛くなってしまっていた。
結界の揺らぎについて議会で追及され、王族や貴族の冷たい瞳と心無い言葉に幾度も晒された。
それも仕方がなかった。
彼らも期待していた未来が来ないかもしれないなんて考えたら不安にもなるし、その原因がはっきりと目に見える存在ならば攻撃したくもなってしまうだろう。
聖女リィーナは精神的に傷ついていると言いながらも、毎日の謁見や民衆に対する演説は数を減らしながらも以前と同じように淡々とこなしていくのだ。
さぼっているだけで、本当は今まで通りに出来るのではないか。
神官長の死を言い訳に怠けているだけではないのか。
そんな不満の声が城内を巡るようになっても、それでも私には里菜の心が落ち着きを取り戻すのをただ只管に信じて待つ事しか出来なかった。
本物の聖女である里菜に直接この仕打ちがなされてしまえば、結界は更に揺らぎを見せるだろうが、幸いにして私は偽者だ。
どんなに心無い仕打ちを受けても、どんな言葉を囁かれても、結界にこれ以上の影響は出ない。
それに。昔から、誰かの希望に縛られる事には慣れていた。
そうやって聖女リィーナに降りかかる火の粉を払うのに必死で、神官長が亡くなってからというもの、私が控えてしまった事もあってか里菜と話をする回数はめっきり減ってしまっていた。
出来るだけ早い段階で会いに行かなくては、と思う度に溜まりに溜まった仕事が目の前に山積みになって私の思考をかき乱す。
今になって思えば、本当は後回しにするべきではなかったのだ。
何よりも里菜の事を最優先にするべきだったのだ。
それを誓って名付けた聖女の名前の意味すら、当時の私は忙しさのあまり忘れていた。
だからこそ私は張り巡らされた無数の罠に気づく事なく、彼等の思惑にまんまと捕らわれてしまったのだろう。
不自然な程に演説会の回数が増えていたり、王侯貴族との謁見の頻度が跳ね上がっていたのも、きっと里菜と私が接触出来る機会を減らそうと仕組まれたものだったのではないか、と今では思っている。
この時には既に、聖女リィーナには疑惑の目が向けられていた。