001
聖女、聖戦、魔獣。
こんな単語が続けば、誰だってこの話が架空の、十代が好んで読み込むファンタジーの世界だと認識するに違いないだろう。
しかし、がっかりさせるようで大変申し訳ないのだが、この物語の【聖女】には何の特殊能力も特別な知識もありはしない。
だからこの物語では何も始まらないし、何も成されはしない。
ハッピーエンドも訪れなければ、バッドエンドも訪れない。
それだけは留意しておいて欲しい。
さて、この物語の語り手である私の名前はキリエ。
芸名キリエ・ティーナこと、本名、佐藤桐英。
今でこそ聖女様なんてやっているけれど、元々の職業は歌って踊れて演技も抜群な売れっ子優等生アイドル兼新人女優、という職業だった。
……これ、事務所の宣伝文句だからね。
* * *
このファンタジーな世界に聖女として召喚されたのは二年前の事。
丁度女優として本格活動を始めた頃で、外国のファンタジーを原作とした映画の撮影に入っていた。
私はミステリアスな令嬢役としてこの映画に抜擢された新人女優だった。
自分を取り巻く世界ががらりと変わってしまった日の事は、今でもよく覚えている。
その日は本格的な撮影入りだった為、サイズの微調整を終えた豪奢な衣装を身に付け、化粧もヘアもセットしてもらった私は完璧なまでに“ご令嬢”だった。
薄青のドレスに、勝ち気な瞳を強調しつつも上品さを失わない化粧、必死に体得した自然で滑らかな令嬢口調。
それまでのキラキラとした光沢や可愛さを追い求めた機能性重視なアイドルの衣装ではなく、本格的な女優として身にまとう重量感のあるドレスは心に勇気を与えながらも緊張を強いていた。
「キリエさーん、そろそろお願いしまーす」
「はい。今行きまーす!」
私に上手くやれるのか、演技にミスはなかったか、台本は全部覚えているだろうか。
不安や恐怖を混ぜたようなぐるぐるとした気持ちでドレスの布地を弄っていると、楽屋の外からついに自分の出番が告げられた。
不備は無かっただろうかと慌てて鏡を覗くと、不安がそのまま顔に写っていて。
こんなに不安たっぷりといった表情じゃ上手くいくものも行かないだろうと苦笑が浮かぶ。
弱気な自分に気合いを入れる為に目を閉じ、鳩尾に力を込めながらゆっくりと息を吐いた。
初めての映画。
有名監督による大抜擢。
女優業への転身。
この映画は、新しい自分になる為の夢のチケットだった。
スキャンダルに塗れたアイドルからの転身劇に、様々な人から良くも悪くも注目されていて、けれども成功すれば今までの自分から脱却出来る機会。
このチャンスだけは絶対に逃したくない。
大丈夫、きっと大丈夫。
微かに震える身体をいなし、よし、と目を開けたら――そこはどこかの洞窟のような空間だった。
「あ、れ?」
真夏のロケだと言うのに、妙にひんやりとした空気が首筋を撫でる。
足元を見ると、中東の幾何学模様を描く白線が自分を中心に広がっていて、ぽかんとだらしなく口を開いてしまった。
「私、いつの間に……」
事前に聞いていたセットとイメージが違うし、自分は何時の間にセットに移動したのだろう、ととぼけた事が頭の中を渦巻いていた。
もしかして寝不足で意識がとんでいたのだろうか。
狐につままれたような心地で周りへ視線を転じると、駆け寄る人々が目に入った。
黒と深い蒼を基調とした軍服姿――確かに今日撮影するシーンは軍服を着た人が多く出る。
でも、昨日まで見ていた衣装とデザインが違うような気がする。
それに端役の衣装までこんなに本格的な物だっただろうか。
見知らぬ顔ぶれの役者達なのは、もしかしたらエキストラなのかも……しれないけど。
違和感を覚えて、その衣装はどうしたのかを尋ねようとした。
けれど、彼等が「貴女を待っていた」と話し始めた事で、惚けていた思考が一気に現実に引き戻されてしまった。
これは、私の登場シーンの第一声だったのである。
撮影はもう始まっているのか!
惚けてなどいられない。
パニックになりながらも彼等の台詞に合わせた返事をした。
次々と飛び交う言葉に粗筋が違う、と思いながらもまたもや私の台本だけ台詞を変えられたのか、それとも話題作りの為にスポンサーが仕掛けるドッキリの類かと、どこか落胆したような気持ちで必死に演技を続けた。
ドッキリならそれはそれで良いけれど、私の台詞のみが微妙に差し替えられるなんていう悪戯はこの頃は頻繁に起きていたから、もう驚きもしなかった。
本職として活躍する方々には、パッと出の私が気に食わなかったのだろう。
ファンによって執拗にバッシングされ、ある意味で注目を浴びる大型新人。
演技力も無いくせにヒロイン役をコネと身体で奪い取ったなど共演者に中傷される事はよくあったし、当時の私にはそれに一々反応を示していられる程心に余裕は無かった。
演技力を疑われているのなら、精一杯の演技をして証明してみせれば良いのだ。
悪意に対して一々個別に向き合うのは、疲れるから。
映画の撮影に入る頃には、もうそんな風に諦めに似た心地だった。
けれどもこの日に限っては何故か対抗心が燃え上がった。
生来の負けず嫌いがここに来て復活してしまったのは、いい加減にうじうじと思い悩むのに飽きてしまっていたからなのかもしれない。
監督に直接台本が変えられていた、と伝えて撮影を遅らせてもらえば済む話なのに、気が付けば悪戯の度が過ぎる彼等への意趣返しのつもりでアドリブで演じきっていた。
たとえそんな悪意は全くなく、本当にただのドッキリであったとしても、事前に事務所を通しての通告が無かったならあまりにも悪趣味過ぎる。
どう対応するか観察して皆で笑い者にして愉しむというあの類の企画は、私はそういう世界に身を属しながらも大っ嫌いだったのだ。
だからこそフィルムを無駄にして、と怒られたって構いやしない、むしろ企画側に請求書を出しやがれ!という気持ちで演じ切った。……演じきってしまったのだ。
新人女優にはあるまじき高慢さではあったけれど、最早よくよく状況を見て判断できるほど通常の精神状態ではなかった。
積もり積もった緊張と苛立ちは静かに堪忍袋の緒を切って、実に堂々たる演技を私の中から引きだした。
正直、あれが本当に撮影されていたのなら最高の画が撮れていたのではないかと今でも思う。
――なにはともあれその結果。
渾身で迫真な演技を目の当たりにした人々は、正直にそれを信じた。
召喚に立ち会った神官、騎士、魔術師、その他諸々は皆、私を神の遣わした聖女だと口々に讃え、神殿に連れ出して最高の歓待でもって私をもてなした。
「神」「聖女」「魔物」
そんな設定は私には無かった。
更にいつまでもカットの声が聞こえない。
流石にこれは可笑しい、やはり悪戯動画でも撮っているのだろうか、と首を傾げながら豪奢な料理に口を付け、カメラがどこにもない事に気づいた。
この時点になってようやくこれが撮影ではなかったことに気付いたという馬鹿さ加減には自分でも呆れを覚える。
馬鹿だろ、自分。
――さて、私が“聖女”となってしまった実に馬鹿らしい経緯はこんなものなのだが、事態はここから一気にややこしくなる。
それを説明するには、前提条件としてまず私の外見の話をしなくてはならない。
「キリエ・ティーナ」
この芸名から分かるように、私には外国の血が混ざっている。
と、言うより日本人の血が混ざっているといった方がしっくりくるかもしれない。
日本人の血を四分の一だけ引いているタイプのクォーターなのだ。
薄茶の金髪に、空色の瞳。
生まれも育ちも日本なのだが、血筋故に顔立ちははっきりしている上に正直スタイルにも自信はあったし、職業柄、美容には物凄く気を遣っていた。
その為、この明らかに西欧な空気漂う国においても異質な顔という訳でもなく、むしろ美しいという部類に分類されているようなのには安心した。
美しさは大抵の事柄においてプラスに作用する物だから無いよりはあった方がマシだ。
それは数年のアイドル生活で嫌という程思い知っていた。
けれど、この磨きに磨いた自慢の外見が一連の問題を引き起こす事になってしまったのだ。
* * *
混乱に満ちた神殿での食事を終えた後、バタバタと足音を立てて走る男達が何事かを叫びながら扉を蹴破るように部屋に入り込み、私の身柄を拘束した。
そのままの格好で移動させられる際には神殿にいた人々が何かを抗議するように叫んでいたけれど、それも虚しく無理矢理罪人のように乱暴に引き立てられた。
すぐに神殿とは別の宮――王宮へと移動させられ、こちらを値踏みするような不躾な視線を送る男の前に兵士達の手によって跪かさせられた。
上から下までじっくりと私を眺めた男は、中々のモノだ、と厭らしく口元を歪めた。
五十代くらいなのだろうか。
清潔感のある服装だったが、その舐めるような視線に不潔で高圧的な印象を受けた。
こういう人を物としてしか見ていない人間によく会っていた経験から言わせて頂けるならば、この手の人間には出来るだけ目を付けられないのが得策だったりする。
まあ、この状況で今更な話ではあるのだけれど。
この偉そうに踏ん反り返っている男は一体誰なんだ、と胡乱な目で兵士達に説明を求めるとこの国の王だと説明された。
神に聖女に魔物、極めつけは王様。
どこのファンタジー世界の設定なのか。
表情にこそ出さないものの混乱し始めていた私に、慇懃にこの世界について王は簡単に説明した。
世界が魔物に滅亡させられそうだから、聖女たるお前を召喚したのだ、と。
「聖女」として召喚したのだから、国の為にその力を振るえ――そう当然のように命令する王とやらに、大いに腹は立ったけれど、反発はしなかった。
出来なかった。
異世界召喚なんて戯言、この時点ではまだ信じてはいなかった。
けれでも自分が何処かに「拉致」されているという事だけは、王を名乗る男の周りで剣をこちらに向けて構える兵士達を目の当たりにすれば理解出来る。
この男が合図をすれば、それだけで私は彼等に殺されるだろう。……ドッキリでもない限り。
聖女が何を意味し、何をする役目なのかは分からなかったけれど、暴力を奮う事に慣れた犯罪者に楯突いたところで結果は最悪のものしか待っていない事は明白。
どんな環境だって、馴染めるものなら馴染んでいたい。
だって、そうやって生きていればきっと良いこともあるだろう。
私はこれまでの人生、そのスタンスで芸能界を渡り歩いて来たのだから。
訳のわからない事態に巻き込まれたって、馴染んでしまえば多少は自分に対する風向きは良くなるのだ、と経験上学んでいる。
例え今は帰れないとしても、いつか必ずチャンスは訪れるはずだ。
どんな困難でも作り笑顔で乗り切れる自信はある。
アイドルとしてそれだけの場数を踏んできたというプロ意識はある。
それがどんなものかは知らなかったけれど、「聖女役」をこなせと言われたらそれなりにこなせる自信はあった。
そして、私は王を名乗る男の言葉に恭しく頷いて見せた。
生きる為ならどんな事だって全うしてみせる。
しかし、自信や気概だけではどうにもならない事が一つだけあった。
私は聖女ではなかったのだ。
まあ、その事は仕方がない。
問題は別にある。
―――本物の聖女は肝の据わった元アイドルなんかではなく、臆病で泣き虫な普通の女の子だったのだ。