000
透き通るような清廉な声が、歌うように滑らかに空間に満ちる。
それが特段大きな声である訳でもないのに静寂の中をするりと通っていくのは、彼女の声を一言一句も逃さずに聞きたいと欲する民衆の為せる技だった。
聖堂内のバルコニーに一人で立つ少女は、群衆を前に少しも臆する事なく、その視線を一身に浴びてなお、凛とした空気を纏わせた。
その姿は人の姿を取った神の娘ーー聖女そのもの。
淡い空色の瞳を勝ち気に煌めかせて、白と蒼で彩られた聖衣を着た少女は言葉を紡ぐ。
「歴代の聖女はこの地を、民を守る事を選んだ。選ばざるを得なかった」
何百年も昔に初代の聖女がこの地に祝福をもたらして以降、歴代の聖女たちは皆、この地で魔物から民衆を守るために力を振るってきた。
しかし、初代の聖女が編んだ結界は月日を経て綻びを見せ始めた。
「それはこの国が力を蓄えるのに必要な雌伏の時であった」
次第に綻んだ結界の隙間から魔物が侵入し、数多の民を殺める事態へと発展した。しかし、聖女は結界の維持をするのに神力を使い果たし、不意打ちの魔物の攻撃に対処するのは常に後手に回る。
民衆の多くは強大な魔物に恐怖し、剣を捨て、土地を捨て、結界がまだ正常に機能している都市部へと逃げ惑った。
「だが、今を生きる我らには力がある。未来を掴む力がある」
この事態を打開するべく、教会の人間は天上より神に一際愛された次代の聖女を召喚した。
彼女こそが救世主と謳って。
天から遣わされたという出自不明の少女に、最初は誰もが期待の裏で紛い物の聖女ではないかと疑心を持った。
しかし、少女は綻んだ結界を見るといともたやすく張り直し、誰もの疑心や不安を一瞬で取り払った。
「神に愛されし子等よ。大切な者達を護る為に戦え!生きて未来を掴む為に戦え!」
だが、今代の聖女が死ねば結界はゆっくりと弱まり、また同じ事が繰り返されてしまう。
神との契約により二度と天上より聖女を召還する事が出来なくなった彼等には、暗い未来しか待ち受けていない。
歓喜に沸いた中でそんな事実に気付いてしまった民衆は、また嘆きに呉れた。
そんな彼等に、聖なる少女は自ら戦う事を提案した。
「この地に神の光を、悪しき獣に神の裁きを!」
少女はその圧倒的な神力をかざしながら、平穏な土地を取り戻そうと根気強く、何度も何度も恐怖にくじけた民衆に語りかけた。
一人、また一人と勇気を取り戻す人が増える度に、聖女を旗頭に聖なる軍がその列を増す。
聖女が美しき声を発する度に、王国は少しずつ戦線を拡げ、民衆の生きる希望は芽吹き出す。
神に愛されし清廉な美貌と透き通る透明な声でもって、力強く訴える姿に、次第に聖女としてではなく彼女を信奉する者さえ出た。
「何者にも侵されぬ未来をこの手に掴もうではないか」
そして、今日も聖女の言葉に呼応する民衆の熱狂する声が聖堂内に大きく響く。その声に、期待に応えるように聖杖を床に突き、その良く通る声を張り上げた。
「勇敢な民よ、今こそ攻勢に転じよう!我が名、リィーナの名において聖戦に祝福を!」
割れんばかりの歓声と、聖堂を揺さぶる程のリィーナの名を讃える雄叫びに、少女はゆっくりと空色の勝気な瞳を閉ざした。
何処までも続く歓声に押し潰されないよう握り締めた掌に、血をにじませながら。
民の勇気に感じいるように、神に誓うように見えるその姿は、更に彼女の神秘的な魅力を際立たせていた。
* * *
聖女と崇められる少女は、歓声の中を歩き切ってバルコニーの袖に入り、詰めていた息をゆっくりと吐き出しながら微かに震える身体をゆっくりと静めた。
何度立とうともやはり恐怖感は拭えないけれど、これに耐えられるだけのメンタルの強さはあるという自信はある。
ばくばくと大きな音を立てる心臓を抑えるように胸元に白い手を当てて息を整えると、数は減ったものの変わらずに自分に集まる視線を感じ、再び鳩尾に力を入れた。
視線があり続ける間は、稀代の聖女“リィーナ”役を演じ続けなければならない。
無言で、しかし感極まったような崇拝の視線を捧げている幾人もの控え人の中に混じっていた護衛の神殿騎士に聖杖を渡す。
この後の予定を聞かれ、神殿にて禊をしたいと要望を伝えると、返事も待たずに特注で作らせたブーツを鳴らしながら神殿へと歩き始めた。
ーー紛い物の聖女リィーナなどではない、本物の“聖女”を見舞う為に。