八、傷痕
葵は、ほとんど生まれて初めて受けた侮辱に頬を濡らしながら自室へと廊下を走っていた。
彼はこれまでずっと、葵の生家である笹野家を、大国に擦り寄り富や栄誉を得んとしている者たちだと、見做してきたのだろうか。
ひとえに民の健やかな明日を願い、この婚姻を受け入れられた父を、そんな風に軽んじられていたならば、それは到底許せるものではなかった。
そして、事もあろうに自らの夫から、あんな風に疑われ、軽蔑されていたという事実に、葵の胸は押し潰されそうだった。
領主の、冷たい瞳を思い出す。
何か無礼なことをしてしまったのだろうかと自分の行動を反芻してみるも、決定的な原因は分からない。
確かに、無礼は度々あったのかもしれない。しかし、あそこまで言われなければならないほどのことを、果たして自分はしてしまったのだろうか。
茶がお嫌いだったのかとも思ったが、その件は秀之も賛成していたではないかと打ち消す。
味で気分を害してしまったのかとも考えたが、かの方はまだ口をつけられていなかった。
それでは、何か誤解を与えるような態度を取ってしまったのかもしれない。
そうでなければ、彼は、家柄や評判、見目のために、ほとんど言葉を交わしたこともない自分を嫌悪したということになる。
もし、そうであったならば、果たして自分はどうすればいいのだろう。
そのとき、突然何者かに手首を掴まれた。
勢いがついていたため、葵の体は否が応でも後方へと倒れていく。
はっと息を飲み、後頭部への強い衝撃を覚悟した。
しかしその衝撃はいつまで足っても襲っては来なかった。
不思議に思った葵は恐る恐る目を開き、そのまま固まってしまう。
「し、霜田様…」
葵を受け止めたのは、決まりが悪そうに苦笑した霜田秀之だった。
――――……
暗い部屋の中、朱い夕日に照らされ、うずくまった一人の男の影が長く伸びていた。
先程茶器を下げに来た女中も、その雰囲気に気圧されたのか、なるべく音を立てぬよう気をつけながら早々に退室してしまった。
再び、独り残された男の瞳は何も映さず、ただ空をさ迷うのみ。
今見えているのは、遠い、過去の幻影。
遠い、過去の傷痕。
何度忘れようと願っても、何度消そうともがいても、その度に痛みを伴って浮かび上がってくる、傷痕。
刹那、葵の瞳が、涙が、脳裏をちらつく。
男は、きつく、その目を閉じた。
「…あのようなことを言うつもりはなかった」
それでも仰りました。貴方様は、あのような酷い事を。
「そんなつもりはなかった」
それでも、私を傷付けたではございませんか。
「違う…」
斎藤家の勝手に巻き込まれ、嫁いだ私にこの仕打ち。
「違う…!ただ……」
――恐ろしかっただけなのだ。
男は見えない女の影に怯え、過去と現在の狭間で、無意味な問答を繰り返す。
それはまるで、取り返しのつかない過去への贖罪。
――――……
「殿の事を少しお話ししましょう。…やはり初めからお話しておくべきでした。お許しください」
あの後、葵は秀之に連れられて自室へと戻って来ていた。
そこで、お互い向かい合って座っている。
少し落ち着きを取り戻した葵は、冷静に今の状況を考える事が出来るようになっていた。
「是非、お聞かせ願います。…霜田様は、こうなる事が分かっておられたのではございませんか?」
「驚きましたね」
そう言う秀之は本当に驚いているようだった。
「…今からお話しすることは禁忌とされています。この城でも極一部の者しか知りません」
「はい」
「殿は、御側室様のお子なのです」
一瞬、辺りが静まり返る。葵は、驚愕に目を見開くばかりで、何と言えば良いのか分からず、瞳を揺らす。
「…で、ですが、義久様は御正室様のお子であったと伺っております…」
「ですから、禁忌とされているのです」
秀之は、小さく息を吸い込むと恐ろしい程真剣な瞳で話し始めた。その瞳は、吸い込まれるほどに深く、冷たく、葵は背筋がぞっとするのを感じた。
「正室様は体が弱く、とても丈夫なお子が産めるような方ではありませんでした。そこで、第二位の側室様のお子が当主に選ばれたのです」
葵は頷いた。それは、大して珍しくもない、極めて順当なことだった。
しかし、と葵は昨夜からたった今までの城の様子を思い起こす。それならば、彼の母君は、そしてその御正室様は、一体何処にいらっしゃるのだろう。
葵の表情を読んだのか、秀之は僅かに視線を落とす。
「順にお話し致しましょう。お子を授かることのできない正室様のお立場は非常に危ういものでした。当然と言えば当然です」
曲がりなりにも一国の姫であった葵は、役に立たない女の立場など、十分過ぎる程に理解していた。
「お可哀相に…」
秀之は、その葵の言葉には反応を示さず、そのまま話を続けた。
「そして、殿が次期御当主に選ばれた正にその日、義久様のお母君はお隠れになられました。…死因は、分かっておりません」
葵の瞳は驚愕に見開かれる。
「…まさか」
「その頃からですね。私が先代様の命により、まだほんの幼子であった義久様にお仕えしだしたのは。何でも、正室様を筆頭に他の側室様達までもが、殿に卑劣な嫌がらせをはたらいていた様なのです。いずれも、とても奥方様のお耳に通せるようなものではございせん」
喉を詰まらせてしまったかのように、言葉が口から出てこない。葵は、ただ、茫然と秀之の言葉を受け止め、ぽつりと呟いた。
「年端のいかぬ幼子に、何と酷いことを…お父上様は、何も仰らなかったのですか」
「先代様にとって、義久様は、大切な世継ぎでした。それ以上でもそれ以下でもなかったのです」
それは、葵の想像をはるかに超えた世界だった
葵は、目眩を感じ、気取られないようそっと床に手をついた。
「ある日、殿が原因不明の熱を出されたのです。私はすぐに察しがつき、その日の朝餉の器に壷のメダカを入れました。…残念ながら、読みは当たってしまいました」
「……毒を?」
「その通りです。…正室様は比較的素直に罪を認められたので、御父上様により西の方へ流されその地で亡くなったと聞いています」
「左様に…ございますか」
「御父上様亡き後は、当然のように後を継ぎ、その敏腕を奮っておられます。…まるで、見えないがんじがらめの紐の中で力任せに足掻いておられるようで、とても見ていられるものではありません」
葵は、返すべき言葉を知らなかった。
これまで様々な人々を愛し、また、愛されながら生きてきた。
自惚れではなく、事実として。
家族は互いを想い合った温かなものであったし、周囲から悪意を向けられた記憶などほとんどない。
そうした環境で育ったからこそ分かる。
それらを失ったときの恐ろしさが。
葵の頬を、一筋の涙が伝った。
全身を巡る血が、徐々に冷えてゆく。
母を殺され、自らの命すら危うい、そんな環境。何人にも心を許すことなどできなかっただろう。生き残るためには、常に周囲を疑わなければならなかったに違いない。
頼るべき母を失い、そんな閉ざされた城の中で、何年にも渡ってかの人の見てきた世界は、想像することすらできない。
「理解していただきたいとは言いません。ただ、知っておいて欲しかったのです。他でもない、私が…私の勝手をお許し下さい」
そう言うと、秀之はゆっくりと立ち上がった。
立ち去る秀之を視界の端に捉えながら、葵はふっと意識を手放し、そのまま床に倒れこんだ。
まるで、脳がこれ以上の負担を拒んでいるかのように。
背後に聞こえた音に、秀之は振り返り、目を剥く。
「お鶴!お鶴はいますか!」
珍しく逼迫した声に、密かに次の間に控えていたお鶴は文字通り飛んできた。
「霜田殿!いかがなさりましたか!」
そして、すぐに床に倒れこんだ葵を見て、色を失う。かろうじて悲鳴を飲み込みながら駆け寄り、反射的に呼吸を確かめた。
すると、彼女の腕の中で、葵は微かに身じろぎした。聞こえるか聞こえないかというほどの小さな寝息が、お鶴の耳に入る。
「ご心配には及びますまい。夜、お体ををきちんと休めておられないのかもしれませぬ。ご生家を出られ二週間ほど、御心の休まる暇もなかったのでございましょう」
お鶴は、静かに秀之を見た。
「私とて、我らが殿の行く末を憂いております。奥方様に期待をかけていないと言えば、嘘になりましょう。しかしながら、奥方様は貴方様の道具ではございません」
秀之は、眉根を寄せ、そっと視線を落とした。
視線の先では、先ほどまで涙を流していた少女が、静かに眠っている。
「確かに、事を急きすぎました。奥方様のご負担も考えてはおりませんでした。しかし、刻一刻と傷つき死へ向かう殿に私はもう、これ以上、耐えられぬ。一日すら惜しいのです」
障子へ手をかけながら、鬼の懐刀は呟いた。
「ですから、奥方様を頼みます。私は、誰に恨まれようと構いません」
――――……
すっかり暗くなった部屋で静かに寝息を立てる少女を、お鶴はそっと布団へ移した。
「…申し訳ございません、奥方様。私どもでは、あのお方を救って差し上げることは叶わぬのでございます」
お鶴は優しい眼差しで、眠る少女の姿を見据えた。
「貴女様ならば…あるいは…」