七、一難
葵は、秀之の部屋を辞すと、お梅に、斎藤様のお部屋に伺うことになったと告げた。彼女は小さく「何という…」と呟くと、「共に参りましょうか」と遠慮がちに尋ねた。
確かに、彼女に付いてきてもらえるなら、それほど心強いことはない。しかし、やはりこれは他でもない自分たち夫婦の問題なのだから、と身を切る思いでその申し出を断った。
彼女には仕事に戻ってもらい、葵は茶受けの用意をしながら、茶を点てる。そうしていると、久方ぶりに心が浮足立つのを感じた。
勿論不安はある。しかし、ここ十日ほど、まるで大流に押し流されているかのような心持ちだったのが、今はきちんと陸に上がり、微力ながら自分の意思で歩けているような気がする。
生家では、執務に追われる父に、鍛練に勤しむ兄に、床に伏せる母に、茶を点てるのは、葵の仕事であった。勿論、身内の欲目も十二分にあるだろうが、お梅が直々に伝授したその茶は、家族にとても喜んでもらえていた。
昨夜のことを思えば、また、この婚姻が仕組まれたものであることを考えれば、彼との距離を縮めるのは、そう簡単なことではないのかもしれない。
しかし、人の世の縁で、こうして夫婦となったのだ。時間はかかっても、いつかは分かり合いたい。
こうして、一歩ずつ歩み寄っていくことで、いつかは本当の夫婦になれると信じたい。
そのとき、炊事場の女中たちが廊下を渡っていくのが、障子越しに分かった。障子の影の数から、三人組であることが見て取れる。
彼女たちには、葵が今その部屋から出ようとしていたことなど知る由もない。
一人が立ち止まると、後の二人も一緒に立ち止まり、世間話を始めてしまった。
「房さんはもう奥方様をご覧になりました?」
無邪気な若い声が廊下に響く。すると、房と呼ばれた女は、しっ、と窘めた。
「声が大きいわよ。まだお見かけしていないわ。でも、お梅さんの話では、殿より少しお年が下らしいわ」
「随分お若いのね。お国同士の婚姻だと、それが普通なのかもしれないけど」と先程の若い女が言った。
「お若いのに、気の毒なことよ」と三人目の女がのんびりとした口調で言う。
「相手はあの殿だもの。自分の娘がこんな目に遭っているかと思えば、やりきれなくなってしまうわ」と最初の女が言った。
「同じ城にいる者として罪悪感を感じてしまうわよね。せめて、極めて性格に難ありの奥方様なら、それほど気にはならないし、ともすればあの殿とも上手く渡り合えそうなものだけど」
「知ってる?先の戦で、降参した敵国の頭を御前に座らせて、何かをお尋ねになられて、そのままお斬り捨てになられたらしいわよ」
「ちょっと、やめてよ、恐ろしい」
若い女の声が震える。
葵は、青ざめながら自らの肩を抱いた。
「私、殿の冷たい目を見るとぞっとするのよ。それに、聞いた?昨晩、殿が奥方様お一人を残して、共寝の部屋から退出された話」
「知らない人はいないわよ。皆口に出しはしなくても、内心ずっとあの部屋に注目していたもの」
「奥方様のお気持ちを考えるとやりきれないわね」
「お梅さんも、殿に文句は言えないから、素直に奥方様をお部屋までお送りしたんでしょうけど、何と言ってお慰めしたのかしら」
「何と言っても慰めになんてならないわよ。言えるとしたら、殿は女子がお嫌いだということだけね」
葵は、はっと息を飲んだ。どういうことなのだろう。盗み聞きは忌むべきことだと分かっていながら、この後を聞き逃すまいと耳をそばだててしまう。
しかし、最初の女が「こら!」と若い女を窘めた。のんびりとした女も、「それは禁句よ」と頷いている。
「とにかく、奥方様をお見かけしたら、気持ち良く挨拶をしましょう。それから私たちにできるのは、美味しい食事を作って差し上げることくらいね」
最初の女がそう言って言葉を締めると、彼らはまたすたすたと歩き出した。
――――……
実のところ、葵はかの斎藤義久を恐れていた。
幼き頃より、隣り合う大国との間には幾度となく衝突が続いていた。そして、まるで悪鬼のように人を屠る敵国の主の姿は、様々な形で葵の耳に入っていたのである。
ある程度の分別を備えるようになってからは、隣国との戦は、国同士の戦いであるというよりはむしろ、村々の間に起こる小競り合いが原因だということが分かってきた。
よって、その場にかの義久殿が登場し、民を見境なく薙ぎ払ってきたというのは、恐らく、作り話なのだろうということにも気づいた。
しかし、かの殿がどこぞの国と戦を起こす度に、その残虐非道な武勇、鬼とも称される戦いようは、否が応でも聞こえてくる。そして、それらの話のどこまでが単なる作り話であるのか、葵には判断がつかない。
葵は、竦みそうになる足に力を入れ、両頬を叩いた。
夫を恐れて何になるのかと自らを叱責する。
噂というものは、大抵の場合真実からかけ離れたものである。確かに昨夜の彼は冷たかったかもしれない。しかし、直接傷つけられはしなかったではないか。
女子嫌いというのは何とも言えないが、少なくとも昨晩は何言か言葉も交わしている。極めて一方的なものではあったけれども。
例えこの先、最悪の場合、女子として好かれることがなくとも、せめて良き相談相手にはなれるのではないだろうか。
葵は乱れた心をようやく落ち着かせ、先程お鶴に教わった義久の部屋へと向かった。
――――……
義久の部屋は秀之の部屋からさほど離れておらず、先程のお鶴の説明で充分部屋を特定する事が出来た。
「斎藤様?」
一応控えめに呼び掛け、確認を取ってみる。
「誰だ」
すると、短く不機嫌そうな返事が返ってきた。
「葵でございます。お茶をお持ち致しました。入っても宜しいでしょうか?」
「…あぁ」
素っ気ないが、一応肯定の返答があったので、葵は遠慮がちに入室した。
「斎藤様、執務中に失礼致します。あの、少し休憩されてはいかがでしょうか…?」
先程の会話が頭を巡り、葵はつい下を向いてしまう。
そんな葵の様子に、義久は執務の手を止め、更に不機嫌そうに眉間に皺を寄せて振り向いた。
「何故だ」
「えっ、はい…?」
いきなりの問いに葵は意味が解らず、間の抜けた返事をしてしまう。
「何故、茶など持ってきた?」
「え、あの、ですから、斎藤様がお疲れかと思いまして…昨晩は遅くまで宴がございました故…」
義久はなおも表情を動かすことなく、氷のような声音で問う。
「お前はいつまで笹野家の者でいるつもりだ」
「え?」
「先程から『斎藤様、斎藤様』と、お前も斎藤だろう」
まるで考えもしなかった指摘に、葵は答えが見つからない。消え入るような声で「申し訳ございません…」と謝罪するだけで精一杯だった。
「…それほど俺に嫁いで来るのが気に入らなかったのか」
「い、いえ!決してそのような…」
「…そうなのだろう。先程から視線すら合わせようとしないではないか。そこでいきなり茶ときた」
先程の話を思い出し、葵はさっと青ざめる。このまま手打ちになってしまうのだろうか。
しかし、義久に激昂した様子は見られず、その声音はひどく平坦で冷たいままだった。
「…何が目的だ」
「…目的?」
「俺の機嫌をとってまで何がそんなに欲しいのだ?」
葵は、目を見開く。
「そんなに両国間の平和が欲しかったのか?それとも自国に財を回して欲しいのか?心配せずとも、お前の斎藤義久の室という地位は絶対だが」
葵の頭は、驚きと怒りで真っ白だった。
「…いい加減にしてくださいませ!」
義久は一瞬驚いたが、更に食い下がる。
「違うのか。それでは、その茶の中に毒でも混ぜたか。敵国の主を討ったとあらば、お前は自国で英雄と持て囃されるだろうな」
「私は!ただ、少しでもお話が出来ればと…!」
悔しくて仕方がないが、どうしても涙声になってしまう。それでも涙だけは零さないように、唇を強く噛み締めた。
「悔しいか」
先程と比べるとはるかに弱々しい声。
「……いいえ」
悲しみの色に染まった葵の瞳には、僅かに涙が滲んでいる。
「そうか」
義久の表情も苦しげに歪んでいた。
「…もう、ここへは来るな」
しかし、怒りと悲しみで前後不覚に陥ってしまっている葵はその変化に気付かない。
「言われずとも!二度と貴方様のお邪魔は致しません!」
そう叫ぶと、葵はとうとう我慢していた涙を零しながら部屋を飛び出した。
着物の裾をはためかせ、髪を乱しながら、葵は城内を走り抜ける。
廊下を走っているため、必然的に、様々な部屋の前を通ることになる。その度に、各部屋で何か作業をしていた人も、休憩をとっていた人も、何事かと目を丸くした。城の主の正室が涙を零しながら駆けているのだから、当然といえば当然だ。
時折、何やら荷物を運んでいる女中や兵に衝突しそうになったが、しかし、葵はそんなことには気づかない。そんなことにはかまっていられなかった。
恐怖と怒りと悲しみ、そして虚しさとやり切れなさに、葵の心は千々に乱れた。
自分がそれほど欲の深い、浅はかな女だと軽蔑されていたという事実が、どうしても受け入れられなかった。