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六、初日

 朝、目が覚めると、まるで知らない世界が目の前に広がっていた。

 見慣れない天井に、広すぎる部屋、豪華過ぎる調度品。

 ただ、変わらないのは、世界中に平等に降り注ぐ、この優しい陽の光と、目と鼻の先に見える、中庭に植えられた、桜の木。


「――此処にも桜があるなんて、なんて素敵な偶然なのでしょうか」


 葵は暫く、時も忘れて、その桜に魅入っていた。

 それは、日々眺めていた国の桜と比べれば、随分小さな細い木ではあったけれど、それでも葵を奮い立たせるには十分であった。

 桜は大切なお梅との約束を思い出させてくれる。


――桜の様に強く。


「…私は、なれるのでしょうか」


 そのとき、廊下から、控えめな声が聞こえた。


「奥方様?朝餉にございます」


 考え事をしていた上に、慣れない呼ばれ方をされた葵は、つい反応が遅れてしまう。


「…あ!は、はい!」

「失礼致します」


 しかしお鶴は特に気にするそぶりも見せずに、例の如くすっと入室してきた。


「昨晩は、よくお眠りになれましたか?」

「はい、とても」


 緊張してしまい、どうにも上手く言葉を継げない葵は、顔を真っ赤にして俯いてしまった。

 そんな葵を見て、お鶴はくすりと笑う。

 葵が不思議そうに見つめていると、お鶴ははっとしたように両の目を見張り、謝罪の言葉を述べる。


「申し訳ございません。私としたことが、奥方様に対し、何たる御無礼を。お許し下さいませ」

「い、いえ!無礼だなんて、決してそのような…」


 その様子を見ていると、またお鶴は頬が緩んでしまう。そして、今度はその柔らかい表情のまま続けた。


「されど、なんと可愛らしいお方が嫁がれて来られた事かと思えば」


 葵は、目を丸くしてお鶴を見つめた。


「私には年の離れた妹がおりまして。もう暫く会えておりませんが、齢が丁度奥方様程なのでございます。ですので、何と言いますか、まるで妹と話しているかのような…」


 そこまで言って、お鶴はまた、はっと頭を下げた。


「大変失礼を致しました。私のようなものが、あろうことか奥方様に自らの妹を重ねてしまうとは」

「…嬉しうございます」

「え…?」


 あまりの唐突さに、今度はお鶴が呆気にとられてしまう。

 そんなお鶴に、葵は柔らかく笑いかけた。


「私、とても不安でしたので……そんなふうに、家族のように言っていただけて誠に嬉しうございます」

「奥方様……」


 お鶴は、陽光の中で微笑む少女に、目頭が熱くなるのを感じた。

 敵国に、共を付けることさえ許されず、ただ一人送り込まれたこの方は、恐らく命を捨てる覚悟で嫁いで来られたに違いない。

 妹とさして変わらぬ年頃のこの少女が、この先、あの心根の凍てついた主から受けるであろう仕打ちを思うと、不憫でならなかった。


「…お鶴も貴女様にお仕えすることが出来、誠、嬉しうございますよ」


 この先、この方の人生に、希望の光が差し込む日は来るのだろうか。

 何も知らず嬉しげに笑う少女を見ていると、いつの日か、本当にそんな日がくるかもしれないと錯覚してしまう。

 この時の止まった城に、暖かな春の訪れる日が。



――――……



「お鶴、その、婚儀の後一日はこの服装のまま部屋で大人しくしているようにと教わったのですが、もしかして、その必要はないのでしょうか?」


 お鶴は何かに思い至ったのか、気まずげに頭を下げた。


「申し訳ございません。これほど万事急がせたのには事情がございまして……勿論、当家では武士たることの誇り故に、儀式は武家流で行うことがほとんどなのですが」

「事情?」


 思ってもみなかった言葉に驚く。自らの婚姻に、それほど複雑な思惑が絡まっていたとは。


「これは、あくまで噂でございますので、奥方様のお耳に入れるべきかは判じかねるのですが、しかし、我々のような者の間の噂というのは、馬鹿にはできぬものがございます故」


 葵は頷いた。

 城内というのは、どこに耳がありどこに目があるか、分からぬものである。

 お鶴は、更に声を低くした。


「この婚儀は全て、霜田秀之殿の采配によるものだと」

「霜田様の…?」


 葵は、驚きと言い様のない不安に声を詰まらせた。

 霜田秀之なる男の噂は、それこそどんな辺境の小国ですら、畏怖の念を込めて囁かれている。

 曰く、人の心を持たぬ、斎藤家の智略の将。鬼の斎藤の懐刀、と。


 考えようによっては確かに、此度の婚姻で、斎藤家の得られるものは少なからずあるのだろう。

 笹野の治める地は、肥沃で天災も少なく、常に安定した食庫を維持している。また、隣国との無用な争いが無くなれば、そこに割いていた兵や予算を他へ回すこともできる。

 しかし、と葵は首をかしげる。

 考えてみれば、これほどの大国、もっと他に同盟を結ぶべき国など五万とあるのではなかろうか。

 そもそも、葵を人質として迎えることが目的ならば、わざわざ正室として扱う必要があるのだろうか。


 いくら考えても、これといった答えも出せず、葵はため息をつく。

 恐らく、かの智将にしか分からぬ何かがあるのだ。


「お鶴、霜田様にお会いしたいのですが、明日の方が宜しいのでしょうか?」


 お鶴は、驚きに息を飲むと、反射的に首を振った。


「い、いえ、本日お部屋に留まられる必要はございません。すぐにでもお召し替え致しましょう」


 そう言うと、お鶴は真白の小袖の帯に手を掛け緩めると、衣紋掛けから桜色の衣を取ってきた。

 桜の衣に袖を通しながら、葵は僅かに涙ぐむ。

 しかし、お鶴がそれに気づくことはなかった。


「それではお鶴めがお供致します。朝餉を済まされましたら早速参りましょう」



――――……



 二人分の足音が廊下を渡っている。

 葵はお鶴の背中を見ながらも、塵一つない城内を見回した。庭は、まるで一刻毎に手が入れられているかのように、葉一枚落ちてはおらず、遠くに見える池には小々波一つ立たない。

 葵の生家など及びもつかないほど巨大な城であるのに、ほとんど人の気配がなく、しんと静まり返った城内は何となく不気味だった。


「奥方様、こちらでございます」


 そう言ってお鶴は、とある部屋の前で立ち止まった。


「お鶴めは此処にて待たせて頂きますので」

「はい、ありがとうございます」


 葵は震える声でその襖の向こうへ声をかける。


「霜田様、葵でございます」


 すると中から、「奥方様ですか?どうぞ」と拍子抜けしてしまうほど穏やかな声が返ってきた。声の感じでは、思っていたよりずっと若そうでもあった。


「失礼致します」


 葵がそっと部屋の中に入ると、果たして霜田秀之は机の傍に座していた。きっと執務の最中だったのだろう。


「申し訳ございません、ご挨拶をと思ったのですが…」

「いえ、構いませんよ。それよりも、私のような者の所にまで、わざわざ足を運んでくださって、ありがとうございます」


 そういって秀之は朗らかに笑った。

 それにつられて葵も笑みを零す。


「改めまして。私、笹野清政が娘、葵と申します。若輩者故至らぬことばかりでございますが、何卒宜しくお願い申し上げます」

「まぁまぁ、そう固くならずに。私は殿に仕えている霜田秀之という者です。どうぞよろしく」


 そう言うと、秀之は片手を差し出した。

 葵は戸惑いながらもそれに倣い、そっと手を握った。

 やはり、思っていたよりずっとお若く、ずっと穏やかそうな方だった、と葵は眼前の智将をまじまじと見つめる。

 秀之は照れたように笑うと、「此度は、ご結婚誠におめでとうございます」と頭を下げた。


「殿がご結婚なさると聞いたときは、明日には槍が降ってくると思ったものですが」


 葵は首をかしげた。この言い様だと、霜田様が裏で糸を引いていたというのは、単なる噂であったのかもしれない。


「そうなのですか?」

「えぇ。それ程までに殿はそういった事には無関心でしたので、五年程前いきなり嫁を娶ることになったと言い出したときには、騒然としましたよ。それなのに、いざ年頃になられると、途端に尻込みなさるものですから、少々強引ではありましたが、私が進めさせていただいたのです」


 葵は、そういうことだったかと納得した。つまり、これほど婚儀を急いだのは、義久様に逃げる隙を与えぬためだったのだ。


「誠にございますか。それでは、私などで宜しかったのでしょうか」


 手を打つ暇もなく、望まぬ妻を娶ることとなってしまった義久に、内心同情する。それでは、昨晩のあの態度も無理からぬことである。

 しかし、秀之は、そんな葵の内心などどこ吹く風とばかりに笑った。


「奥方様だからこそですよ。大丈夫です。それよりも私は奥方様のほうが心配ですね」

「え?」


 きょとんとする葵に微笑みながら、秀之は続ける。


「なにせ、相手はあの殿です」


 それでも意味が良く飲み込めないのか、葵は更に不思議そうな顔をする。


「一筋縄ではいかないという事ですよ」


 葵は、昨晩微かな光のもとに見た、義久の顔を思い出した。


「そうかも…知れません…」


 どう贔屓目に見ても歓迎されているようには見えなかった。そのような背景があったのなら当然だろう。

 小国の何の取り柄もない小娘を、周囲の策略で娶る羽目になってしまった彼の心中は否が応でも察せられた。


「奥方様、何か困った事があれば、いつでも相談に乗りますから」


 その策略を巡らせたであろう張本人は、全く悪びれることもなくまるで窮地に立たされた主人を面白がってでもいるかのように笑っている。

 しかし、葵はどうしてもこの男を恨む気にはなれなかった。思わず、くすりと笑ってしまう。

 この男の佇まいを見ていると、本当に何とかなりそうな気がしてしまうのだ。


「ありがとうございます。それではさっそく、今から斎藤様のもとへもご挨拶に参ります。お茶をお持ちしたいのですが、宜しいでしょうか?」


 そのとき、秀之が一瞬難しい顔をした。

 しかし、葵がそれと気づくか気づかぬかのうちに、すぐ先程と変わらぬにこやかな表情に戻る。


「まぁ、奥方様なら大丈夫でしょう。良い心掛けですね。気をつけていってらっしゃい」

「…気をつけて?」


 葵はまたよく解らない事を言われて頭が混乱していたが、目的を見つけられた事で、先程より表情は明るくなっていた。



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