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五、婚儀

「――それでは、盃を」


 葵は震える手で盃を取ると、そっと口元へ添えた。


 一刻程前、夕闇の迫る中、松明の明かりを頼りに、葵を乗せた輿はここ東雲城に登上した。その輿は、葵を乗せたまま奥の座敷へと通され、いくつかの部屋を抜けたのち、とうとう、降ろされたのである。

 約一週間に渡る旅が無事に終わったことを悟り、葵は内心、ほっと息をつく。

 するとそこに、女性が二人入室してきた。


「遠い道のりを遠路はるばる、大変恐れ多いことでございました」


 そう言って頭を下げる彼らに、葵は首を振る。


「いえ、隣国でございます故、早馬で駆ければ二日とかからぬほどの距離でございますれば。しかし、何分領外へ踏み出すのは此度が初めてのことでございます故、今このとき、何処へ参れば宜しいのかすら判じかねておりました――出迎え、大変有り難く存じます」


 そう言って頭を下げようとする葵を、彼女たちは慌てて押し留める。


「私どもなどに頭を下げられてはなりませぬ。今宵姫様は我らが主の奥方様となられるのでございますれば」

「今夜…?」


 思わず、葵は呟いた。

 世話役として道中片時も離れず輿のそばについていた男が、「何を申すか!」と憤慨した。


「其方らは先刻姫様の長旅の疲れを気にかけておったではないか!その舌の根も乾かぬうちに!婚儀の際は、一夜休息の夜を与えるのが常であろう!我らが姫様を軽んじておるのか、無礼者め!」


 葵は、その男をそっと押しとどめた。


「いいえ、構いませぬ」

「しかし姫様…」


 なおも言い募ろうとする男に、葵は微笑みかける。


「郷に入れば郷に従えと申します。私はもう、笹野の姫ではございません」

「し、しかし…」

「それに」


 その凛とした声に男が黙ると、葵は晴れ晴れと笑った。


「私も早う斎藤様にお会いしとうございます故」


 男は、幼い頃の葵を思った。我々が、陰に日向に守り続けた幼姫は、今や立派な姫君となられた。


「…出過ぎたことを申しました」


 男は、床に頭をつけ平伏し、溢れ出る熱い涙を隠した。


 

――――……



 葵は、次の間にて簡単に身なりを整えられると、がらんとした縦に長い広間に通された。

 そこには先ほどとは異なる女がこれまた二人座しており、葵に上座へ座るようにと示す。

 葵は、素直に示された位置に腰を据えると、女たちに倣い、深く頭を下げる。

 そうして暫くすると、隣に人の座る気配がした。


 そして今現在、状況を飲み込む猶予さえ与えられないまま、婚儀の席に座している。

 儀式に集中しなければ、どんな失態を演じてしまうかも分からぬほど緊張しているため、葵はひたすら顔を伏せて盃の乗せられた膳を見つめた。

 せめて、どのようなお方なのか、少しだけでも知りたいと思えど、今この状況では、視線を隣へ移すことすら難しい。


 そうして、ようやく儀式が終わると、どこに控えていたのか、男たちが次々と入室して来、左右に分かれて座した。続いて新たな膳がぞろぞろと運ばれ、彼らの前へ置かれていく。

 葵は、どうすれば良いのか分からぬまま下を向いていた。恐らくこれは、武家流の婚儀なのだろう。

 大名家であるとはいえ、武勇を重んじる斎藤家では、万事武家流を選択するのかもしれない。

 実家である笹野家は、武より智を、勇より和をという環境であったため、武家たる儀はあまり教わってこなかった。

 もう少し広い見識を持っていたならば、このような場合でも、もっと泰然と振る舞うことができたのに、と葵は泣きそうになるのを必死でこらえる。


 ちらりと彼らを盗み見ると、まだ幼かったころ何度か城内で見かけた顔もあり、どれほどの人物らがこの婚姻を見届けに参じたのか、葵は足が竦む思いだった。

 この大国の婚姻が、諸国にとってどれほどの影響力を持っていたか、今身を以て知ることとなる。


 その上、自分の隣に座しておられるのが、あの斎藤義久殿だと考えると、恐れ多くてとても顔など上げられない。


 また、酒の出される宴であるのにもかかわらず、彼らに楽しげな様子は一切なく、始終どこか張り詰めたような、居心地の悪い空気が辺りを支配している。

 あるときなど、挨拶に参じた男が何事かを義久に囁くと、彼は不機嫌そうに咳払いをし、その男を追い返してしまった。


 そのようなこともあり、葵は式の間中俯き続けているよりほかは無かった。

 結局その場で、葵は未来の夫の姿を拝見することすらかなわなかったのである。



――――……



 そうして息の詰まるような婚姻の儀が終わると、二人は別室へと案内されて行った。

 移動の間、半歩先を歩く夫をまじまじと見つめる。男は、まるで葵になど何の関心もないかのように、一切後ろを振り返らず、また、言葉をかけることもなかった。


 そして今、葵は斎藤義久と向かい合う形で座し、視線を床に落としていた。


 どうしよう。どうしたら良いのだろう。そんな問いが頭の中をぐるぐると渦巻く。

 話し出す機は完全に逃してしまっていたし、そもそも、こちらから口を開いても良いものなのだろうか。

 そのとき、眼前の男が、口を開く気配がした。


「…東雲城四代目城主、斎藤義久だ」


 声につられて視線を上げ、やっと目が合った。


 御若い。それが初めて心に浮かんだ印象だった。

 もっと年嵩の男を想像していた葵は、自分とさして変わらぬ年齢であろう青年を見て、絶句してしまう。


 そんなことを考えていると、不意に目の前の顔が不機嫌そうに歪められているのに気が付いた。

 そこで、葵は初めて自分の失態に気が付く。

 武家流の作法は習っていなくとも、名乗られて黙っている法はない。


「笹野清政が娘、笹野葵と申します」


 そう言うと、床に手をつき、深々と頭を下げた。


「知っている。今から、お前を部屋へ案内させる。何かあればその者に申し付けろ。……俺からは以上だ。他に何かあるか?」


 その声音が、とても冷たく感じられ、葵は思わず怯んでしまった。


「い、いえ。ありがとうございます」

「それでは、失礼する」


 そう言うと義久は本当に退室してしまった。

 残された葵はどうすればいいのか判らずに、おどおどしてしまう。

 こんなことになるとは思ってもみなかった。

 こんなのは、あんまりではないか。

 せり上がってくる涙を押しとどめようと、袖を鼻に押し付ける。

 すると、廊下に面した襖が開かれ一人の女性が入ってきた。


「お初にお目にかかります。私、この東雲城にて女中をさせていただいております、鶴と申します。この度は、奥方様の身の回りのお世話をさせていただくこととなりました。何卒宜しくお願い申し上げます」


 葵は、さっと目尻の涙を拭うと、急いで頭を下げる。


「はい、こちらこそ、宜しくお願い致します」

「それではお部屋のほうへ案内させて頂きますので、こちらへ」


 それから広い城中をぐるぐる歩き回り、ある一室に通された。

 その部屋は、とても広かった。きっと、しばらくは落ち着かないだろう。

 部屋中の調度品もとても高価なものばかりで、正直息が詰まりそうだ。


「気に入られましたか?」

「はい。とても」

「虚言にございますね」


 そう言って、いたずらに笑う眼前の女中に、素直に驚いた。まさかたったの一言で自分の本心が暴かれてしまうとは。


「私のことは鶴とでもお呼び下さい。また何かありましたら、遠慮なくお申しつけ下さいませ」

「はい、ありがとうございます」

「それでは、失礼致します」


 そして葵は、この広い部屋にたった一人きりとなってしまった。

 いつもよりも広く、静かで暗い部屋。

 怖くて怖くて仕方が無かったが、窓障子を開けると、それを少しだけ緩和するものがあった。


「…綺麗…」


 窓から差し込んでくる冷たい月光と、外より仄かに漏れ込んで来る桜の香。

 その香に安心し、ついつい様々なことに思いを馳せる。


 恐らく斎藤様は、この婚姻を望んでおられたわけではないのだ。それなのに、これから先、彼と上手くやっていけるのだろうか。

 例え政故の婚姻であったとしても、夫婦となったからには、仲睦まじく暮らしていきたいと思うのは、思い上がりなのだろうか。


 少女は、舞い踊る桜の花びらを眺めて、淡く微笑んだ。


「そんな弱気でどうするのです」

 

 そんなお梅の声が聞こえた気がした。

 そうだ。この地で自らにできることを探そうと、そう、決心したではないか。

 少女の新しい生活が今、始まろうとしていた。


 

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