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四、花嫁

 春特有の甘く柔らかな空気が世界を満たしているような、そんな朗らかな朝。

 領主、笹野ささの清政きよまさの城の雰囲気は、ひどく慌ただしいものだった。



――――……



「姫様!動いてはなりませぬ!」


 その一室には、蒲公英の綿毛の様な陽光に包まれながら、純白の小袖に袖を通している一人の少女がいた。

 こんなにも、清々しい日であるのに、その少女は自分の身仕度をしてくれている侍女達を不満げに見つめている。


「どうしても、こんなに大袈裟な恰好をしなければならないの?」

「勿論でございます。なにせ、姫様はこの国の姫君であられます故」


 自分を取り囲み、次々と飾り立てていく侍女達に内心、閉口してしまうが黙ってされるがままになるしかない。

 今日が自分にとって、また両国にとっても、晴れの日であることは理解している。

 また、自らの立場もわきまえているつもりだ。

 しかし、これは、あまりにも重い。


 小袖の上に打掛まで重ねられ、一歩踏み出すごとに、足が地に沈んでしまいそうだ。

 顔にはうっすらと化粧が施され、真っ赤な紅が引かれている。

 背まで流れる垂髪には、様々な種類の飾り簪が挿され、動く度にそれらがシャラシャラと澄んだ音を奏でる。

 その中には、昨日お梅に手渡された、あの桜の花の簪もあった。


「――姫様、もう、ようございますよ」


 漸く支度を終えた侍女達は、そう言って疲弊しきった葵に鏡を手渡した。

 葵は、鏡の中の自分を覗き込み、目を見開く。

 そこに映る自分は、まるで何処か遠くの見知らぬ「姫君」に見えた。


「…とても綺麗よ、葵」


 突然聞こえたその声に、葵は驚きのあまり、思わず反射的に振り返る。そして、絶句した。

 そこには、いるはずのない、母の姿があった。


「奥方様!なりません!安静になさらなければ!」


 どうしたものかと、慌てふためく侍女達。


「大丈夫よ。今日くらいは許して下さいな。悪いけれど、少しだけ外してくださらないかしら」


 そう言われてしまえば、侍女にはどうすることも出来ない。

 弱々しい足で立っている葉を心配そうに見やりながらも、彼らは楚々と退室して行った。


「母上、お体に障ります。このような――」

「葵、お願い。少しだけ私の話を聞いてね」


 母上の表情は穏やかではあるものの、その表情は、真に迫るものがあった。


「葵、今までごめんなさいね。本当にごめんなさい。私は今まで、何処かへ連れ出してあげることも、一緒に遊んであげることも、それどころか、満足にお世話をしてあげることすら、かなわなかった。……お梅にも、随分辛い思いをさせてしまって…」


 葉の双肩は震えており、目からは後悔の涙が流れている。


「…こんな母を許して、とは言えないわ。それならばせめて、忘れずにいてほしい。憎しみでもいい、たまにでもいいから、こんな母を思い出して…」


 最後のほうは嗚咽に紛れ、消え入りそうな声だったけれど、決死の覚悟で絞り出された、母の最後の後悔の言葉は葵の心に突き刺さった。

 葵はわなわなと奮えながら自分の心の内を叫んだ。


「そのようなことをおっしゃらないで下さい!何故母上が謝らねばならぬのですか!それではまるで、私やお梅が不幸だったようではございませぬか!私は幸せでした!母上と共に過ごした年月は全て偽りであったと、そう申されるのですか!母上、母上は、たった一人の、私の大切な母でございます」


 無礼を承知で、葵は母に抱き着いた。

 葉は葵の剣幕に驚き、固まってしまっていたが、その温かな衝撃で我に返った。

 あの幼かった娘が、今や母を諭すまでに成長していたことに、葉はこれまで、全く気がつかなかった。いや、気づいていたのかもしれない。しかし、自らが床に伏しているうちに、娘がもはや子供ではなくなってしまったことを、認めたくはなかったのだ。

 もっと、体が強かったなら、幼いうちに何でもしてあげられたのに。

 その後悔は、今も彼女の胸を締め付ける。

 しかし、それ以上に、これほど強く優しい子に育ってくれたことが嬉しかった。

 葉は、しっかりと、愛しき我が子を抱きしめた。

 今、その瞳から流れくるのは後悔の涙ではなく、愛情と喜びによる美しい涙。


「私が、大好きな母上をどうして忘れられましょう」


 葵は、優しい母の腕の中で、静かに涙を流した。



――――……



「父上、私をここまで育ててくださり、誠にありがとうございました。いつまでもこの家を忘れることは出来ませぬ」


 葵のよく通る声が、座敷全体に凛と響く。正面の上座に座す清政、そのそばで葵を見守っていた政幸、そして下座に並ぶ家臣の者たちでさえ、その声音にはっとした。


「葵、此度は我が笹野家の為、ひいてはこの国の為、このような決断をさせてしまい、一国の領主として誠に申し訳ない。また、誇らしくもある」

「勿体なきお言葉にございます」

「だが、娘を持つ父としては…まだ娘を手放したくはないのだが」


 そう言って清政が苦笑すると、周りの雰囲気も幾分柔らかなものとなる。


「葵、幸せになってくれ」


 よもやあの厳格な父に、このような言葉をかけていただけるとは。

 恐らく、驚いていたのは、葵だけではなかっただろう。その証拠に、父の側近らでさえ、口を開けて言葉を失っている。

 葵は、くすりと笑いをかみ殺して、深々と平伏した。


「はい、父上」


 葵は城中の者、皆に向かい、長い礼をした。



――――……



 見慣れた廊下を歩き、見慣れた部屋の前を通り過ぎ、そして見慣れた桜の木の隣を通る。

 相も変わらずひらひらと花びらを散らす桜を見ていると、桜の花びらには際限が無いのではないかと思ってしまう。

 しかし、そんなはずはない。その花びらは地に落ち、風に舞い、そしてその枝には、若く柔らかな新緑が芽吹くのだ。

 葵は、門の前に止めてある輿に向かい、歩き続ける。

 そういえば今日は、お梅とまともに話せなかった。そんな事を考えながら。

 少し寂しいと思いながらも、葵は昨日のことを思い出すだけで、胸が満たされるのを感じていた。

 これが、最良の別れ方なのかもしれない。


 ようやく、門が見えてきた。この門を越えたが最後、もう二度と、生まれ育った城に足を踏み入れることはかなわないのだ。

 葵は、塞ぎそうになる気持ちを奮い立たせ、再び強く前を向く。

 そして、はっとした。

 門の近くに見える、あの人影は。


「……お梅」


 葵は呆然と呟いた。

 お梅は門の隣に立ち、深々と頭を下げている。

 顔が見えないので表情は窺えないが、その姿は固い決意を示していた。

 葵は、淡く微笑んだ。

 お梅は、最後まで、強く、誇り高い。

 葵はお梅の隣を通り過ぎ、無言で輿に乗り込んだ。

 ゆっくりと案内役が進み出し、花嫁行列も動き始める。


「…さようなら、父上、母上、兄上…お梅。また再び、相見える日を待ちましょう…」


 葵は、涙にけぶる目を押さえながら、いつまでも門の前から離れようとしないお梅の姿を、じっと見つめ続けていた。



――――……



 輿が揺られ、揺られ。

 既に、城下を抜け、国境まで進んでいた。

 華やかで美しい花嫁の行列が、あぜ道とも言える細い道なりを、月と篝火に照らされながら堂々と進んでいく。


 すると突然、シャンシャンと何とも言えない美しい音が、輿の中まで聞こえてきた。

 何日も輿に揺られて僅かに疲弊していた葵も、ふと目を覚まし、そっと輿の簾を上げる。

 暗くてよく見えないが、どうやらそこは、あたり一面田地であるようだった。

 先程の音の正体を突き止めようと、辺りに視線を巡らす。


「あ……」


 葵は、その正体に気づくと、微かな声を漏らし、そのまま固まってしまった。


 音の正体は、稲穂であった。

 数え切れない程の百姓が昨年収穫した稲穂を手に持ち、それを葵の乗る輿へ向けて振っていたのだ。


「私の嫁入りを、これほど沢山の人々が祝してくださっているのですね」


 誰にともなく、呟いた。

 葵はただただこの婚儀を厭うていた自分を恥じた。この婚姻を民のためだと考えて、耐え忍ぼうとしていた自分を恥じた。

 彼らを心の逃げ場にしてはいけない。

 民を守るためだという考えが、そもそも思い上がりだったのだ。

 守るために犠牲になるのでも、救うために人質になるのでもない。

 自分にできることを探すために、嫁ぐのだ。

 人質として、日々を漫然と過ごすのではなく、かの地で自分の為すべきことを見つけよう。

 葵は、晴れ晴れと微笑んだ。

 未来のことなど誰にもわからないことなのだから、もっと大きく構えるべきだったのだ。



――――……



 葵を乗せた輿は、予定通りに国境を越え、それからまた数日かけて斎藤家の城を目指した。

 そして、今、とうとうその城が眼前に聳え立っている。


「姫様、あちらが斎藤殿のおられる、東雲(しののめ)城でございます」


 声に反応し、御簾から顔を出してみれば、城の瓦がキラキラと光っているのが目に入った。

 故郷の城の何倍も大きく、何倍も堅牢なその城は、血で血を洗う戦の歴史を物語っているかのようで、葵は思わず身震いする。

 これから、この東雲城で新たな生活が始まるのだ。

 期待と不安の入り混じった瞳で、少女はそれを、静かに見つめていた。



 

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