三、最後
「とうとう明日…」
朝焼けに包まれた部屋で、葵はぽつりと呟いた。
父上に婚姻の旨を告げられたあの日から、あまり眠れていない。
今日も、葵は空がやっと白み始めた早朝に目が覚めてしまった。
それはそれで残された時を充実させることが出来るので、良いのかもしれない。
葵は着替えを済ませ、玉鬘にも劣らぬ程の美しい黒髪に櫛を通した。
墨の様に流れる髪を一束すくってはそれを丁寧に梳いていく。
あまりに静かなこの部屋でこのような作業を繰り返していると、考える必要のないことまで考えてしまう。
今更ながら、何故斎藤殿はこのようなお話を持ちかけられたのだろうか。
葵は直接「斎藤義久」なる人物に会ったことはなかったが、その知略と武芸の腕によって、当時衰退気味だった斎藤家を僅か数年のうちにここまでの大国にしてしまったのだ。
きっと、想像にも及ばないほどの能力を備えた人物なのだろう。
そのような方が、どうして自分のような何の取り柄もない小娘を娶ろうというのだろうか。
一人考えに耽っていると何処かで鳥の鳴声がした。
その声につられて窓の外に目をやれば、夜はもうすっかり明けきり、爽やかな日の光が辺り一面を照らしている。
今の時間ならば、きっと中庭にて兄が鍛練をしているに違いない。
少し様子を見に行こうか、邪魔にならぬように大人しくしておこうか。考えれば考えるだけ、兄の姿を確かめたくなってしまう。
葵は障子を引き、縁側に出、置いてあった草履を引っかけ、中庭へと降りた。
――――……
少し歩くと、あの咲き誇る桜の木の下で休憩している兄の姿を確認した。
鍛練中ではなかったようで葵は少しだけほっとする。
少し速足で近づくと、政幸も葵に気がつき、柔らかく微笑んだ。
「今日は随分早いな、葵」
「それは私の台詞です。こんなに早くから鍛練だなんて、お体を壊されてしまいます」
「私は大丈夫だ。今日はこのくらいで切り上げようと思っていたところだから」
「そうなのですか」
「葵は朝餉は済ませたのか?」
「いえ、まだ」
「先程お梅が来て、ここまで握り飯を運んで来ると言っていたんだが、葵もどうだ?」
「是非、御一緒させてください!」
――ひらり、ひらり、と桜の花弁が頭上から降りかかり、平和で温かな時を奪ってゆく。
「まぁ、姫様もいらっしゃったのですか!」
しばらくすると、お梅が握り飯を運んで来た。
「あぁ、私が誘ったのだ」
「左様でございますか。それでは握り飯を多めに作っておいて正解でございました」
お梅は木の下で握り飯を広げだした。
不意に葵は幼い頃を思い出した。
――昔もよくこうやって三人で。
「そういえば、姫様」
お梅の声に、はっとする。ぼんやりすることが増えてしまったと、葵は心の内で頬を叩く。
「本日はこれより、おいとま請いの式がございます。暫し休まれたのちご準備にかかりましょう」
「式と言っても、父上と杯を酌み交わしてからは、宴のようなものなのでしょう?」
「はい、まぁ、恐らくは酔っ払いの酒宴になってしまうのでしょうが――姫様は早めに御引き上げなされた方が宜しいかと」
苦笑しながらも、可笑しそうに話すお梅を見て、葵もついつい笑ってしまう。
「それじゃあ、宴が始まるまでは、兄上やお梅と此処でこうしていても良い?」
お梅は一瞬苦しそうに顔を歪めた。しかし、幸か不幸か、葵に気づかれることはなかった。
――――……
――辺りは夜の闇に包まれ、この城だけが唯一明るく浮かび上がっているかのようだ。
沢山の、笑声が聞こえる。
沢山の、笑顔が見える。
なかには、暴れだしている人や、号泣している人も。
昼過ぎに始まったこの宴だが、すでに大半の者が酔い潰れているか、悪酔いしているかのどちらかだ。
最初のうちは、祝いの言葉をかけて来る者、泣き出す者など様々だったが、もうこうなっては当初の目的を覚えている者は居ないだろう。
思えば、誰かの誕生日、年中行事、戦の前夜と勝利後など、事あるごとにこのような宴が催されてきた。
そして大抵、酒宴と化してしまうのだ。
葵はこんなどうしようもない光景でさえ優しく見つめ、嬉しそうに微笑んだ。
――これでこそ、私の大切な思い出のひとつ。いつもと変わらぬ、幸せな時間。皆様、今まで、本当にありがとう、お世話になりました。
葵はそれだけを胸のうちで丁寧に呟き、こっそり退室してしまった。
何故なら、胸が、張り裂けそう。
自室へ戻ると涙が堰を切ったように溢れ出した。
零れて、零れて、止まらない。
「今ならば…」
今なら皆は宴で盛り上がっているはず。
泣き顔を見られるどころか、泣き声を聞かれる心配もないだろう。
すると突然、ふっと温かな温度に包まれた。
「姫様…」
そこには、自分と同じ様に涙を流しているお梅の姿があった。
葵は、そのとき初めて、お梅の涙を目にした。
葵が生まれ、すぐに世話係に任命されたお梅。当時、十歳だった。まだ甘えたい盛りだっただろう。
葵を産んですぐ床に伏せてしまった母の代わりに、母にも劣らぬ愛情をもって、彼女を支え続けたお梅。
優しくて気丈なお梅が見せた、初めての涙。
「姫様…お一人で、さぞかし心細い事でしょう……姫様の御心の内を思えば、例え両の手、両の足が切り落とされようとも、この胸の痛みには勝りますまい」
お梅は、葵をきつく抱きしめ、声を抑えて泣き続けた。それでも漏れ聞こえる嗚咽は、葵の胸を悲しく締め付ける。
本来なら、こちら側から女房を何名か連れて行くのが筋というものだ。しかし、何故かそれを先方が許さなかったらしい。葵は、ただ一人、かの未知の国へと旅立たなければならないのだ。
彼女と離れなければならない悲しみに、葵も声を上げて泣いてしまいたかった。だが、泣けない。泣いてしまえば、きっと決意が揺らぐ。
「お梅、ありがとう」
葵は、お梅を優しく抱き返した。
――私のために泣いてくれて、私を心配してくれて、私を育ててくれて、本当に、ありがとう。
「私はもう大丈夫。立派にお役目を果たして見せるわ。ここを離れても、あの桜の衣を見る度に懐かしい庭の桜を、皆を――お梅を思い出すことが出来る」
「…姫様、どうかこれも持って行って下さいませ」
お梅が手渡したのは、桜の花の簪。
よく見ると、いつもお梅が挿している梅の花の簪に似ている。
「これは…?」
「元々梅と桜、二つ持っていたのです。いずれ姫様へお贈りさせていただこうと思っていたのですが、なかなかきっかけが掴めず……このような折になってしまいました」
そう言って、お梅は困った様に笑った。
「姫様、よくお聞きくださいませ。桜は儚い様で、実はとても強うございます。例え花が散ろうとも、また翌春、美々なる花を咲かせるために、根も葉も幹も、どんな風にも折れることはございません。……ゆめゆめ、お忘れ無きよう」
「…はい」
――今はしばしの別れでございますが、これが永遠の別れでもなし……いずれ貴女様がまこと、美しく花を咲かされたそのときには、無謀と知りつつ再び愛でに参ります。