二、用意
――朝、目が覚める。
ゆっくりと瞼を開けば、そこは暖かな光に照らされた、いつもと何一つ変わらぬ風景。
しかし、見慣れたはずの自室も、窓から差し込む柔らかな朝日も、そこから見える桜の木でさえ、何故だかとても新鮮に感じられた。
その瞳に映るもの全てが、とても愛しく美しい。
この景色を眺めていられるのも、あとほんの僅かな間だけ。だからこそ、なのかも知れない。
それならばせめて、今だけは、この風景を瞳に、胸に、焼き付けておこう。
「――姫様、お梅でございます。朝餉をお持ち致しました」
急に声をかけられ、物思いに耽っていた葵は肩を揺らしたが、急いで返事を返す。
「ありがとう。どうぞ」
「失礼致します」
すっと襖を開け、足音もたてずに入室するお梅も、膳で湯気をたてる汁物もやはりいつもと変わらない。
あまりにも変わらない朝に、葵は「昨日の話は実はすべて夢だったのでは?」と、ありもしないことを期待してしまう。
だが、そんな儚い期待もすぐに打ち砕かれてしまった。
葵が食事を口に運ぶのを見計らい、お梅がこう告げたのである。
「姫様、今後の御予定について、お話致します」
その声音は、感情を殺した様に無機質で、冷たいものだった。
その冷たく重い雰囲気に気圧され、葵は箸の動きを止めた。そして箸を置くと、きちんとお梅と向き合い返事をする。
「…はい」
「今日はこれから、城下まで必要なものを揃えに参ります」
「確か父上は必要なものは既に揃えさせたと」
「はい、大方のものは既に。しかし姫様には、御召し物を選んで頂かなくてはなりません」
城下を好む葵が外に出やすいように、かの父は、職人を城内へ呼び込むことは、滅多にしない。こんなときでも父は、城下へ行かせてくれるのか、と葵は内心驚いた。
いや、こんなときだからこそなのかもしれない。心の内で別れを告げて来いということなのだろう。確かに、最後に一目、城下は見たい。しかし、愛する町並みを見てしまっては、余計に悲しみが増してしまいそうだ。
「姫様、これほど急な婚儀は、私も聞いたことがございません。常識外れと言わざるを得ない日取りではございます。しかし、こちらに選択の余地はございますまい」
ここまで言い終えると、お梅は一度息をついた。
そして一瞬視線を落とした後、再び口を開いた。
「あまり時間がございませんので直ぐに御着替え下さいませ。今は時が惜しうございます。既に皆は準備を終え、姫様をお待ちです」
「あの…お梅は…?」
「僭越ながら私もお供させていただきます。それでは、また後ほど」
そう言うと、お梅は葵の返事も聞かずに深々と頭を下げ、退室してしまった。
一人部屋に残された葵は唖然としてしまう。お梅のあんな態度は初めて見た。怒っているような、悲しんでいるような。
伏せられた瞳からは、何も読み取ることができなかった。
何か気に障る事をしたのだろうか?
出先では、機嫌を直してくれているだろうか?
そんな問いが、ただでさえ忙しい葵の頭に、ぐるぐると渦巻いた。
――――……
その後、駕籠にゆられて城下へ入り、現在は呉服屋にて、斎藤家へ携えていく着物を選んでいる。
そばに控えるお梅は、周囲にあれこれ指示を出しながらも、葵に様々な衣を見せていく。
何分急な婚儀であるため、今回は一から衣装を仕立てる暇などあろうはずもなく、ある程度仕上がっているものの中から選ぶことになる。
「姫様、このあたりなど、いかがでございますか?」
五月の空のように澄みきった青。
椿の花のように鮮やかな赤。
秋の夜空のような濃厚な紺。
確かに、どれもとても美しい。しかし、そのために、葵はなかなかこれというものを選ぶことができず、眉間に皺を寄せ、険しい顔で悩むことになる。
すると、店主が奥に入り、それからお梅に、一反の布地を手渡した。
葵がちらりとそちらを盗み見ると、人の良さそうな店主は、葵の視線に気づき、深々と礼をする。
それから、お梅に何かを耳打ちすると、彼はそのまま奥へと下がっていった。
「お梅、あの方は何と言っていたの?」
「是非、こちらの布地を使わせていただきたいとのことでございます」
お梅は、眩し気に微笑みながら、手の中の布地を広げた。しかし、その手は、僅かに震えていた。
葵は、ちらりと店主の下がった方を見遣ったが、そこに彼の姿はなかった。
いつもは何かとおせっかいで、よく喋る店主が、今日は一言も言葉をかけてこなかったことに、少なからず寂しさを覚える。
敵国へ身を売る裏切り者だと思われているのかもしれない。
葵は、暗澹とした気持ちで、その店主が勧めたという布地を見た。
そして、はっと息を飲んだ。
「姫様には、このお色が、必ずお似合いになると申しておりました。日数もございませんから今回は仕上がっているものの中から、と申したのでございますが、是非にこちらを、と。今夜は寝ずに仕立てるため、今から準備に取り掛かるとのことでございます」
それは、あの庭で咲き誇る、桜花の衣だった。
――――……
幼子が、母親に手を引かれながら、駄々をこねている。母親は、呆れた顔をしながらも、愛情を込めてその子を抱き上げた。
家々を渡り歩き、魚を売る男たちの気持ちの良い声が響く。快活な女たちは、近所同士で寄り集まり、けらけらと楽しそうに笑っている。
葵は、そんな人々を、籠の中から愛しげに見つめた。この国の人々を守れるのだ。そう思うだけで、葵は胸が軽くなるのを感じた。
「御召し物が予定より早く決まりましたので、今日は早めにお帰りになれますよ」
駕籠の外からお梅の声が聞こえる。
「…本当?」
その声に相槌を打ちながら、葵はまた外の景色に視線を向ける。
「お梅…私がこの地を去ろうとも、この風景は何一つ変わりはしないのでしょうね」
その事実が嬉しくもあり、また悲しくもあった。
「姫様――」
お梅の悲痛な声に、葵ははっとした。
「ごめんなさい。納得しているはずなの。それなのに、どうしても気持ちが晴れなくて。でも、こんなことではいけないわよね」
お梅は、俯き、唇を強く噛み締めた。