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十六、軍備

 暫くの間、無言で時の流れを忘れていた二人であったが、突然はっと息を飲んだ葵は、そっと義久の腕を離れた。

 そして、強く微笑む。


「そうと決まれば、こうしてはいられません」


 義久は急に何を言い出すのかと、呆気にとられている。その様子を察し、葵は自らの考えを伝えた。


「私も、戦の準備を手伝わせていただきたく存じます」

「……何?」


 まったく、次から次へと突拍子もないことを言い出すものだ。そう呆れているはずなのに、葵の強い光を放つ瞳から、目を離せない。


「軍備は重臣らが既に済ませてある。何故正室であるお前が戦の準備など…」


 あくまで正論を貫こうとするも、葵は一向に引き下がらない。


「でしたら、何か士気の高まることを致したく」


 義久としては、あまり葵に負担をかけたくはなかった。

 戦を起こすというだけで、あれほど取り乱していたのだ。気丈に微笑んではいるが、故郷を狙われていると知った今、彼女の心労はこれまでの比ではないだろう。

 なんとか思い止まらせようと策を探し思考を巡らせる。しかし肝心の策は全く思い浮かばない。

 そもそも、この状態になってしまった葵を止める術は恐らく存在しない。優しく物腰の柔らかい印象が先行しがちな彼女であるが、人一倍頑固なところがあることを、義久は知っていた。

 一度こうと決めれば、納得できる理由がない限り、彼女は絶対に折れないのだ。

 結局、許可を出すより他はない。


「…やってみろ」


 義久はため息をついた。

 そのため息が気にかかったものの、葵は少しでも自分を認めてもらえたようで、素直に嬉しかった。

 少しでもこの城の役に立ちたい。この方の妻として、できることを少しずつ。その思いが、葵の声に明るさを灯した。


「はい、精一杯のことをやらせていただきます」

「…あぁ、だが」

「…まだ何か?」


 出鼻をくじかれ、葵は少々不満げだ。

 しかし、さっと視線を逸らした義久の一言に、葵の表情は再び柔らかく綻び、頬に赤みが差した。


「…あまり無茶はするなよ」


 義久は、さっと衣を翻し、そのまま脇目も振らずに退室していった。



――――……



 二刻後、葵は炊事場へと出向いていた。


「あの!兵糧の準備を手伝わせていただきたく存じます。どうか、私にも知恵を出させてください」


 迷惑なのではなかろうかと、僅かに不安を覚えるが、お梅仕込みの炊事に関しては、自信を持ってもいいのだと自らを奮い立たせる。

 士気の上がるような兵糧を作る。それが、恐らく今自分にできる唯一のこと。

 兵糧は基本、兵が各自持参するのだが、数日ののちには兵粮奉行が小荷駄隊を率いて領内から輸送するので、きっと城内の炊事場は人手が足りていないに違いないと考えたのだ。

 なるべく沢山準備をしておかなければ、戦場の兵にとっては文字通り死活問題となる。

 大量の食糧が必要なのは勿論だが、質も捨て置けない。美味なるものを食せば、人は前向きになれるものだ。士気もきっと上がるだろう。


 この城の女中の優秀さは理解している。きちんと計画済みなのも分かっていた。しかし、炊事場の女中はほとんどが年配者だとも聞いていた。

 この城の鍛練場に通っていた頃、兵達と交流を深めていた葵は、戦中の飯が単調な上にお世辞にも美味いとは言い難いと聞いていた。

 若輩者の自分だからこそできる、何かがあるのではないかと葵は考えたのだ。


「奥方様……!?」


 予想していた通り、女中達は皆驚いている。しかし、拒んでいるようには見えなかった。


「義久様よりお許しはいただいて参りましたので」


 それを聞くと、女中達は目を輝かせて問い掛ける。


「それでは、お二方は仲直りなされたのですね!?」


 まさか、こんなに沢山の人々に心配されていたとは、思ってもみなかった葵は、嬉しさ半分恥ずかしさ半分で泣き出しそうだった。


「はい、先程。私の至らなさの為に、御心配をおかけしました。…恐らく、これから先も、このようなことは度々あるかと思われるのですが――」

「奥方様。分かっておりますよ」

「その通りでございます。何せ相手は、あの殿にございますから」


 周りを見ると、皆その通りだと頷きあっている。

 その様子が可笑しくて、炊事場は一時楽しげな笑い声に包まれた。


 漸く笑いの波がおさまると、最年長とおぼしき女中が、すっと進み出てきた。


「奥方様がそこまでおっしゃるのなら、私どもも止める理由はございません。それに今は、人手がいくらあっても足りません。手伝って下さると言うのなら喜んでお手をお借り致します」

「あ、ありがとうございます!」


 これで、微力ながらも皆様の、義久様のお役に立てる。

 そう思うと葵は喜びを隠せなかった。


「それでは、早速なのですが…梅漬けはございますか?」


 女中は、一瞬不思議そうに目を瞬いたものの、すぐに頷く。


「はい。東雲城には毎年沢山の実をつける梅の木がいつの間にやら植わっておりましたので、今では梅漬けは常に炊事場にございます」


 そう言って、部屋の隅にある大きな壺を手で示した。


「あちらに」


 葵が壺の蓋を開けてみると、なんとも言えない良い香りが辺りに広がった。

 葵はその梅漬けを数個取ると、また壺に蓋をした。


「今からこの梅漬けをすり潰したいと思うのですけれど、何かすり鉢のようなものをお貸しいただけますか?それからお米も」

「こちらにございます」


 女中からすり鉢を受け取ると、葵は梅漬けをすり潰し、そして、それを米に混ぜ混んでしまった。

 綺麗な紅色に染まった米を葵は丁寧に握っていく。

 この握り方も、何度お梅から注意を受けたことか。懐かしい思い出に浸りながらも、葵は見た目も美味しい握り飯を完成させた。

 葵の作った握り飯の、あまりの奇抜な色に、女中達は唖然とする。


「…ありふれたものではあるのですが、戦場ではこのような見た目の綺麗なものを食べて、少しでも元気をつけていただきたいと思いまして…」


 葵は女中達の視線が気になり、ついつい伏せ目がちになってしまう。

 そのとき、一人の女中が口を開いた。


「…奥方様、私どもにもその握り飯の作り方、詳しくお教え下さいませんか?私どもも、皆様の力になりとうございます」


 葵はぱっと顔を上げる。すると、他の女中が梅漬けの壷を運んできた。


「さぁ、奥方様、時間が惜しうございますよ」


 葵は、花のような笑顔で頷いた。


 それから一日、葵は炊事場にて、女中達に多様な料理を伝えていた。

 長年炊事場を任されていた女中達もこれには舌を巻き、この若き奥方に指導を行っていたお梅という女中は、如何様なる人物であったのかと大いに思いを巡らせることになる。


「奥方様、戦は戦場の兵のみが戦うものだと思っておりました」

「私どもも、立場は違えど共に戦うことが出来るのですね」


 そんな女中の姿が、今にも泣き出したい自分の心と重なる。

 ここにいる者たちの夫も、きっとこの戦に駆り出されるのだ。慕っている方の力になりたいという願いは、きっとどの奥方も変わらない。


 葵は今頃、軍評定(いくさひょうじょう)にて策を練っているであろうこの城の主に、静かに想いを馳せた。



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