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十四、助言

 霜田秀之は、自室の障子を開け放ち、昼過ぎの強い日差しに包まれた外の様子を、見るともなしに眺めた。

 天に輝く太陽とは裏腹に、広い城内には談笑一つ響かず、もくもくと作業の進められる音だけが微かに伝わってくる。

 その雰囲気はいつになく陰鬱に感じられたが、思えば二月程前までは、これが日常だったのだ。

 当主は不機嫌で、無表情。

 何人たりとも側に置かず、誰もが遠巻きに彼の怒りに触れることを恐れながら生活をする、そんな世界。

 秀之は、主を恐れはしなかったが、当の主はきっと、自らの懐刀すら心から信用していたわけではなかった。

 結局、本当の意味で隣立つことはできなかったのだ。


 そして今、秀之に届かなかったその傍らには、背中を預けるにはあまりに幼い少女が佇んでいる。

 自らが進めたことなのに、それを悔しく思うことも一度や二度ではなかった。


 見返りを求めて仕えてきたわけではない。

 きっかけは、先代に側付きを任じられたこと。

 そして、幼い彼はあまりに哀れだった。

 少なくとも、当時恐ろしく冷めた青年であった自らを同情させる程度には。

 十年以上もの間、その哀れな少年を、彼は自らの弟か、ともすれば息子のように想った。

 どうすれば、その心の奥底に沈んだ闇を、掬い出すことができるのだろう。

 戦か、酒か、女か。

 しかしそのどれもに、彼の主は関心を示さなかった。

 もう諦めようとも思った。

 諦めて、主とともに闇の中を突き進み、結果として天下を取るのも悪くはない。


 幼かった少年は、日に日に成長した。

 そして十六も過ぎれば、武力も知性も、先代を遥かに凌ぐ城主となった。

 このまま、その力を振るい闇の中へと突き進んでいくのだろう。

 そう、彼は静かに絶望した。

 一人の少女と、その側に付き従う一人の侍女を思い出しながら。


 しかし、いくらときが経とうとも、彼が自棄になることはなかった。

 秀之は、そのとき、ようやく気づいたのだ。

 凶暴な性質であちこちを攻め滅ぼしているように見せかけ、主は結果として、周辺諸国、そして自国の内紛が、最小の犠牲の上に収束される方策を、常に模索していたのだと。

 気づいてみれば、脱力してしまった。

 何故、教えてくださらなかったのだろう。

 たった一人でそこまでの偉業をほとんど成し遂げてしまった青年に舌を巻きながら、兄として、彼を恨んだ。


 だから、あの婚儀は言うならば、そんな主へのささやかな仕返しであったのかもしれない。

 平和な世の先に、かの少女を娶りたいという主の意向を、真っ向から斬り伏せてしまったわけだ。

 しかし、恐らく平和な世となっても、主はあの清い少女を娶ることを躊躇っただろう。

 それならば結局、時期を先延ばしにしているだけではないか。

 そして秀之は、独断で笹野との取引を秘密裏に再開した。


 その判断は誤りではなかった。

 初めはどうなることかと思ったが、無鉄砲とも言えるほどの実直さで彼女は主へ向き合う決意をなされた。

 そして今、かの方もそんな彼女に報いたいと願われている。

 鬼の居城と言われたこの城にも、ようやく暖かな風が吹くようになったのだ。


 今、城内を見渡し、秀之は確信する。

 かの少女の存在はいつの間にか、城の雰囲気すら変えてしまっていたのだと。

 身分にかかわらず、兵や女中にまで明るく笑いかけ、穏やかに話す少女は、いつしか皆の希望となっていた。

 そしてそれは、秀之とて、例外ではなかった。

 女子の身でありながら刀を振るう覚悟を固められた彼女の目は、生涯きっと忘れまい。

 鬼の懐刀として、お止めするべきだと分かっていながら、結局その御意志に背くことなどできなかった。

 この少女はきっと、凍りついたあのお方の心をとかしていくに違いない。

 まるで、暖かな春の訪れを告げる、桜のように。



――――……



 葵が部屋から出て来ない。朝、お鶴を筆頭として炊事場の女たちまでもが秀之にそう訴えた。

 この分だと、お二人の間に何かがあったのだと知らぬ者は、池の鯉くらいのものだろう。


「殿、入りますよ」

 

 そう言って、秀之はさらりと入室し、義久の方へ大股で歩いていく。そして、その正面へ回り込み、どさっと腰を下ろした。


「…何の用だ?」


 ここ最近見なかった空虚な瞳に、秀之は背筋を嫌な汗が伝うのを感じたが、強いて飄々と微笑んだ。


「殿、今は、義久様とお呼びしても?」


 当時の当主、つまり義久の父が没すと、秀之はこれまでの呼び方を改め、自ら「殿」と呼びだした。

 抜け殻のようだった義久に、せめて城主としての矜持だけでも与えたいという思いだったのだが、今となってはそれが正しい判断だったのか解らない。

 当時まだ幼子だった殿をもう少し甘やかすべきだったのではないだろうか。

 今更呼び名を戻すことはできないが、せめて今だけは、その名を呼びたいと思った。たった一人の可愛い弟分の名を。


「構わん。そもそも、俺はお前に呼び方を命じた覚えなどない」

「ありがとうございます」


 秀之は当初、全て当人達に任せようと考えていた。

 どれほど遠回りしようとも、結果として絆が深まるならそれも良い。それはきっと、二人の将来の糧となる。

 しかし、場合が場合だ。

 戦とはいつ何時も死と隣り合わせの世界。

 ほんの些細なすれ違いが、取り返しのつかない後悔を生んでしまうこともある。

 大切な主君の後悔する姿も、あの少女の悲しむ姿も見たくはない。

 主の無事は勿論信じて疑わない。少女が怪我を負うことなど、考えたくもない。それでも、戦前にわだかまりを抱いてほしくはなかった

 秀之は単刀直入に切り込んだ。


「義久様、何故奥方様に此度の戦の理由をお話しにならなかったのですか?」


 それに対し、義久は極めて冷静に返答する。


「話す必要がどこにある」

「…奥方様は貴方様のことを本当に心配なさってました」

「それがどうした」


 義久の表情はぴくりとも動かない。やはり、この方は何を言っても動じない、信じない。

 かくなる上は、と秀之は静かに義久を見据えた。


「奥方様は、もし戦を止めることがかなわなければ、御自分も出陣なさるおつもりです」


 しん、と広く殺風景な部屋が静まる。義久は、ほとんど無意識に「何…?」と呟いた。

 女子が、それも一国の当主の御正室様が戦に出るなど、正気の沙汰ではない。

 しかし、これは事実だ。


「これは嘘ではありません。奥方様は毎日鍛練場にて鍛練に励んでおられました」


 義久は、茫然としながら「女子が…戦に…」と口の中で繰り返し、理解の追い付かない頭に何とか刷り込もうとしている。

 そこに、秀之は畳み掛けた。


「…義久様、貴方様は御自分で思われているほど孤独ではありません。貴方様は私にとっては愛する主君であり、奥方様にとっては愛する夫なのです。貴方様は、確かに、愛されています」


 その瞬間、義久は恐らく生まれて初めて、この従者の顔を真正面から見つめた。


「義久様は…どうなのですか?」


――どうか、私を、お側にいさせてください。


 少女の言葉が思い出される。

 これまで、あれほどまでに突き放し、傷つけ、それでも傍に居てくれた者などいただろうか。

 苦労など、何も知らなかったに違いない。

 それなのに、この異国の地で、何を言われようと、どんな態度を取られようと、変わらず笑いかけ、変わらず側にいてくれた。

 この縁談は、感情の伴わない政略結婚だったはずなのに。

 何故、こんなにも胸が熱いのだろう。

 義久は、自身の胸元をそっと抑えた。

 そして、自らに問う。

 その気持ちは誰に向いたものなのかと。

 きっと、とっくに答えは出ていた。

 五年前からずっと。

 しかし、こんな気持ちを抱いたところで、一体何になるというのか。

 この血も涙もない、感情の欠落した人形の様な――卑怯で弱い自分など。


「…また、そうやってお逃げになるのですか」


 義久の心を見透かしたかのように、秀之が問う。


「奥方様がこれまで義久様にしてこられたことをよく思い返してみてください。貴方様はもう、独りではないのです」


 言いながら、秀之は心の内でそっと付け加えた。

 これまでも深い深い闇の中、貴方は決して独りではなかった。独りにはさせなかった。

 けれど、闇で振るわれる懐刀では、暗闇を照らすことはかなわなかった。

 しかし、かの少女は違う。彼女は、主の道を明るく照らすことができる。


「いい加減、腹を括りなさい」


 いつにない厳しい声音に、義久はさっと秀之を見る。その目は、しっかりと義久を見つめ、まるで全てを見透かしているかのようだった。


 義久は、目を閉じる。

 彼女の気持ちは分からない。何故、厭わしいはずの夫に構おうとするのか。

 しかし、それと同時に、自分の気持ちも分からないのだ。

 何故あれほどまでに彼女を手元へ呼び寄せたかったのか。

 何故、呼び寄せてから後、これほど戸惑い、これほど苛立ってしまうのか。

 自分の気持ちすら、把握できない。それならば、気持ちなんて、そんな不確かなものを恐れる必要は、きっとない。

 逃げ続けた人生だった。

 父親の女たちから。間者から。胸の奥に広がる闇から。そして、愛しいはずの少女から。


 庭を一陣の風が吹き渡った。

 風は、地に落ちた桜の花びらを舞い上げて、まるで、冷たい雪を溶かしているかのようだった。


 

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