十三、懇願
葵が秀之に教えを請い始めて十日程たった頃。
今日も女子には少々厳しい鍛練を終えた葵は、汗を流そうと城を抜け出し、近くの川へと向かっていた。
既に太陽は沈み、辺りは闇に覆われ始めている。
「少し…急ぎましょうか…」
葵は速足で、山道を歩いて行った。
東雲城から近場の川まではそれほど遠くはない。しかし、葵が川に着いた頃には、辺りは完全に闇に飲み込まれていた。
火照った体を水に浸すと、きんとした冷たさが何とも心地よい。
汗を流しながら頭上を見上げてみると、銀色の月が濃紺の夜空に浮かんでいた。
「なんて綺麗なのでしょう…」
春特有の甘い空気越しに見る月は、ため息が出るほど美しかった。
そうしている間にも体が、清らかな川の水に冷やされていく。
時間を忘れ、随分長い間川の中でくつろいでいた。
そのとき、葵の耳に僅かな音が聞こえてきた。
……ザッ…ザッ…ザッ…
それは、確かに足音。
急いで隠れられる場所を探すが、生憎手頃な岩場などはなかった。
「着物だけでも纏わなければ…」
焦った葵は冷静な判断力を失っていた。
着物を取るために、川から上がろうとしたその瞬間。
「誰だ」
冷たい声が響き渡った。
体が、否が応でも強張る。
刀は着物の傍に置いてきてしまった。その上、今の声は間違いなく男の声だ。更に、辺りは既に真っ暗闇になっている。
どう考えても、勝てる気がしない。
それでも、戦う前から諦めるわけにはいかなかった。
葵の腕に力がこもる。
背後を振り返り、相手の顔を睨みつけた。
ちょうど月が雲に覆われていて、相手の顔は良く見えない。
それは、相手も同じな様で、ゆっくりと向こう側から近づいて来る。
そのとき、雲が晴れた。
「……よ、義久様…?」
そこに現れたのは、この十日間、最も会いたくて、会うのが恐ろしかった人。
銀色の月は、若き二人を神秘的に照らし続けた。
白銀の世界で、義久は口を閉じることもできずに静止している。同様に、葵もまた混乱していた。
何故、一国の主ともあろうお方がこのような辺鄙な川辺に、それもこんな夜更けにいらっしゃるのか。危険ではないか。
そんな考えが、頭の中をぐるぐると巡る。
そしてついに、それらが彼女の口をついて出た。
「義久様!何故このような所におられるのですか!危のうございます!」
もし、敵国の間者が現れでもしたら。そう考えると、葵は気が気でなかった。
とにかく、早く城へお帰り願わなければ、と義久の手を掴むために一歩前進する。
すると、何故か義久は一歩下がる。
また一歩近づいても、その差は縮まることがない。
葵が不思議そうに義久を見つめていると、義久は言いづらそうに口を開いた。
「お前は…何という格好で…」
一瞬何のことを言っているのかわからなかったが、すぐに自分の今の状態を思い出す。
「あ…申し訳ございません。今、着物を取ろうとしていたところだったのです」
葵の反応はその程度のものだった。
まだ下半身は水に浸かっているので、見られたと言っても上半身だけだ。
更にその上半身も長く豊かな髪が張り付いて、殆ど隠れてしまっている。
それに何より、共寝をすることがなくとも夫婦なのだから、そこまで騒ぎ立てるほどのことではないはずだ。
葵が呑気にそんなことを考えていると、「…そこにいろ。着物を持ってくる」と、義久は足早にその場を立ち去ってしまった。
「不快な思いをさせてしまったのでしょうか…」
葵は自身の姿を一瞥してから、遠ざかる夫の背を寂しげに見送っていた。
――――……
簡単に着物を着付け、葵はまた義久に向き直った。
そして、その口を開こうとしたのだが、義久の視線は、今だに地に落ちていた。
葵が手早く着付けている間、義久はずっと視線を落としていた。その表情があまりに鋭い冷気をたたえていたため、ときに向こう見ずなところのある葵でさえ、口を開くことができなかったのだ。
それが、着付けを終えた今でも、彼は目を合わせようとはしない。
考えてみれば、唯一の妻であるのにもかかわらず、役目である床に一度も呼ばれていないのだ。見たくもないものを見せられれば、怒りを買ってしまっても仕方がない。
ずきりと痛む胸を押さえながら、反省した葵は、寂しげな声音で謝罪の言葉を述べた。
「義久様、ご迷惑をおかけしまして、申し訳ございません。しかしながら何故このような所に…?」
「ただ、月を見に来ただけだ。…他意はなかった」
「そんな、気にしないでくださいませ。ただの事故にございます」
ただの事故。精一杯の強がりで、葵は微笑む。
しかし、義久の瞳は、更に冷えていく。
青白く光るその目に、葵はたじろがずにはいられなかった。
「…そうか。そう言えば、お前は知りたがっていたな」
予想していたよりずっと低い声で、思いもよらぬ言葉をかけられ、葵の唇は震える。
「な、何を…」
「戦の日取りを教えてやる」
「……え…?」
「五日後だ」
何故、急に、そんなことを。それが、初めて頭に浮かんだ言葉だった。それから、その言葉が頭の中で丁寧に咀嚼されていく。五日後。五日後とは。
それは、葵にとって、あまりにも急過ぎた。
男として戦場へ付いていく覚悟はできている。しかし本当に、この戦を止めることはできないのだろうか。
止めなくてもいいのだろうか。
五日。その差し迫った日限が、葵の頭から冷静さを奪っていく。
「義久様」
「何だ」
「どうしても、戦は避けられぬのでしょうか…?」
義久は呆れたようにため息をつく。
「前にも言ったはずだ。止めるつもりはない」
「何故でございますか。どうかお教えください。戦いより他の道を、私にも探させてください」
「…ならぬ」
「義久様、戦とは無益なものでございます。得られるものなどたかが知れておりますが…戦がどれだけかけがえのないものを奪っていくか…」
「…わかっている」
「それならば…!」
「だが、負けるわけにはいかぬのだ」
葵は、せり上がってくる涙を堪えた。
結局、このお方にとって、自分は、名ばかりの妻であったのかもしれない。こんな大事でさえ伝えてもらえない自分自身が情けなかった。
「…例え、何を得ようとも、虚しいだけにございます…」
「………」
葵は、両手で顔を押さえた。嗚咽に、声が次第に飲まれていく。
「義久様、どうか…」
「…もしそれ以上言えば、お前の国を落とす」
葵は、驚愕に目を見開いた。
「出過ぎた真似をするな。お前はただこちらに引き渡されただけの…人質に過ぎぬのだ」
そう呟き、義久は葵に背を向け歩き出した。
追いたい。しかし、足が震えて一歩が踏み出せない。
今、あのお方は、何と仰ったのだろう。
国を落とす。人質。
鼓膜にこびりつきでもしたかのように、この二つの言葉がずっと低く鳴り響いている。
胸がじくじくと痛み出した。時期にその痛みは、張り裂けんばかりの悲しみとなり、葵の瞳から更なる涙を溢れさせる。
最初は、そのつもりでこの地に嫁いできたはずだった。
それなのに、いつからか、彼に本当に愛されたいと思うようになってしまった。
愛を望んではならなかったのだろうか。これほど多くのものを与えられながら、それでも、彼の愛が欲しいというのは、強欲だったのだろうか。
夫婦として想い合うのは不可能でも、生涯の友として生きていくことはできるかもしれないと、そう思ったのは、とんでもない自惚れだったのか。
とうとう葵は、その場に崩れ落ちた。河原の石が足に触れているはずなのに、痛みも冷たさも感じない。
闇に飲まれる義久の背は、霞んで、まるで、消えていくかのようだった。