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十一、鍛練

 二人の関係は、それから、緩やかに続くようになった。

 廊下で行き会えば、微笑みながら深く頭を下げる葵に、義久の方から言葉をかけることすらあった。

 葵の方からも、数日に一度は茶を点て、部屋を訪ねている。二人の間に会話はほとんどなかったが、それでも二人は、互いの存在を確かめ合うように寄り添いあった。


 葵はまた、お鶴を伴い城内を巡るようになった。

 初めは、庭に降りてあの桜の木に触れてみたいというほんの出来心だったのだが、いつの間にやら厩や炊事場、鍛錬場などにまで顔を出すようになってしまった。

 最初は、お鶴も渋い顔をしていた。特に、むくつけき男たちが集まる鍛錬場を、事もあろうに奥方様の目に入れることには、並々ならぬ抵抗があった。

 しかしながら、様々な人と談笑し、楽しげに微笑む少女を見ていると、こんなことで喜んでくださるならという気になってしまう。

 奥方様にはすっかり甘くなってしまったと、お鶴はため息をついた。



――――……



 そうして、いつものように城内を歩きながら、葵は微かな違和感を感じていた。最近、この東雲城の雰囲気が以前より慌ただしくなってきている。

 兵の鍛練には、平素以上に熱が入っているように思われるし、家臣達が城中を駆け回る音がどこにいても聞こえてくる。

 そして何より、ここ数日ほど、城主が部屋にほとんど戻っていない。葵がいつものように部屋を訪ねても、そこは常にもぬけの殻だった。

 邪魔をしては悪いとは思いながらも、兵や家臣を捕まえ、何かあるのかと尋ねてはみた。しかし、皆一様に視線を泳がせ、緊急の用を思い出したと走り去ってしまう。

 お鶴でさえ、「確かなことは私にも分かりませぬ故」と口ごもり、それ以降はいくら尋ねても口を開こうとはしなかった。


 そんなふうに周囲は固く口を閉ざしたが、葵には、これから何が起ころうとしているのか、容易に想像できてしまう。

 まだ生家にいた頃、戦が起こる前にはいつも、城中がこのようにひっそりとざわめいていた。

 葵は眉をひそめる。

 小国であった故郷は、見も知らぬ輩に責められることが度々あった。それ故に父と兄は、自国を守るため戦わざるを得なかったのだ。

 しかし、この悪名高い大国を相手に、一体どこの命知らずがわざわざ戦を仕掛けようというのか。

 恨みつらみは、買っているのかもしれない。その恨みを晴らすため、命を捨てて立ち向かおうとしている者がいるのかもしれない。大きな危うい賭けに出てまで、天下を欲している者がいてもおかしくはない。

 それならば、彼は、一国の主として、それに立ち向かわなければならない。


 葵は、側に控えていたお鶴に向き直った。


「お鶴、義久様は、今どちらにおられるのですか?」


 これまで一度も向けられたことのない真剣な瞳に、お鶴はたじろぐ。


「確かなことは…」


 そう言って視線を逸らそうとする彼女の手を取り、葵は懇願した。


「私は義久様の妻でございます。この国に危険が迫っているのなら、私にもできることがあるかもしれないではありませぬか。どうか、お願い、お鶴」


 しかしなお、彼女は口を開こうとはしなかった。頑なに俯くお鶴。

 そこに、場違いなほど呑気な声が降ってきた。


「殿なら、今ようやく自室へ戻られましたよ」


 葵は、はっと顔を上げると、欄干にもたれる秀之を見た。彼は、にこりと笑い、「お履物はこちらに脱ぎ捨てていただいて大丈夫ですよ」と示す。


「お鶴、ごめんなさい」


 そう言い残し、葵はすぐに履物を脱ぎ、欄干を飛び越え廊下を走って行った。


「奥方様!」


 茫然とその後ろ姿を見送ってしまったお鶴は、はっと我に帰ると、腹の読めない智将をきっと睨む。


「奥方様に真実を秘すことは殿の御意志でございましょう。お優しいあの方をまた傷つけるおつもりですか」


 涙を滲ませ、悔しげに睨みつけるお鶴に、秀之は冷たい視線を返した。


「そうして殿は、全てをお一人で背負いこまれるのです」


 お鶴は、はっと息を飲んだ。そう、彼女の殿は幼い頃から、そうして全てを自分の内に抱え込んできた。

 秀之は、俯くお鶴に、悲しげに微笑んだ。


「すみません。私は、殿のことばかりなのです。千手先を読む智将だなんて、見当違いも甚だしい。私はただ、殿にとっての最良を選びとってきただけだ。しかし、お鶴」


 呼びかけられて、お鶴は涙に濡れた目を上げた。


「私もまた、貴女と同じように奥方様を好ましく思っているのです。しかしそれ以上に、私は奥方様の心根の強さに気づいている」


 秀之は、初夏の風の混じった爽やかな空気のもとで、晴れ晴れと笑った。


「奥方様を信じましょう。そして、有事の際には我々が、お支え申すのです」



――――……



 既に葵は当主の部屋の襖を無断で開けることに、何の躊躇いも覚えなくなっていた。

 そっと障子を開け、するりと体を滑り込ませる。

 義久はいつもの通り、窓辺の机に向かい、忙しく筆を動かしていた。

 最近は、葵が入室すると、筆を置き、振り向いてくれるようになっていた。しかし今彼は、背後に葵の気配を感じても、姿勢一つ崩そうとはしない。

 それでも葵は、静かに彼の元まで歩み寄ると、その側にそっと座った。


「義久様。どうか、此度の戦について、詳しくお聞かせください」


 その一言を聞くと、義久は筆を置き、葵に向き直る。

 聡明な妻が自分の元に来ることを予め予想していた義久は、用意していた台詞をはっきりと言い放った。


「それは出来ない」

「何故でございますか」

「戦の理由を女子のお前が聞くのは門違いだ。戦を止めるつもりもない」

「しかしながら…」

「まだ言うか」


 義久の表情が一際険しくなった。

 葵は、滲んでくる涙を抑えるために、俯く。


「……戦は、何時…」

「言わぬ」


 彼の表情は、出会ったときかそれ以上に硬質で、葵は、その仮面の裏の真実を読み取ることは不可能であると悟った。

 何故、戦の理由を隠すのか。後ろ暗いところがあるのか。自国の利のため、欲のために、彼は戦を起こすのだろうか。

 そんな考えを、葵は必死で振り払う。

 彼は、そんな人間ではない。そんな領主ではないはずだ。しかし、本当にそう断言してしまえるのだろうか。

 葵は、今になって気づく。彼自身のことを、ほとんど何も知らないのだということに。

 これまでこの城で、彼はどのように過ごしてきたのか。どうしてあれほど多くの戦を起こしてきたのか。

 葵は、何も知らなかった。


「…分かりました。失礼致しました」


 それでも葵は、冷たい彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。



――――……



 葵は、凛と背を伸ばして廊下を渡っていた。

 そこには、先ほどまでのように取り乱した様子は一切見られない。彼女の心は湖面のように凪いでいた。


 確かに、自らの夫のことは、何も知らない。何も聞いてこなかったのだから。生家で囁かれていた噂の他には何も。

 しかし、それが何だというのだろう。

 彼の過去は知らなくとも、彼の今を知っているではないか。

 彼女の目に、強い光が宿った。

 かの人は、徒らに民の命を奪うような方ではない。そんな冷酷な方ではなかった。今は凍えて固まってしまってはいるけれど、冷たい雪の下には、暖かな心根が眠っている。


 それならば、自らもまた、彼の妻として、この国のために戦わなければならない。

 女が、それも城主の正室が戦場にて刀を奮うなどありえない。そんなことは分かっていた。

 しかし、これこそが、生家で父兄に厳しく稽古をつけてもらった理由なのではないか。そう思えてならなかった。


 そう、幸か不幸か、葵の家は立派な武家だった。

 戦を好まぬ国であったとはいえ、力がなければ潰される、そんな世で、葵は幼少の頃より、才有る兄や当主の父に、かなり厳しく稽古をつけてもらっていた。

 父は、嫁入り前の娘が傷物になればと困ると言い、実際に彼女を戦へ出しはしなかった。しかし、彼女はもう嫁に出たのだから、顔を隠し、体を隠せば不都合は何もないはずだ。


 気がかりなのは、この地へ嫁いで来てからというもの、一度も愛刀を握っていないことくらいだ。

 このまま戦へ赴くわけにはいかない。何はともあれ感覚を取り戻さないことには、力量を誤り自滅してしまうだろう。自滅するだけならまだ良い。しかし、それで周囲を乱し足を引っ張ってしまっては元も子もない。


 問題は、誰に手合わせを頼むかということだ。まさか、当主に直接頼むわけにもいかない。

 腕が立ち、かつ理解のありそうな人物。

 その括りでいけば、葵にはその人しか思い当たる人物がいなかった。



――――……




 目的のその人、霜田秀之は予想通り鍛練場にて、手合わせをしている最中であった。

 しかし、それはあまりにも一方的で、子供に稽古をつけてやっている様にしか見えない。

 それくらい、彼の強さは圧倒的だった。

 葵は、背中が粟立つのを感じた。

 当主の背を任される副将なのだから、腕が立つことは予想していたはずなのに、想定外の力量、そして普段の彼からは想像できないほどの気迫に、葵は息を飲んだ。

 しかし、ここまで来て今更引くわけにもいかない。

 意を決して、葵は声をかけた。


「あの!霜田様、鍛練中に失礼致します」


 その声に反応し、秀之は穏やかに微笑みながら、葵のほうへ歩いてきた。


「奥方様ではありませんか。何故こんな所に?私に何かご用ですか?」

「私と、手合わせして頂けないでしょうか?」


 秀之は目をぱちくりさせて、もう一度聞き直した。


「私と奥方様がですか?それは、勿論、刀でということですよね?」

「はい。あの、他意はないのですが、少し、腕が鈍ってしまったかと思いまして…それで…」


 秀之は、この若き奥方が何を考えいるか、大方の予想を立てた。しかし、それをあえて口に出すようなことはしない。素知らぬ顔で会話を続ける。


「しかし、やはり刀を奮うのは危険ですし、せめて理由をお聞かせいただかなければ」


 葵は躊躇したが、この秀之にごまかしが通用するはずもないと思い、ありのままを話した。


「…わかりました。しかし、その理由は殿には話さぬほうがよろしいかと」


 あまりにあっけなく了承され、葵は拍子抜けしてしまう。


「それでは早速、お手並み拝見といきましょうか」


 そんな葵の心情を知ってか知らずか、秀之は心なしか楽しそうに葵の手を引いていった。

 何時かの彼女の言葉を思い返しながら。


――欲目かも知れませぬが、姫様は誠にお可愛らしい方にございますから。


「……欲目などではなく、貴女の育てた姫君は本当に素晴らしいお方に成長していますよ、梅」

「え…?」

「いいえ、何でも」

 どこか嬉しげな秀之の背を、葵は不思議そうに見つめた。



――――……



 着物の中に潜ませていた愛刀を取り出すと、秀之は目を見開いた。


「いつも持ち運んでいらっしゃるのですか?」

「こんな世でございますから。何が起こるかも分かりませぬ故」


 秀之は、弱国の姫君の背負う運命を思った。しかし、すぐにその思考は葵の真剣な声音に破られる。


「それでは、宜しくお願いいたします」


 秀之は、僅かに微笑むと、ゆったりと構えた。


「はい、どこからでもどうぞ」


 葵もまた、ゆっくりと刀を抜き、構える。


「いきます」


 そして彼女は真正面から突っ込んで行った。

 その負けん気の強さに、秀之は苦笑する。

 正面の刃を避け、左斜め下から切り上げようとした。しかし、キィ..ン...という鈍い音に、阻まれる。

 葵はそれを既のところで受け止めていた。

 そしてその刃先を退けると、また次の攻撃に出る。


「なんてお人だ…」


 秀之は無意識に呟くと、一気に葵の間合いに入り込む。

 葵はその速度に驚き、一瞬たじろいでしまった。

 しまった。

 そう思ったときには、もう、全てが決していた。

 葵の首もとに、ひやりとした刀の切っ先が突き付けられていた。


「ま、参りました…」


 その声を聞くと、秀之は刀身を鞘に収める。


「なかなかよかったですよ」


 すーっと刀が鞘を滑る音に、葵ははっと我に帰る。ほんの一瞬のうちに起こったあまりに信じがたい動きに、いつの間にか飲まれてしまっていたのだ。


「あ、ありがとうございました」


 秀之は柔らかく微笑み、手を振った。


「いえ、私もうかうかしていられませんね。それでは、戻りましょうか」


 そう言って背を向けた秀之に、葵は、意を決して呼びかける。


「あ、あの!今後も私に稽古をつけてくださいませんか!」


 秀之は意外そうに目を見開き、言った。


「勿論そのつもりですよ。こんなに筋の良い方を見るのは久しぶりです。時間の空いているときにでも、いらして下さい」


 そのとき葵は、まだ朧げであった意志を固めた。

 女子の身でありながら、戦うことを。


「はい!ありがとうございます!」


 何が起ころうとも、必ずあのお方を守れるように。



 

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