一、日常
「姫様ー!御返事下さいませー!!」
城中に響き渡る声を発しているのは、この城一と言ってもいい程の苦労人、お梅である。
このお梅、物心ついたころから片時たりとも心の安寧というものを味わったことがなかった。
主人に悪気のないことは、わかってはいるのだが、彼女はその無邪気さ故に、度々まるで幼子のようなことをしでかす。
「まったく、少し目を離すとすぐにどこかへ行ってしまわれる…」
いつものことながら、今回もまた、ため息をつかずにはいられなかった。
だが逆に、その経験を積んだお梅にしか、この役目は果たせない。この頃では、長年の勘により、主の行きそうな所も、おおよそ検討がつけられるようになってきた。
「御父上様の元か、御母上様の元、もしくは庭。さすがに勝手に城下へ降りてはいないでしょうし…あとは…」
呟きながら整理するにつれて、お梅の頭に、ふとある場所が浮かんだ。
「…きっとあちらにおられるに違いないわ」
場所を定めたお梅は、颯爽と廊下を歩いて行った。
――その頃
「平和でございますね。こんな日がずっと続けばいいのに」
自分付きの女中が捜し回っていることなど、露ほどにも知らず、問題のその人葵は、縁側にて兄の隣に佇み、この穏やかな春の日を存分に満喫していた。
「そうだな。葵は昔から戦が起こると、私や父上の裾に取り付いて、泣きじゃくっていたからな」
「一体何年前の話をしておられるのですか」
葵は、恥ずかしそうにはにかみながら、クスクスと笑った。
そんなふうに控えめに笑う葵の姿は、天真爛漫で活発だった幼姫から、随分変わってしまった様に思われる。
だがその生来の優しい気性は今なお失われずに備わっていた。それが、兄として何より誇らしい。
そんな事を考えていると、葵が「さて」と立ち上がった。
「私はそろそろ母上の元へ参ります」
葵はどんなに多忙を極めても、必ず日に一度は床に伏す母に会いに行っていた。
「そうだな。私も行こう」
政幸も返事をして立ち上がる。
するとちょうどそこに、乱れた息を整えながら、お梅が走り寄って来た。
「姫様!やはりこちらでしたか!」
必死で葵を捜していたであろうお梅を、葵は不思議そうに眺める。
「お梅、そんなに急いでどうしたの?」
「どうしたじゃございません!急にお姿を消されては我々も心配いたします、といつもあれほどお頼みしておりますのに!まったく、姫様はもう少しこの城の姫君としての自覚をお持ちになって――」
「お梅、落ち着いて」
お梅の言葉を遮りなだめるも、「政幸様は、姫様に甘すぎるのです!」と、はねつけられてしまった。
こうなってしまっては、もう聞く耳を持たないお梅に、正幸は苦笑する。
一方葵は、申し訳なさげにお梅を窺い見た。
「ごめんなさい。うっかりしていて…でも、どうして私を捜していたの?」
その殊勝気な問いに、お梅の憤りは一気にしぼんでしまった。結局、この主人には、いつもかなわないのだ。
お梅は、再びため息をつくと、困ったように微笑んだ。
「いえ、私も口うるさく申しすぎました。清政様より言伝がございまして。明日の朝一番に、政幸様と伴に部屋に来るように、とのことでございます」
「父上が…?」
明らかに怪訝そうな顔をした葵と政幸だったが、お梅は構わず続ける。
「それから、本日は午前中に、御召し物を買い付けに行かれる御予定でしたのに、もう午後になってしまっております」
葵は途端に、「しまった」という顔をした。
昨日までは確かに覚えていたのに、ついつい頭から飛んでしまっていた。
「ごめんなさい、お梅。でも、着物はもう十分足りているから、これ以上は必要ないわ。それより、これから母上の所に行くところだったの。お梅も一緒に行かない?」
たいして悪びれた様子のない葵に、お梅は困ったものだと、本日何度目かもしれないため息をつくものの、その柔らかな笑顔につられて思わず微笑んだ。
「本当に仕様のないお方ですね。勿論、私でよろしければ、お供させていただきます」
――――……
「母上、政幸です」
「葵でございます。お梅も連れて参りました」
襖越しに部屋の中へと声をかけると、弱々しくも優しい声が返ってきた。
「まぁ、皆で来てくれたの?嬉しいわ。入ってきて下さいな」
「失礼します」
政幸を筆頭に、葵、お梅と続いて入室する。
お梅はすぐに桶の水を換えに行き、残った二人は葉の枕元へと腰を据えた。
心配そうな表情を浮かべた葵が、母にいつもと変わらぬ質問を投げかける。
「母上、本日のお加減はいかがですか?」
「今日も大分いいわ。このままいけば、本当に治ってしまうかもしれないわね」
悪戯っぽく笑いながら答える母は、やはり特に変わった様子も見られず、兄妹は安心する。
葉の病状は、良いのか悪いのか今ひとつ判断がつかない。
それは、他でもない葉が、辛くとも決してそれを、表に出すことがないためである。
それからお梅が戻ると、各々様々なことについて話し始める。
これが、葵の日常だった。
「そしてですね、本日など姫様は――」
「まぁ、葵は本当に仕方がないわね。誰に似たのかしら」
「お言葉ですが、葵は母上と瓜二ツです」
おどけたように話す母とそれを至極真面目に返す兄の姿を見て、葵はついつい笑ってしまう。
「そういう貴方はあの人そっくりよ。将来が楽しみだわ」
「そうですか?」
「えぇ。戦が無いときのね。こんな日が永遠に続くような、そんな平和な世になってほしいわね」
そう言う母の双眼は優しさと不安に満ちており、それは家族の身を一番に案じる、紛う事なき母の瞳であった。
この穏やかな日常が少しでも長く続くことを願いながら、少女は庭先の舞い散る桜の花弁を寂しげに眺めていた。
――――……
「今、何と…?」
明くる日の早朝。
眉間にしわを寄せ、呟かれたその声は必要以上によく通った。
「『嫁に行け』と申したのだ」
昨日父より呼び出されたため、兄とともに朝一番に向かってみれば、開口一番にそう言われたのである。
葵は驚きのあまり目を見開き絶句してしまう。
そしてそれは、隣に座している政幸も同様だった。
水を打ったように静まり返る室内。
その静寂を破ったのは、葵の一言だった。
「理由を、お聞かせ願えますか?」
僅かな震えすらない、娘の気丈な声音に驚くも、清政は至って冷静に事の次第を語り始めた。
「我々の治めるこの国を守るためだ。これまで危うい均衡を保ってきた隣国との関係が崩れつつある」
そこで、政幸はまさかと思う。まさか、葵は、隣国へと嫁がなければならないのか。
「隣国、というと、斎藤殿ですか?」
「…そうだ。葵を斎藤家に嫁がせることで、永続的な和平を約束してくださる」
そこまで言い切り、清政は娘を正面から見据えた。
「そんな」
葵は消え入りそうな声で呟いた。
その声音は僅かに震え、普段にこやかな表情は、氷のように固まってしまっていた。
覚悟は、していたつもりだった。
領主の娘として、いつかはこうなる事はわかっていたはずなのだ。
兄の悲痛な表情が目に入るが、それすらもどこか人事になってしまう。
何も、考えられない。
「葵」
父の声でふと我に返る。
「……すまない」
葵は目を見張った。
あの厳しい父上が、頭を下げられている。
葵の見開かれた瞳から、涙がつたっては流れ落ちていく。
きっと、父上も、辛いのだ。
これまで、父は、ときに厳しく、そして誰より優しく、ここまで導き育ててくれた。
自分の娘一人と、この国に住む全ての民。
秤になどかけられないが、それでも父は、一国の領主なのだ。民の命を、犠牲にすることなどできない。
それならば、と葵は両手をきつく握る。
「父上、頭を御上げ下さい。――このお話、喜んで、お受け致します」
凜と言い放ち、涙に濡れた瞳でふわりと微笑んだ。
――――……
朱く温かな夕日に包まれながら、葵は部屋の障子を開け放ち、中庭で咲き誇る桜の散りゆく様を、見るともなしに眺めていた。
祝言は十日後。三日後には、この地を発つことになる。
自身が斎藤家に嫁ぐ事で、両国の間には半永久的な和平が約束されるのだ。
大切な民が、かの大国のために傷つくことは、今後一切無くなる。そして、斎藤家との同盟は他国を威圧し、無用な争いを防ぐ事にも繋がる。
そうすれば、母上の望む平和な世に一歩でも近づけるかもしれない。
そう、かの斎藤殿の元へ、嫁げば。
嫁ぐと言えば聞こえはいいが、詰まるところ、自分は斎藤家に人質として差し出されるのだ。
それでも、覚悟はできている。この国の平和のためならば、かの悪名高い斎藤殿の室に入ることなど、容易いはずだ。
この戦国乱世の世、よもや自らの望む方と素敵な恋をし、契りを結べる等とは、はなから考えていない。
どの国の姫も、皆一様に政の贄とされるのだから。一国の姫君として、自らの使命を全うしなければ。
葵の胸を、様々な不安がよぎる。しかし、決して恐れはしない。
病に苦しむ母を残して行くのも心残りではあるが、この城には父も兄もいるのだから。
大丈夫。そう、自分に言い聞かせる。
きっと、皆とは、これが今生の別れになるのだろう。それでも、なお、葵は、自身に大丈夫だと言い聞かせ続けた。
「案外、斎藤様が気の良い方かも知れませんし」
ぽつりと呟き、その呑気な考えに、自分のことながら笑ってしまう。
笑える余裕があるとは、と自嘲するが、徐々に葵は冷静さを取り戻してきた。
そして、吹っ切れた葵の思考は未知の生活への不安よりも、残された時間をどのように過ごすかということに向けられる。
なるべく悔いのない様に過ごそう。
残された時間は、少ない。