水の城
――水の城 ハイロリア 広場
ひやりと心地よい空気が、熱に焦がされた肌を冷やす。
噴水から噴き上がる水は慈雨のように降り注ぎ、跳ねた水滴がぼろ外套の裾を濡らした。
数十メートル四方の広場は水の鎖で囲まれ、まるで水の城のようだ。
その城の主は、ひとりの人ならざる女。
精霊のような女を遠巻きにしながら、ヴィヴィーは広場に集まる人間たちを観察している。
北の大門から戻って来た時、広場は透明な水で覆われていた。
半球状に広がる水は中の様子を一切映さず、また細い水の鎖が飾るように巻き付いている。
この亡国を覆う水の檻と、酷く似ている姿。
広場の前で立ち止まり、魔法使いの女は腕組みして考え込んだ。
ヴィヴィーは亡国を訪れた時、『火』を見たような気がしたのだ。
その時と同じようになるのかと思えば――二人の接近を知った水の城は、さぁとカーテンが分かれるように、水の壁を開いたのだった。
いち、に、さん、し…。
続々と水を分けてやってくる者たちを見、ヴィヴィーは密かに眉をひそめた。
――意外に多い。
騎士風の男、聖職者らしき一行、簡素な服の男、弓を携えた青年、そして三角帽子の女。
彼らは思い思いの場所に陣取り、一時の休息を味わっているようだった。
『鎖を全て解放して下さい』
――ようこそ、”水”を砕く者よ――
開口一番、水色の女はそう言った。
噴水の傍に立つ女は、細い杖を持ち、灰色の髪を風にそよがせている。
『わたしは水を鏡で映したような存在。わたしの使命はあなた方を導くことにあります。鎖を解放して下さい。さすれば、あなた方の目的は叶えられましょう』
女は微笑み、こう付け加えた。
『わたしのことは、水の守人とでもお呼び下さい』
千年前の姿を取り戻した広場は、四角い白石が並べられていたり、長椅子が置かれていたりと、休む場所に事欠かない。
端の方の縁石に腰掛けたヴィヴィーは、頬杖をついて噴水の水を眺めていた。
騎士風の男が守人と話し込んでいるのが見える。
ヴィヴィーと反対側の端には聖職者の一行が布を敷き、その上に鞄やら書物やらを広げている。時折ヴィヴィーの方に嫌そうな視線を送ってきて、あからさまな敵意にヴィヴィーは苦笑した。黒は魔法使いが好んで使う色で、ヴィヴィーの軽装からも魔法使いであることが分かるのだろう。状況が状況なだけに、喧嘩を売ってくるようなことはしないらしいが。
噴水の近くで気持ちよさそうに寝転がっているのは、まだ若い身軽そうな青年だ。ここからは顔はよく見えないが、気安そうな雰囲気を持っている。弓が得物らしく、質の良い黒檀の長弓を傍に置いている。
一番ヴィヴィーの近くに座る女を見た瞬間、ヴィヴィーはああ、と息を吐いた。女は三角帽子を被っている。服は飾りのない黒のワンピース。武器を持たず、小さな鞄だけを膝に乗せている。
――魔女だ。
一目見て、そう直感した。
痩せた顔はあどけなく無表情だが、思わず見惚れるほどに整っている。子供のように細い黒髪は肩を少し過ぎたくらいで、闇を凝縮したような目は大きくて愛らしい。
だがその身が纏う空気は、酷く異質だった。
深淵の水櫃に深く沈んだ者しか持てぬもの。
聖者のそれは神聖と評され、魔女のそれは異端と評される。
見る者の視線を力づくで奪い、魅了し、深淵に引きずり込む。その小さな若い魔女は、夜を体現したような姿で、寂しげに地面に座り込んでいた。
これまで生きてきた中で出会った二人目の魔女に、つかの間ヴィヴィーは思考に沈んだ。
そういえば、この亡国にも二人の魔女がいたはずだ。
廃王クレトスに仕えたという魔女と、それから数百年後、水の檻を壊そうと挑んだという魔女。
彼女らは何を思い、どうやってこのいにしえの地にて命を落としたのだろうか。
詮の無い考えに囚われかけた時、場違いに明るい声がヴィヴィーを現実に戻した。
「どうした、また元気の無い顔をしているぞ。丁度良いから、私の旅の話でも聞くか」
「いやいい」
半ば反射で断ったヴィヴィーは、やや傷付いたような顔で立つ男を見上げた。
「ヴィー殿は…少し私に厳しいような…」
「今頃気付いたの」
追いうちをかけるように言うと、ランスはこれは手強い、と苦笑する。その手に見慣れない白い剣を見つけ、ヴィヴィーは首を傾げた。
「なにそれ」
「ああ、鎖の守護者が落としたものだ。どうしようかと迷ったのだが…少し気になってな。調べることにしたのだ」
「ふーん」
流水を思わせる刃を見上げ、ヴィヴィーは目を瞬く。何かの本で見たような気がする。
『――アクリアルの王たちを常に助け、守ってきた剣。白き流水、ウンディーネ…。あなたが倒したのは、王の影です、紅鎧の戦士よ』
涼やかな声がし、ヴィヴィーは飛び上がった。いつの間にか守人が近くまで来ていたのだ。
「王の影?」
『ええ。王は既にウンディーネと共に在りません。彼はウンディーネを捨てました。あなたが鎖の間で会ったのは、かつて王だったもの。かつての王の、いわば残滓のようなものです』
守人の目は、何処か遠くを見つめるよう。彼女もまた、千年前の都で、王国の崩壊を目の当たりにしたのだろうか。
守人は心の内を頬笑みで隠し、ランスに向き直った。
『その剣はあなたのものです。といっても、あなたに扱えるかは分かりません。そして…これは、あなたには関係のないことでしょうが…今その剣には王の影の”水”が宿っています』
「”水”…?」
ランスとヴィヴィーは顔を見合わせ、同時に呟く。守人は頷き、剣を伝う灰色の光を指した。
『すべての生命には、例外なく”水”が宿ります。”水”は、いわば力です。王の”水”は…例えば、あなた。深淵へゆける者に預けた方が良いでしょう』
す、と手で示され、ヴィヴィーは目を細める。
「…それは、どういう意味で?」
『王の”水”には様々な性質が混じっているのですが…あなたが取り出せるのは、水、でしょう。それは大きな糧となるはず。魂の”水”を得た者は、それを自分のものとし――わざわざ深淵へ往かずとも、魔法を使うことが出来るのです。それも、強大な魔法が』
「…ふーん?」
薄茶の目に興味を輝かせ、魔法使いは眉を上げた。
『その業は、只人に使うことは出来ません。水の守人たるわたしの力添えがあって、初めて可能になります。…どうしますか?』
「どうするもなにも、使うに決まってるじゃない」
『よく考えてお決め下さい。魂の”水”を力にした者は、もう人とは呼べなくなるかもしれません――』
守人は微笑む。透明な目で。
白剣から光を杖に吸い取った守人に、ヴィヴィーは少し考えさせて欲しい、と返した。
今はただの白石となった剣を手に、ランスはヴィヴィーを心配げに見遣る。
やや重い空気を誤魔化すように、ヴィヴィーは剣を指差した。
「それ、水の刃ほいほい出してきたって言ってたけど…。もう出せないの?」
「いや、これは元々水の加護を持つ剣だから、影響はない。王の”水”は王の力なんだろう」
「そ。じゃ、これからそれ使うの?」
「それなんだが…私では、水の刃を出せぬようだ。やはり、持ち主でないとなぁ」
残念そうに剣を掲げてみせるランスに、今度は溌剌とした声がかけられた。
「わしが直してやろう。もちろん有料でな!」
声の主は、そう言うと豪快に笑った。
敷布の上にどっかり座り、トンカチ、砥石、薬草など様々なものに囲まれているのは、頭の禿げあがった爺だ。こんな奴いただろうか。
「直せるとは、じいさん、鍛冶屋なのか?」
「竜も裸足で逃げ出す鍛冶職人とは、わしのことよ。どれ、見せてみい。物々交換でその剣をお前さん用に改造してやろう」
「本当か?!」
「ああ。ついでに他の物も売っとるから、よろしく頼む」
「なにこんなとこで商売してるのよ…」
ヴィヴィーは半ば呆れかけるが、よくよく考えればこの地にて物々交換ほど強いものはない。価値の尺度である貨幣は役に立ちもしないのだ。一応ヴィヴィーも薬や食料類は持ってきているが、万全の態勢かと聞かれるとそうではない。白熱するランスたちの交渉を眺めつつ、後で私も加わろう、と密かに決める。
ぼろになった外套を捨て、ずれたモノクルを掛け直す。
清々しい空気を胸にため、大きく息を吐いた。ひらけた山の明るい空気にも、洞窟の冷ややかな空気にも似た清浄さが、この水の城には満ちている。
ふと自分の村を思い出す。深い森に隠された、変化の無い、だがそれだけ穏やかに暮らせる村。森から迷い込んでくる魔物が唯一の欠点だが、ヴィヴィーが師匠から学んだ罠を仕掛けたり、魔法を使ったりして平穏を守っていた。
――必ず、生きて、
よくヴィヴィーの世話を焼いていた男の言葉を胸に――魔法使いは、再び前を目指す。
”水”を私に。そう言い切った女の背を見つめ、戦士はつ、と目を伏せた。様々なものが入り混じった色が、青い目に見え隠れする。
水色の女が杖をかざすと、灰色の光は丸い光粒になり、魔法使いの周囲を踊るように囲んだ。
光粒はふわりと一瞬だけ滞空したかと思うと、次々に細い身体へと吸い込まれていく。
灰色の光の帯が流れる様は、酷く幻想的で、戦士の目には少し哀しく見えた。
だが黒衣の女は閉じていた目を開くと、「意外に普通の気分ね」と言う。
その変わらない姿に、男は嬉しげに苦笑いするのだった。
噴水近くで繰り広げられる光景に、騎士の男は訝しげに眉を寄せる。
水の守人が言うには、彼らがハイロリア解放の功労者らしい。あとで労うべきだと心に留める。
まだ少女といえる年齢の女は端正な顔を苛立たせ、紅い鎧の男を遠慮なく叩いている。なにか機嫌を悪くさせるようなことを言ったのだろうか。
空気は涼しく静かだが、人は騒がしい。聖職者は溜息をつき、噴水の方を見た。
やはりどの世でも魔法を使う者は野蛮なのだ。この亡国に来たのも、なにか企みがあるに違いない。
聖職者は長い金髪を結い直し、敬愛すべき主を仰ぎ見る。
美しい姿。聖者にふさわしき神聖さ。
世界を救うのは、この方のようでなければ。
うるさくなってきた噴水付近から避難し、狩人は再び昼寝の態勢をとった。
普通なら文句を言う所だが、明らかに関わるのが面倒そうな奴らだ。危うきに近寄らず。昔の人は良いことを言ったものです。
自分と同じ黒衣の魔法使い。その女が喧騒の中にいるのを見て、魔女は密やかに服を握り締めた。
魔法を使う者というだけで、勝手に親近感を抱いていた自分が恥ずかしい。何処まで行っても、自分は爪弾き者なのだ。
”水”に覆われた果ての無い空を見上げ、魔女はほろ苦い笑みを浮かべた。
ひとりで座る魔女の方を見、聖者は何も言わない。ただ読めない表情で佇むだけ。
対照的な二人の男女を見遣り、男は気付かれないように口の端を歪めた。
聖職者と聖者。初めは似合いの一対かと思えば、その内面は何処までもずれている。
だが男には関係ないことだ。自分はただ、任務を遂行するだけ。
それぞれの思惑に沈む人間たちを眺めながら、旅人は古い書物をめくった。
歴史とは、生き残ったものが語り継いでいくものだ。そして語り継がれなかったことは、もう残らない。
本とはそういう弱さがあるもので、文字にされずこぼれたものを、男は探し続けている。
戦乱の世の、夕月の年。かの亡国は甦った。
亡国の侵略を防ごうと、集まった人間は九人。いずれも譲らぬ手練れであり、歴史の転換期にふさわしき者たちであった。
はじまりを告げる音は、既に響き渡っている。
崩れ落ちた鎖。解放に近付く王城。
その先にあるものを見ようと、彼らはただあがく。