一: 名無しの騎士
たなびく霧に、赤色が混じった。
私は終わりを悟る。
その透明な揺らめきが現れたのは、一月前のことだ。
「伝承そのままの光景ですわ。全てを無に帰す水の檻…」
不純物を極限まで排除したような透明な水は、しかし中の様子を全く映さない。
いにしえの大国を覆うのは、光の乱反射に輝く水のヴェール。編み上げられたような水の鎖がまとわりつき、巨大な球を形成していた。球は日々範囲を広げ、大気を喰らって成長している。
檻に取り込まれた部分がどうなったのかは、誰にも分からない。ただ伝承によれば、生命の根源たる”水”を吸われ、廃墟のような姿となるという。
「女王陛下、わたくしが参りましょう。必ずや、この国を救ってみせます」
白皙の美貌に憂いをのせる主に、忠実な騎士たる私は進言する。水の檻から馬で十四日の距離にある小国は、今や滅亡の危機に瀕していた。
「分かりました。貴方に賭けましょう。……どうかご無事で」
「御意」
あれだけ恐怖の象徴だったヴェールは、あっさりと騎士を通した。
亡国を覆うヴェールは、まどろむかのように揺らめき、月夜に煌めいている。
しかし周囲を見渡し、私は絶句する。緑の木々や栄えた国々を取り込んだはずの中には、寥々とした荒野が広がるのみだったのである。
「これは…」
荒野の遥か先、森閑たる廃墟を目にし、私は納得した。
「いにしえの都、ハイロリア」
そこは、千年前の都であった。
風化した白石を積み上げた建物は、寂々と吹く風に晒され、今にも崩れ落ちそうな様相を呈している。かつては白く美しい街だったのだろう、中央には水の枯れた噴水がぽつんとある。白雪の街ともてはやされた都は、千年の時を経て幽鬼の都として蘇った。
透明な揺らぎに濁って見えない空を見上げ、私は静かに呟いた。
「…あれはなんだ」
呪縛。
そうとしか見えないもの。
水の球のちょうど頂点、薄青の輝きに包まれた場所に、鎖で縛られた王城があった。
五方から錆びた鉄の鎖が伸び、宙に浮く王城を封印するかの如く絡め取っている。まさに、訪問者らにあそこを目指せと言わんばかりに。
「上等だ」
不屈の闘志を漲らせ、騎士は腰の剣に手をかけた。先程から二つの視線が、騎士を見張っていた。
騎士の呟きに応え出てきたのは、二匹の餓鬼。衣服を身に着けておらず、枯れた身体に鬼のような顔を乗せている。それぞれこん棒と斧を持ち、よたよたと騎士に駆け寄ってきた。
一挙動で剣を抜き放ち、一匹目の首を落とす。返す刀で振り被られた斧を受け止め、餓鬼の胸に剣を突き刺した。
耳をつんざく、おぞましい叫び声が上がる。
歓迎の挨拶としては、物足りない位だ。そう余裕を顔に浮かべようとして――騎士は、ただならぬ気配に身体を強張らせる。
大気を切り裂く咆哮、終わりを告げる常闇の影、見る者を魅了し圧倒する威容。
堅い鱗は淡翠に輝き、大地を踏み締める足の爪は、まさに王者と呼ぶにふさわしい。
巨大な翼をはためかせ、騎士めがけてやってきた”王”は、血のように赤い目で小さな人間を見下ろした。
「ドラゴン…」
その美しいとさえ思う巨躯に見とれ――気が付いた時には、終わりを迎えていた。
国では名の知られた一人の騎士。
女王の片腕として知られた彼は、だが人知れず、いにしえの地にて命を散らした。