出逢う side信彦 03
帰ろうと、玄関に向けて歩いていた時、傘を教室に忘れていたことを思い出した。
今日は降らなかったが、明日は降るとの予報だったはずだ。
思わず舌打ちして、速足で教室に戻る。
傘を手にし、踵を返そうとした時、教室の中に誰かの気配を感じた。
放課後もだいぶ時間が過ぎて、運動部で大会が近い部以外は、皆帰宅しているはずの時間だ。
覗いてみると、こちらに背を向けて、女子が書類仕事をしているようだった。
邪魔をしては悪いと、首を引っ込めようとして、物音を立ててしまった。
その音で気付いたのか、彼女が振り返る。
「…誰?」
それは、秋津だった。
眼鏡をはずしているようで、どうやら見えていないらしい。
とはいえ、改めて名乗るのもなんだかおかしい気がする。
躊躇している間に眼鏡をかけなおした秋津が俺を見た。
「…河野信彦?」
…驚いた。
いきなり名前を呼び捨てされたことにも驚いたが、秋津が俺の名前をきちんと呼んだことが信じられなかった。今まで一度もしゃべったことがないのに。
「…居残りか?」
「…ああ、まあ」
秋津は、ぞんざいな口調、というより男口調だ。
俺の方がしどろもどろになって答えている。
『委員長の秋津さんから始めてごらん』
さっきの担任の言葉が思い浮かんだ。
「何やってるんだ、秋、いや、委員長」
とっさに委員長と言い換えてしまった。
「明日の学年委員会の書類作り。…秋津と呼んでくれていい。委員長と呼ばれるのは好きじゃないから」
ふ、と息をつくように少し彼女は笑った、気がした。
「そ、そうか。じゃあ、秋津…さん」
「さんもいらない。わたしも君を呼び捨てただろ」
そう言いながら、彼女は眉間を指で押さえている。
机の上には紙の山が三つほど出来ていた。
「…手伝おうか、いや、いやならいいんだ、けど」
頑張れ、頑張るんだ、俺。
「手伝ってもらえるならありがたいけど。いいのか?帰るところだったんだろう?」
「そんな大変そうなの見て帰れるかよ」
「…それじゃあ、ここの書類を5枚ずつホッチキスで留めていってほしい」
少し考えた後で、秋津は俺を手招きして言った。
ホッチキスを受け取って、俺は作業を始めた。
隣で、秋津も黙々と作業している。
なんだか少し気まずい。
やはり無理やり手伝いを申し出たのがいけなかったか。
「…秋津」
「何だ?」
「これ、いつも一人でやってるのか?」
「ああ、うん。その方が気楽だから」
「ごめん」
「え?」
「俺、邪魔してるよ、な」
一人がいいと暗に言われたような気がして、要らぬおせっかいになってしまったかと思った。
「ああ、いや、ちがうちがう。ホッチキスとか、そういうのは助かる。ただ、みんなで考えて、とかいうのが面倒臭いだけ」
真面目な委員長の口から、面倒くさいという単語が出てきた。
あれ?もしかしたら、俺の予想したような人間じゃないのかもしれない。
面倒臭いとは言いながら、秋津の手は止まることがない。実にテキパキと書類を作っていく。
俺が手伝い始めて30分ほどで、紙の山は整理された書類に変わった。
「ありがとう。助かった」
「いや、俺ほとんど役に立ってなかったし」
大きく伸びをして秋津は言った。
やはり少しは疲れたのだろう。
こういう時は甘いものがあればいいんだが。
「…あ」
「どうした?」
「これ、加賀先生からもらったんだけど」
俺は薬包紙を秋津に渡した。
「…なにこれ」
「…グラニュー糖」
「マジで?!うわぁ、これ試薬瓶のやつでしょ、どう見ても」
「…ごめん」
そういえばそうだった。試薬瓶のものを渡されるなんて、嬉しくないだろうな。
…失敗してしまった。
「何で謝るんだ?いいな、これ。レアもの」
「嫌じゃないのか?」
予想外の反応だ。
「なんで?先生が渡したんだから危険はないだろう?だいたい、薬だって元は試薬瓶に入っているようなものじゃないか」
嫌がっているのかと思ったが、そうではなかったようだ。
どちらかというと、面白がっている。
食べたら一緒でしょ、とまるで男だ。
いや、もしかしたら男よりも男らしいかもしれない。
見た目とのあまりのギャップに唖然としていると、秋津は俺に手を差し出した。
「はい、これ。お礼」
「っ!いいって、別に。邪魔したようなもんなんだからさ」
「わたしは借りを作ったままにしておくのは嫌なんだ」
俺の手にそれを押し付け、ついでに教室から追い立てる。
「じゃあ、この書類提出して帰るから」
「手伝」
「いいって。これぐらいなら私一人で十分だ」
「…そうか。気を付けてな」
「お疲れ」
そう言って、颯爽と秋津は歩き去った。
ようやく出会いました。




