後漢書拉麺伝〜大出世した肉屋の倅ですが皇后にして妹の様子がおかしい件〜
俺は何進。字は遂高。
市井のしがない肉屋の倅だったが、妹が後宮に入って霊帝の寵愛を受け、皇后にまで上り詰めたコネだけで、今やこの漢の軍権を握る大将軍にまで大出世してしまった男。
天下の大将軍。響きだけは最高にいいな。
だが、俺は毎日胃痛の連続だ。
下からは名門出身の血気盛んな若手エリート武官たちが、毎日のように執務室へ押しかける。
奴らは目を血走らせ、腰の剣の柄をチャラチャラと鳴らして俺を突き上げてくるのだ。
「将軍、早くあの国を蝕むクソ宦官どもをぶっ殺しましょう! さあ今すぐ兵を動かすのです!」
俺が田舎の肉屋から大将軍になれたのは、そのクソ宦官どもに袖の下を渡して妹を後宮にねじ込んでもらったおかげでもある。そう簡単に皆殺しにできるわけがない。
そして何より頭が痛いのが、後宮の頂点に君臨する俺の妹、何后だ。
妹は誰もが息を呑む絶世の美女だが、その嫉妬深さと権力欲は底なしだった。
最近では、帝の寵愛を自分から奪い、あろうことか皇子まで産んだ恋敵の王美人をどうやって毒殺するか、そればかりをドロドロと企てている始末。
下ではエリート武官と宦官が殺し合いの準備を進め、上では妹が毒薬を調合している。
このままでは俺たち何氏一族がどうなるか分かったものではない。
このところ毎晩冷たい汗をかいて眠りについている。
そんなある日のこと。妹が後宮の階段から足を踏み外して転げ落ち、気を失ったという報せが届いた。
「すわ、王美人派の刺客か!?」
俺は顔面蒼白になって妹の宮へと駆けつけた。
豪奢な天蓋付きの寝台に横たわっていた妹が、俺が近づいた瞬間、ふいにパチリと目を開けた。
俺が声をかけるより早く、妹はガバッと飛び起きて枕元の銅鏡を覗き込み、宮殿の柱が揺れるほどの悲鳴を上げた。
「ギャ〜ッ! なんですかこの美人は!? 誰!? 私!?」
頭を強く打っておかしくなったのか。
俺が狼狽して後ずさっていると、妹は銅鏡を布団の上に放り投げ、今度は美しい黒髪を振り乱して頭を抱え、寝台の上でのたうち回り始めた。
「思い出した……! 嘘でしょ、ここ三国志じゃないの! しかも私、何進の妹の何后!? このままだと王美人を毒殺してクソ宦官どもと全面戦争になって、お兄ちゃんが宮中に呼び出されて首をチョンパされて、ブチギレた袁紹たちが宦官を皆殺しにして、最後は董卓に毒殺される地獄のピタゴラスイッチが始まっちゃう〜〜〜ッ!」
チョンパとは何だ。ピタゴラスイッチとは何の呪文だ。
何を言っているのかさっぱり分からない。
妹はひとしきり絶叫して再び白目を剥き、糸が切れたように気絶した。
そして数時間後。侍医たちが匙を投げて逃げ出した頃、再び目を覚ました妹は、先ほどまでの狂乱が嘘のように冷たい目をして寝台から降り立った。
そして俺の鼻先をビシッと指差して、こう言い放ったのである。
「兄様! わたし、このクソみたいな政争から降ります! いいですか! 降りますからね! 毒殺とか暗殺とか、そんな命がけのデスゲームはお断りです!」
「お、おお……デスゲ……なに? まあ、王美人に手を出すのをやめるなら、それは良いことだが……」
「あと、一つどうしても納得がいかないことがあります。ここは中国でしょう!? なんでラーメンがないんですか!」
「ら、らあめん……? 何だそれは、西域の新しい兵器か?」
「違います! もう後宮の権力なんかどうでもいい! どうせ死ぬなら、私はこの洛陽で究極至高の一杯を作って啜り倒す!
兄様! あなた元は肉屋でしょう! この竹簡に書いた材料、それと大人の腿くらいある極太の青竹を至急ここに持ってきなさい!」
バンッ!
凄まじい勢いで寝室の扉が閉められ、俺は廊下に締め出された。
「なんだ今のは……」
政争から降りるなんて言われたら、外戚としての俺の権力基盤がマズイ。
だが、ただでさえ気性の荒い妹だ。ここでへそを曲げられて、やっぱり王美人を殺すなどと暴走されても俺の命がマズイ。
結局、俺は大将軍の権力と実家の肉屋のツテを盛大に私物化し、妹が要求した謎の材料を洛陽中から極秘裏にかき集める羽目になったのである。
◆
数日後の深夜。俺は誰にも見られないよう、ズシリと重い麻袋をいくつも担いで、こっそりと妹の宮にある専用の厨房へと足を運んだ。
「妹よ、頼まれたものを運んできたぞ……って、お前何をしてるんだ!?」
厨房に足を踏み入れた俺は、目を疑った。
本来なら尚食(宮廷料理人)たちが静かに湯を沸かすはずの厨房の中央で、天下の皇后たる妹が、頭に真っ白な手ぬぐいを巻き、豪奢な絹の着物の裾をふくらはぎまでたくし上げて、丸太のような青竹に片足を引っかけていたのだ。
「遅い! さあ兄様、材料をそこに置いて。私は今、麺打ちで忙しいの!」
「お、お前がやるのか!? 天下の国母たる皇后の所業ではないぞ!」
「フッ、前世の杵柄よ。私はね、ラーメン雑誌の専属記者として、全国三千軒のラーメン屋を取材し、自宅のキッチンに製麺機まで導入して自作ラーメンの限界に挑み続けた女よ……。見てなさい、草木灰から抽出した天然かん水とこの青竹打ちで、加水率四十五パーセントの極上多加水ピロピロ平打ち麺を打ってやるわ!」
相変わらず何言ってるか全くわからない。
呆然とする俺を置いて、妹は作業台に固定した極太の青竹に全体重をかけ、ビョン、ビョン、と凄まじい脚力で飛び跳ね始めた。
青竹の下に敷かれた黄色い小麦の塊が、妹が跳ねるたびにギシギシと音を立てて押し潰されていく。
細い脚から繰り出されているとは思えない、まるで熟練の武術家のような重心移動とリズム。
「ああもう、時間がもったいない! 兄様、突っ立ってないでその鉄槌と肉切り包丁の峰を使って、豚のゲンコツを粉砕してちょうだい! 骨の髄から極上のエキスを出しやすくするのよ!」
「はあ!? 俺は黄巾賊を討ち破った天下の大将軍だぞ! なんで夜中に豚の骨を叩き割らねばならんのだ!」
「あらそう?やらないなら、今すぐ王美人の寝所に忍び込んで頭にヒ素をぶっかけるわよ」
「喜んで叩かせていただきます!」
俺は泣く泣く大将軍の鎧の上着を脱ぎ捨て、鍛え上げた豪腕を振るって深夜の厨房で延々と豚骨を砕き続けた。
ゴシャァッ! バキィッ! と俺が骨を砕くたび、妹は「いいわよ兄様! 理想的な断面! 髄の赤身がしっかり露出してる!」と謎の檄を飛ばしてくる。
砕いた大量の豚骨と鶏ガラを、後宮の祭祀で使うような巨大な大釜にぶち込み、水を入れ、炊き上げること数時間。丁寧にアクをすくい取り、生姜と白ネギの青い部分、さらに乾燥させたキノコや干し貝などの超高級食材を惜しげもなく投入していく。
朝焼けが洛陽の空を染め始める頃には、厨房には後宮の雅な白檀の香りをすべて塗り潰すような、濃厚で野蛮な脂と醤油の焦げた匂いが充満していた。
「よし、カエシの熟成もバッチリ。鶏油の抽出も完璧……。いくわよ兄様、記念すべき後漢第一号の湯切り!」
妹は沸騰する大釜に、細かく波打つように手揉みした平打ち麺を放り込んだ。
菜箸で麺を泳がせ、わずか一分ほどで竹ざるを使ってすくい上げる。
「ハァッ!」
鋭い気合とともに、妹が竹ざるを上下に激しく振り下ろした。チャッ、チャッ、チャッ! と湯が切れる小気味よい音が厨房に響き渡り、湯気の向こうで妹の瞳が求道者のようにギラリと光る。
温めておいた白磁の深い器に黄金色の鶏油とタレを入れ、そこへ琥珀色に透き通った熱々のスープを注ぎ入れる。
湯切りした麺を綺麗に折りたたむように泳がせ、最後にじっくり煮込んだ豚バラ肉の塊と、細切りにしたネギを乗せた。
「完成よ……。二千年の時を超えた人類の英知、名付けて『無化調・豚骨鶏ガラ清湯醤油ラーメン』!」
ドンッ、と俺の前に置かれた一杯の器。
俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。これまで宮廷の宴で数々の珍味や羹を見てきたが、こんな料理は見たことがない。
透き通るような琥珀色の汁の表面には、黄金色の脂の玉が無数に浮かんでキラキラと輝き、器の底からは、焦がした醤の香ばしい匂いと、獣の骨から絞り出された圧倒的な生命力の香りが立ち昇っている。
「さあ、伸びる前にまずはスープからいきなさい」
腕を組んで仁王立ちする妹に促され、俺はレンゲを手に取った。
正直に言おう。肉屋の倅として育ち、若い頃から血と汗にまみれて生きてきた俺は、宮廷の気取った薄味の料理にはずっと不満を抱えていた。
上品だが、どれもこれも腹の底に溜まらない頼りない味ばかり。
まあ、妹の気まぐれに付き合ってやるか。そんな軽い気持ちで、俺は黄金色の脂が浮いたスープをすくい、口へと運んだ。
ズッ。
熱い液体が舌の上に広がった、その瞬間。
「……ッ!!?」
俺の脳天に、目に見えない巨大な雷が落ちた。
何だ、これは。何なんだ、この汁は!?
最初に唇に触れた鶏の脂が、とろりとした濃厚な甘みを広げる。直後、熟成された醤油の鋭い塩気と香ばしさが舌を突き刺し、さらにその奥から、俺が一晩中叩き割った豚骨の重厚なコク、丸鶏のふくよかな旨味、そしてキノコや貝の深い滋味が、まるで大軍勢の突撃のように幾重にも重なって喉の奥へと雪崩れ込んで!
「う、うおおおっ……!? なんだこの汁は! 獣の臭みが微塵もないのに、旨味の塊が顎の奥を殴りつけてくる!」
「フッ、当然よ。豚と鶏の動物系スープに、茸のグアニル酸と貝のコハク酸を重ねたトリプルスープ。この時代の人間が味わったら、旨味の相乗効果で脳が焼き切れるでしょうね」
妹が得意げに何か意味不明なことを言っているが、もはや俺の耳には入らない。
俺は震える手で竹箸を割り、黄金の海の中で妖しく輝く平打ちの縮れ麺を引っ張り上げた。
湯気とともに麺を啜り込む。ズズズッ!
「――ッ!!」
二度目の衝撃に、俺は思わず目を見開いた。
麺が、生きている!
これまで俺が食ってきた「湯餅(ワンタンの皮のような小麦料理)」は、どれもボソボソと歯切れが悪く、汁の中でふやけた頼りない代物だった。
だが、妹が青竹で打ち上げたこの麺はどうだ! 表面は絹のようにツルツルと滑らかで、唇を心地よく叩きながら口の中へと飛び込んでくる。それでいて奥歯で噛み締めた瞬間、モチッ、プリッ! と押し返してくるような強烈な弾力!
しかも、手揉みによってつけられた不規則な縮れが、あの悪魔的な旨味のスープと黄金の鶏油をこれでもかと絡め取り、小麦の甘い香りとスープの塩気が口の中で渾然一体となって爆発するのだ!
「う、美味い……美味すぎるぞ、何后! なんだこれは、どうなっているんだ!」
「いいから黙って啜りなさい! 麺が伸びるでしょうが!」
言われるまでもない。いや、止めようと思っても箸が止まらないのだ!
一口啜れば、その濃厚な余韻を追い求めて自然と次の麺を掴んでいる。
麺を飲み込めば、すぐさま蓮華が動いてスープを口に運んでいる。
間にある煮豚を齧れば、ホロホロと崩れる肉の繊維から甘い脂が染み出し、それがまた麺を欲させる。
俺の右手が勝手に暴走し、ズバババッ! ズズズッ! と獣のような音を立てて麺を胃袋へと送り込み続けていた。
そして、ふと気づいた時には。
俺の箸は、白磁の器の底を虚しくカチカチと叩いていた。
「……え? 麺が、ない……?」
あれほどたっぷり入っていたはずの縮れ麺が、一本残らず消え失せている。
俺は呆然としたまま、熱に浮かされたように器を両手で持ち上げ、残った琥珀色のスープに唇をつけた。ゴクッ、ゴクッ、と喉を鳴らし、最後の一滴まで飲み干す。
空っぽになった器の底を見つめながら、俺の胸を襲ったのは、かつてどんな激戦の後にさえ感じたことのないほどの、圧倒的な『喪失感』。
「あ……ああ……終わってしまった……。なぜだ、なぜ俺はあんなに急いで食ってしまったんだ……もっと、もっとゆっくり味わえばよかったのに……!」
天下の大将軍たる俺が、空のドンブリを抱きしめて本気で悔やんでいる。
「ふふっ……お褒めにあずかり光栄よ、兄様。でも、まだまだね。改良の余地しかないわ」
妹はまるで求道者かのような目をして、再び小麦粉の袋と向き合い始めた。
俺はしばらくの間、口の中に残る鶏油と醤油の幸福な余韻から抜け出せず、床にへたり込んだまま動くことができなかった。
◆
それから数日、妹は宮廷の公式行事をすべて「体調不良」と称してすっぽかし、厨房に引きこもってひたすらラーメンの改良に邁進していた。
宮中では皇后様は嫉妬と狂気に飲み込まれ、厨房に祭壇を作って呪いをかけているだなんだと言われる始末だ。
しかし俺はといえば、あの狂気の一杯に心奪われ、「二杯目」にありつくため、なすすべなく毎晩のように豚骨の運び屋としてこき使われていた。
そんなある日の昼下がりである。
煮詰まったスープの火加減を調整していた妹の厨房に、小さな足音がトテトテと近づいてきた。
「なんだか、とってもいい匂いがするのじゃ……」
扉の隙間からフラフラと入ってきたのは、妹が産んだ幼い皇子、劉弁。
さらにその後ろから、血相を変えた美しい女が転がり込んできた。
「お待ちくださいませ、弁皇子様! そちらは何后様の……ヒッ!」
女は、頭に手ぬぐいを巻いて青銅の大釜を大杓文字でかき混ぜる妹の姿を見て、短く悲鳴を上げた。
王美人だ。
霊帝の寵愛を一身に受け、次男の劉協を産んだことで、妹に最も憎まれ、毒殺確定リスト筆頭だった恋敵。
最悪の鉢合わせである。俺は思わず妹の方を見る。
(まずい、まさか殺るのか!? 今、ここで!)
だが、妹は大釜から顔を上げると、王美人の恐怖など気にも留めず、平然とした顔で手揉み麺を二玉、沸騰した湯に放り込んだ。
チャッ、チャッ、と見事な手つきで竹ざるを振るって湯切りをし、二つの器に手早く盛り付ける。
「ふん、ちょうどよかったわ。宮中の気取った飯は退屈でしょう。弁!それからあなたも。これをお食べなさい!」
ドンッ! と、妹は熱々のラーメンを王美人と劉弁の前に突き出した。
「な、何后様……これは、一体……」
王美人の美しい顔からサッと血の気が引く。
無理もない。厨房に引きこもり、呪術の祭壇を構えて自分を呪い殺そうとしている(と後宮の誰もが思っている)皇后が、突然得体の知れない黄金色の熱い汁を出してきたのだ。
どう考えても「これを飲んで死ね」という毒殺の儀式にしか見えない。
怯えて一歩引き下がる王美人を見て、妹は心底呆れたようにため息をつき、おもむろに自分用の小鉢を用意した。
「天地神明に誓って、毒など入れていないわ! 私のラーメンに対する侮辱よ! 見てなさい!」
妹は王美人の器から麺とスープを少し小鉢に取り分けると、ズズズズズズッ! と後宮の頂点とは思えぬ豪快な音で啜り上げた。
さらにスープをゴクリと飲み干し、プハーッと満足げな息を吐く。
「ほら、ピンピンしてるでしょう? 私が一晩かけて炊いたスープよ、伸びる前にさっさと食え!」
その皇后らしからぬ見事な毒見と、目の前から立ち昇る抗いがたい醤油と鶏油の香り。
弁皇子はすでに「お母様、うまい!」と先にパクつき始めた。
それを見た王美人の腹が、ぐうぅ、と小さく可愛い音を立てた。
「い、いただきますわ……」
観念した王美人は、震える白魚のような指で蓮華を取り、まずは琥珀色のスープをほんの少しだけすくって、桜色の唇へと運んだ。
チロリ、と舌先がスープに触れる。
その瞬間。
「……え?」
王美人の長い睫毛がピクリと跳ね、その大きな瞳が限界まで見開かれた。
「……ああっ!? な、なんですの、これ……!?」
王美人は口元を片手で押さえ、信じられないものを見たかのように器の中を覗き込んだ。
これまで彼女が後宮で口にしてきたのは、塩と僅かな香辛料だけで味付けされた、薄くて上品な澄まし汁ばかり。
そに無垢な舌の上に、妹の狂気が磨き上げた旨味の奔流が直撃した。
「醤の香ばしさの奥から、お肉の甘い脂と、何かしら、お魚やキノコのような深い味わいがブワッと広がって……! ああ甘美!喉を通った後も、舌の奥がジンジンと痺れるように甘美ですわ……!」
王美人は夢遊病者のような手つきで、今度は箸を取った。
最初は長い絹の袖が汚れるのを気にして、片手で上品に袖口を押さえ、縮れた麺を一本だけつまみ上げておちょぼ口へと運んだ。
チュル、と控えめに麺を口に含み、奥歯で噛む。
「……ッ!!!」
王美人の華奢な肩がビクンと震え、頬がみるみるうちに紅潮する。
「ツルツルなのに、噛むとモチモチと跳ね返ってきますわ……! それに、この縮れた麺にお汁の美味しい脂がたっぷり絡みついて、小麦の甘い香りと一緒にお口の中でとろけていく……! こんな美味しいもの、わたくし生まれてから一度も食べたことがありませんわ!」
「フッ、でしょうね。化調もなしにこのパンチ力……出すのにどれだけ苦労したと思ってるのよ」
そこからの崩壊は、まさに雪崩のようだった。
最初は一本ずつお上品に口へ運んでいたはずの王美人が、二口、三口と重ねるうちに、「なぜ!? なぜわたくし、こんなに下品にお箸を動かしてしまいますの!?」と困惑の声を上げ始めたのだ。
気づけば王美人は、高価な絹の袖がスープの飛沫で汚れるのも構わず、頭につけた豪華な金の髪飾りをシャラシャラと激しく揺らしながら、「ズビッ! ズバババッ! ズズズッ!」と、先ほどの妹に勝るとも劣らぬ豪快な音を立てて麺を啜り上げていた。
柔らかな煮豚を頬張り、白ネギのシャキシャキとした食感に目を細め、また麺を啜る。
そして、ものの数分で麺を平らげてしまった王美人は、箸を止めて器の中を覗き込み、まるでお気に入りの宝石を失くした少女のように絶望した顔で呟いた。
「あ……ありませんわ……。わたくしの麺が、もう一本も残っておりませんわ……どうして……」
ポロポロと美しい瞳から大粒の涙をこぼしながら、王美人はたっぷりスープの残った器を胸に抱え込み、潤んだ瞳で妹を見上げて懇願した。
「何后様……お慈悲を……! お代わりを……いえ、この美味しいお汁はまだ残っておりますから、このお汁の中に、もう一度あの温かい麺だけを入れてくださいませ……!」
「フッ、まさか『替え玉』に自力でたどり着くとは……あんた、やはり私に張り合うだけはある女のようね。いいわ、その食いっぷりに免じて、特別に『替え玉』一丁よ!」
チャッ、チャッ! と再び軽快な湯切りの音が厨房に響く。
俺は、剣の柄からそっと手を離した。毒殺どころか、恋敵に替え玉を振る舞っている。なんだこの空間は。
◆
妹の放つ以前とはまた違う狂気にあてられ、宮廷は確実におかしくなっていった。
数日後。毎晩後宮に漂う強烈な匂いと、なぜか最近コラーゲンたっぷりで肌つやが良くなった王美人の噂を聞きつけた皇帝までもが、「なんか美味いもん食ってるらしいな、我にも食わせろ(意訳)」
とお忍びで厨房にやってきてしまったのだ。
皇帝が最初の一口を啜った時の衝撃たるや、凄まじいものがあった。
日頃から酒池肉林の贅に飽き飽きし、どんな山海の珍味を出されても「うむ」としか言わなくなっていた暗君が、スープを一口飲んだ瞬間に椅子から転げ落ち(お付きの者は毒殺を疑った)、「これぞ天上の神仙が食す霊薬なり!! 朕の舌が、朕の舌が喜びに打ち震えておるわ!!」とむせび泣いたのである。
ちなみにお前が食ってるそれは俺が食べるはずだったラーメンだ。クソっせめて仕事しろよ。
ともあれその結果、後宮の覇権と皇位継承を巡って血みどろの殺し合いまで秒読みだった何后、王美人、そして国のトップである皇帝の三人が、今では夜な夜な厨房に設えられた即席の木のカウンターに肩を並べ、額に汗を浮かべて無言で麺を啜る、意味不明な平和空間が誕生してしまった。
「ズズズッ……ふうむ。やはり皇后自らが青竹で打った麺はコシが違うな。このピロピロとした舌触り、スープの絡みが絶妙じゃ。朕はもう、これなしでは政務など執れん(もとから執ってないだろ)」
「おほほほ、わたくしは最近『麺固め』が好みですわ。噛み締めた時の小麦の香りがたまりませんの。あ、陛下、そちらの半熟煮卵を半分いただきとうございますわ」
「あんたたち、だいぶラオタとしての解像度が上がってきたじゃない」
皇帝と二人の妃が、空になったドンブリを挟んで、やれ今日のスープはキレがあるだの、煮豚の脂身の入り方が芸術的だのと、ラーメンの講評で熱く盛り上がっている。
そこには嫉妬も陰謀も、ドロドロの愛憎劇もなかった。ただ純粋に、「あの一杯がなくなってしまった寂しさ」を共有し、次の一杯に思いを馳せる奇妙な一体感だけが存在していた。
「……ふぅ。何はともあれ、これで後宮も平和になったし、俺の首が飛ぶ心配もなくなったわけか」
俺が厨房の隅で、ズシリと重い小麦粉の麻袋から肩を下ろし、安堵のため息をついた。
ガシャァン!
突然、妹が自分の前にあった器を床に叩き割った。
「ひっ!?」と霊帝と王美人が肩を震わせる。
見れば、妹は腕を組み、眉間に深いシワを寄せて小麦粉の麻袋を睨みつけていた。
「……ダメね。全然ダメだわ」
「な、なんだよ何后、急に怒り出して! 陛下も王美人も、あんなに美味いって泣いて喜んでるじゃねえか!」
俺が慌ててなだめようとすると、妹は頭の鉢巻をギリッと締め直し、憤然として言い放った。
「あんな素人二人満足させたくらいでどうするのよ! いいこと兄様、この時代の石臼で挽いた小麦も、昆布や煮干しがない出汁も、品種改良されていない豚の肉も……私の知る水準からすれば、すべて代用品の代用品に過ぎないわ!」
「だ、代用品の代用品……?」
「グルテンの形成も甘いし、醤油の醸造技術も未熟すぎる! こんな妥協の産物を『究極のラーメン』と呼ぶなんて、私の誇りが許さないわ!」
妹は着物の前掛けをバッと剥ぎ取ると、厨房の窓を蹴り開け、月明かりに照らされた広大な洛陽の大地をビシッと指差した。
「いいこと、ラーメンを作るにはまず畑から……いいえ!国からよ! 国を育て、ひいては最高の小麦を育て、最高の黒豚を飼い、北の海の極上の昆布と煮干しを獲るの!」
「は、はあぁぁっ!? おい待て、お前今度は何をしでかそうというのだ!!」
俺の魂の絶叫などどこ吹く風で、妹は不敵な笑みを浮かべ、俺の襟首をガッと掴んだ。
「行くわよ! 兄様! 鍬を持ちなさい! 私たちはまだ進み始めたばかりなのだから! この果てしないラーメン道を!」
「いやだあああああ! 俺は大将軍だぞおおおおおっ!!」
これ、毒です。(主に高血圧的な意味で)
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