婚約破棄状の筆跡が、婚約者のものではありませんでした
婚約破棄状が届いた。侯爵家の封蝋。婚約者の署名。正式な書式。どこから見ても、本物にしか見えない。
――ただし、王宮文書局で働く文書鑑定官を除いては。
「これ、アルベルト様が書いたものではないわ」
一通の偽造された婚約破棄状から、十一年続いた婚約と、侯爵家に隠された事件が動き始める。
「……変ね」
婚約破棄状を三行読んだところで、私はそう呟いた。向かいの机で書類の束と格闘していた同僚のマルタ・ヘイゼンが、ぴたりと手を止める。平民出身の彼女は、私と同じ王宮文書局第二鑑定室に勤める鑑定官だ。とりわけ紙とインクの鑑定に強く、私が伯爵令嬢であることなど気にも留めずに接してくる、数少ない友人でもある。
「クラリス」
「ええ」
「今、何を読んでるの?」
「婚約破棄状よ」
「誰の?」
「私の」
マルタは数秒黙った。それから椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
「変ね、じゃないでしょう!?」
王宮文書局、第二鑑定室。壁一面に書類見本が並び、机には拡大鏡、羽根ペン、インクの試料、紙の繊維を調べるための小道具がところ狭しと置かれている。その真ん中で私は、今朝届けられた一通の手紙をもう一度読み返した。
差出人はアルベルト・ローゼン。ローゼン侯爵家の嫡男であり、私――ウェルナー伯爵家令嬢クラリス・ウェルナーが十五歳のころから十一年間、婚約している相手だ。
『クラリス・ウェルナー嬢。
両家の合意によって定められた婚約であったが、私はこれ以上、この関係を継続する意思を持たない。
よって本書をもって、貴女との婚約を破棄する。
アルベルト・ローゼン』
簡潔な文章だった。侯爵家の封蝋。アルベルトの署名。使用されている便箋も、ローゼン侯爵家御用達の製紙工房のものに見える。事情を知らない者なら、疑う余地のない正式な婚約破棄状だと思うだろう。けれど。
「これ、アルベルト様が書いたものではないわ」
私は言った。
「……は?」
「偽物よ」
マルタの顔から、先ほどまでの狼狽が消えた。文書鑑定官の顔になる。
「見せて」
手紙を渡す。マルタは署名部分をじっと見た。
「似てるわね」
「ええ。とても上手」
「なのに違う?」
「まず、この『リ』」
私は私物箱から、以前アルベルトから届いた手紙を取り出した。職業柄、私は手紙を捨てられない。愛情深いからではない。資料として興味深いからだ。少なくとも、今まではそう思っていた。二枚を並べる。
「アルベルト様は『リ』の二画目を必ず少し右へ流すの。これは真っすぐ」
「あ、本当だ」
「それから数字の七」
婚約の日付が記されている箇所を指した。
「彼は七の中央に横線を入れる。でもこちらにはない」
「それくらいなら、その日の癖じゃない?」
「なら、こっちは?」
署名の最初の一文字。
「筆圧が違う」
アルベルトは幼少期から剣術を続けており、右手の中指に固い剣だこがある。そのため文字を書くとき、右下へ向かう線だけわずかに強くなる。この署名には、それがない。見た目は似ている。形だけなら、相当練習したのだろう。しかし、人間は文字を書くとき、形だけを書いているのではない。手の骨格。筋肉の使い方。癖。呼吸。長年積み重なった動き。それら全部が紙の上に残る。私は手紙を鼻先へ近づけた。
「あと、インク」
マルタも嗅ぐ。
「鉄没食子?」
「基本はね。でも微量に青石草が混ざってる」
「ああ」
紙とインクを専門とするマルタが、すぐに納得した顔をした。
「王都東部で最近出回ってる安価な混合インク」
「そう。ローゼン侯爵家が通常使っているものではないわ」
「じゃあ、本当に……」
「偽造」
私は断言した。マルタは、ほっと息を吐いた。しかし次の瞬間には顔をしかめる。
「いや、待って」
「何?」
「婚約破棄状を偽造するって、普通に考えておかしくない?」
「ええ」
「恋敵とか?」
「可能性はあるけれど」
私は封筒を裏返した。そこには確かに、ローゼン侯爵家の紋章を刻んだ封蝋が押されている。
「問題はこっち」
「封蝋?」
「本物だと思う」
侯爵家の印章は厳重に管理される。外部の人間が簡単に持ち出せるものではない。つまり。
「ローゼン家の内部に、これを作れる人間がいる」
マルタの表情が変わった。私は立ち上がる。
「今日は早退するわ」
「どこへ?」
「本人確認」
「……そうね。婚約破棄されたら普通はまず、それをするのよ」
妙に感心したように言われた。
「そうなの?」
「そこから疑問なの?」
私は上着を取った。だが第二鑑定室を出る前に、足が止まった。
「マルタ」
「何?」
「もし私が戻らなかったら、この手紙を局長に渡して」
「縁起でもないこと言わないで」
「念のため」
「クラリス」
呼び止められる。
振り返ると、マルタは眉をひそめていた。
「一人で危ないことしないでよ」
「本人確認をするだけよ」
「その顔で言う人は、だいたい本人確認だけでは終わらないの」
失礼な。
◇
ローゼン侯爵邸へ着いたのは昼過ぎだった。十五歳で婚約して以来、十一年間通い続けた屋敷である。門番も使用人も私の顔を知っている。ところが今日に限って、門前には妙な緊張が漂っていた。
「クラリス様」
私を出迎えたのは、ローゼン侯爵家に三十年以上仕える老執事ハインツだった。アルベルトが幼いころから彼を知る人物で、私が婚約した当初から何かと世話になっている。
「突然ごめんなさい。アルベルト様はいらっしゃる?」
ハインツの顔が曇った。
「……お聞きになっておりませんか」
「何を?」
「アルベルト様は二日前、領地へ向かわれて以来、お戻りになっておりません」
私の背筋を冷たいものが走った。
「領地へ?」
「はい」
「なぜ?」
「急ぎ確認したいことがあると」
「誰と?」
「お一人でございます」
おかしい。次期侯爵となる嫡男が、急ぎの用件とはいえ供もつけず領地へ向かうことはまずない。
「最後に屋敷で見たのは?」
「二日前の早朝です」
「それ以降、連絡は?」
「ございません」
「捜索は?」
「旦那様が人を出しております」
「アルベルト様の執務室を見せて」
私が言うと、ハインツが戸惑った。
「しかし……」
「今日、アルベルト様から婚約破棄状が届きました」
ハインツが目を見開く。
「その書類は偽造された疑いがあります」
「……なんですと?」
「だから、彼の最近の書類を調べたいのです」
数秒の沈黙。老執事は深く頭を下げた。
「ご案内いたします」
アルベルトの執務室は、いつも通り整然としていた。机の上には未処理の書類。壁際には領地の地図。本棚には法律書や農業報告書。私は手袋をつけ、一枚ずつ確認していった。数分。十分。三十分。そして。
「あった」
一枚の土地譲渡書を持ち上げる。ローゼン侯爵領南端にある林業地区、その一部を商会へ譲渡する契約書。アルベルトの署名がある。だが。
「これも偽物」
ハインツが息を呑む。さらに調べる。借用証書。倉庫売却。投資契約。三週間ほど前から、アルベルトの名義で作られた不自然な書類が少しずつ混ざっている。
「なぜ誰も気づかなかったの……」
私が呟くと、ハインツが苦しそうな顔をした。
「坊ちゃまはこの一月ほど、財務関係の書類を御自身で確認されておりました。ですので署名があれば、皆、坊ちゃま御本人の判断かと」
婚約破棄状だけではなかった。誰かがアルベルトの名義を使っている。財産を動かし。信用を壊し。そして、私との婚約を切ろうとした。なぜ?もし私が本物の婚約破棄だと思ったら。私はアルベルトをどうする?怒る?泣く?実家へ戻る?少なくとも、ローゼン侯爵家の内部問題へ首を突っ込む理由はなくなる。
「私を遠ざけるため……?」
「クラリス様?」
「婚約破棄状は、目的じゃない」
アルベルトの財産を奪う。その過程で婚約者が動けば邪魔になる。だから先に切り離す。だとしたら。
「アルベルト様は、自分の名前が使われていることに気づいていたのかもしれない」
三週間前から偽造文書。一月ほど前から本人が財務書類を確認。二日前、突然領地へ。そして失踪。繋がった。
「クラリス嬢」
背後から男性の声がした。振り向く。
「エドガー様」
立っていたのは、アルベルトの従兄エドガー・ローゼンだった。ローゼン侯爵家の分家に生まれ、本家の財務管理を長年補佐している三十歳の男だ。十一年に及ぶ婚約期間中、私も社交の席や侯爵邸で何度も顔を合わせている。
「聞きましたよ。アルベルトから婚約破棄状が?」
「ええ」
「残念でしたね」
「偽物でしたけれど」
ほんの一瞬。エドガーの笑顔が止まった。ほんの一瞬だった。
「偽物?」
「筆跡が違います」
「そんなことが分かるのですか」
「それが仕事ですから」
「ああ、そうでしたね」
再び穏やかな笑顔。
「しかし、アルベルト本人が誰かに代筆させた可能性は?」
「ありません」
「なぜ言い切れる?」
「正式な婚約破棄を代筆で済ませるほど無礼な男なら、十一年も婚約していません」
それは鑑定官としての回答ではなかった。自分でも少し驚いた。エドガーが小さく笑う。
「信頼しているんですね」
「ええ」
口に出して初めて気づく。私はアルベルトを信頼している。婚約は十五歳のときに決められた。家同士の都合。大恋愛ではない。少なくとも、そう思っていた。けれど十一年。雨の日には濡れない側を歩いてくれた。私が王宮文書局で働くと言ったとき、「侯爵夫人になるのに?」と反対する者が多い中、彼だけは「君なら向いている」と言った。仕事で遅くなれば迎えの馬車を寄越した。記念日を忘れるくせに、私が好きな紙工房の新作だけは覚えていた。それをすべて恋と呼ぶのか、私は知らない。
でも。たった一枚の紙で、なかったことにされていい十一年ではない。
「ところで」
エドガーが机の書類を見る。
「勝手に内部文書を調べるのは、いかがなものかな」
「ハインツの許可はいただきました」
「使用人にそんな権限はないでしょう」
彼は机へ近づいた。
「これ以上は侯爵家に任せてください」
「嫌です」
即答すると、エドガーが眉を上げた。
「クラリス嬢」
「婚約を破棄されたなら、私は部外者でしょう。でも破棄状が偽物なら、今も婚約者です」
「……理屈っぽい方だ」
「よく言われます」
「アルベルトも苦労したでしょうね」
「本人から聞いたことはありません」
エドガーは肩をすくめた。
「アルベルトは最近、少し不安定でした。女性関係でも問題があったようです」
「女性?」
「御存じなかった?」
心配そうな顔をする。
「領地で親しくしている女性がいると聞きましたよ。婚約破棄も、案外本人の意思かもしれない」
私はエドガーを見た。それから彼の右手を見る。書類を一枚持っている。
「その書類」
「え?」
「今お持ちの」
エドガーが何気なく机から取った紙。財務確認書だ。彼自身の署名がある。
「少し見せていただけます?」
「なぜ?」
「興味があります」
「仕事熱心だ」
笑いながら渡してきた。私は受け取る。見る。そして。心臓が一度だけ強く鳴った。数字の七。横線がない。もちろん、それだけではない。文末の小文字。縦線から横線へ移る際の微かな震え。アルベルトを真似るため形を変えていても、筆を運ぶ順番までは隠しきれていない。偽造文書と同じ。
「どうしました?」
「いいえ」
私は微笑んだ。
「何でもありません」
証拠としてはまだ弱い。この場で指摘すべきではない。
「今日は帰ります」
「そうしてください」
エドガーは安堵したように見えた。
「アルベルトが戻れば、私から連絡しますよ」
「ありがとうございます」
私は部屋を出た。廊下を曲がり。階段を降り。ハインツと二人になったところで、小声で言った。
「エドガー様から目を離さないで」
老執事の顔が強張る。
「まさか」
「まだ断定できません」
「ですが」
「それから、侯爵様へ。明日の親族会議は予定通り開いてください」
「親族会議?」
「エドガー様が開くはずです」
「なぜ分かるのです?」
「急いでいるからです」
偽造書類。アルベルト失踪。婚約破棄。ここまでやった人間が、ただ待つはずがない。何かを完成させるためにアルベルトを消した。なら次に必要なのは。彼の代わりに、誰かが権限を持つこと。
◇
その夜、私は王宮文書局へ戻った。マルタはまだ第二鑑定室に残っていた。
「遅い!」
「ごめんなさい」
「本人確認だけって言ったでしょう!」
「本人がいなかったの」
「それ一番まずいやつ!」
事情を話す。マルタは最後まで聞くと、額を押さえた。
「エドガー・ローゼンの筆跡が似ていた?」
「ええ。でも偽造署名と一致したと言い切るには追加資料が欲しい」
「あるわよ」
「え?」
「王宮の財務局と取引してるなら、ローゼン家から提出された文書が保管されてる」
さすが紙とインクの鑑定官である。私たちは保存庫へ向かった。申請書。納税報告。領地収支。エドガーが代理で提出した書類を過去五年分並べる。そして分かった。
「この癖」
マルタが指した。
「同じね」
「ええ」
エドガーはアルベルトの文字を真似するとき、署名の最後の線だけ必ず少し内側へ巻く。本人の署名にはない。しかも。
「インクも一致した」
マルタが分析結果を見る。
「青石草入り。製造工房まで絞れる」
「十分ね」
「でもアルベルト様本人は?」
「そこなの」
偽造犯が分かっても、アルベルトがどこにいるか分からない。私は今日見た土地譲渡書を思い出す。林業地区。倉庫。借用証書。すべてローゼン領南部に集中していた。
「エドガー様が動かしたがっている資産は、南部ばかり」
「だから?」
「アルベルト様も、それを調べに行ったとしたら?」
領地へ向かった。南部。私は地図を広げる。古い林業倉庫。今はほとんど使われていない建物がある。
「捜索隊へ連絡して」
「クラリスは?」
「行く」
「普通行かないのよ!」
「なぜ?」
「文書鑑定官は誘拐犯と戦う仕事じゃない!」
正論だった。結局私は、ローゼン侯爵家を通じて王宮騎士隊へ情報を渡した。ローゼン侯爵――アルベルトの父であり、侯爵家当主――も、息子の失踪が財務不正と関係している可能性を知ると、すぐに騎士隊への正式な捜索要請を出した。同行したいと言った私は、マルタと侯爵の双方から止められた。不満だったが、適材適所というものがある。私は剣を持ったことすらない。代わりにすべきことがある。翌日の親族会議。そこでエドガーは必ず動く。
◇
予想通りだった。
翌日。ローゼン侯爵家の大広間には、本家と分家の主だった親族が集められていた。上座に座るローゼン侯爵の顔には、息子の消息が分からないまま三日を過ごした疲労が濃く刻まれている。その前へエドガーが進み出た。
「アルベルトが消息を絶って三日になります」
低く、落ち着いた声。
「捜索は続いております。しかし領地運営を止めるわけにはいきません」
親族が頷く。
「さらに、このような文書も残されていました」
エドガーが一枚の紙を掲げた。私への婚約破棄状。
「婚約者との関係を突然断ち、単身で消息を絶った。このところアルベルトには不可解な行動が多かった」
空気がざわつく。
「私は、彼が正常な判断を失っていた可能性も考えるべきだと思います」
狙いはこれだ。アルベルトの判断能力に疑問をつける。その上で。
「当面、財務および領地管理について、代理権を置くべきではないでしょうか」
「その代理を、あなたが?」
私が尋ねた。視線が集まる。エドガーは驚いた顔をした。
「クラリス嬢。なぜここに」
「まだアルベルト様の婚約者ですので」
「ですが、その文書が」
「偽物です」
大広間が静まり返った。私は中央へ進む。
「その婚約破棄状は、アルベルト様が書いたものではありません」
「また筆跡の話ですか」
エドガーが苦笑する。
「専門家の思い込みで親族会議を混乱させるのは――」
「専門家なので、証拠を持ってきました」
私の後ろからマルタが箱を運び込む。
「王宮文書局第二鑑定室所属、マルタ・ヘイゼンです。鑑定補助として立ち会います」
私は三枚の文書を卓上へ置いた。
「一枚目。アルベルト様直筆の公文書」
「二枚目。婚約破棄状」
「三枚目。最近提出された土地譲渡書」
私は指し示す。
「偽造文書は一見、非常によく似ています。ですが筆順、筆圧、数字表記に複数の不一致があります」
「そんなもの、偶然でしょう」
エドガーが言う。
「一つなら」
私は答える。
「十九箇所あります」
ざわめき。
「さらに使用インク。アルベルト様が通常使用されるものとは異なり、青石草を混ぜた安価な混合インクです」
「誰でも買える物でしょう」
「ええ」
「なら証拠にはならない」
「単独では」
私はもう一枚取り出す。
「これは三年前、エドガー・ローゼン様が王宮財務局へ提出された報告書です」
エドガーの顔が固まった。
「そしてこちらが昨年の申請書」
並べる。
「エドガー様には特徴があります。縦線から横線へ移る際、筆先を一度止める。そのため交差部分にインクがわずかに溜まる」
拡大鏡を置く。
「偽造されたアルベルト様の署名にも同じ癖があります」
「馬鹿な」
「もう一つ」
偽造署名の終端を示す。
「アルベルト様の署名を真似るとき、あなたは最後の線を内側へ巻いてしまう」
エドガー本人の文書。同じ癖。
「人間は形を真似できます。でも手の動きまで完全に別人にはできません」
「こじつけだ!」
初めてエドガーが声を荒らげた。私は彼を見る。
「でしたら」
新しい紙とペンを置く。
「ここでアルベルト様の署名を書いてください」
沈黙。
「何?」
「あなたなら非常によく似せて書けるはずです」
「私がなぜ」
「書けないのですか?」
エドガーの手が動かない。そのとき。大広間の扉が開いた。
「その必要はない」
聞き慣れた声だった。私は振り向く。
「アルベルト様」
扉の向こうに立っていたのは、三日前から行方不明になっていた私の婚約者、ローゼン侯爵家嫡男アルベルト・ローゼン本人だった。服は汚れ、額には包帯が巻かれている。その両脇には、彼を南部の旧林業倉庫から救出した王宮騎士たちがいた。
けれど。自分の足で立っている。生きている。私の肩から力が抜けた。本当に。ほんの少しだけ。アルベルトが私を見る。目が合う。いつもの穏やかな顔が、わずかに崩れた。
「クラリス」
「遅いです」
口から出たのはそれだった。
「……すまない」
「あとで話があります」
「はい」
なぜ敬語になるのだろう。エドガーが後退する。
「アルベルト。これは」
「南部倉庫で帳簿を見つけた」
アルベルトが言う。
「お前が領地資金を商会へ流していた証拠も」
「違う!」
「私が調査していると気づいて、南部へ呼び出したな」
アルベルトは包帯へ触れた。
「ずいぶん手荒な歓迎だった」
騎士がエドガーへ近づく。
「待て!」
彼は私を睨んだ。
「たかが女の筆跡遊びで――」
「たかが?」
アルベルトの声が低くなる。
「それでお前の偽造が全部露見したんだろう」
エドガーは連行された。最後まで何か叫んでいたが、私はもう聞いていなかった。アルベルトを見ていた。生きている。それだけ確認すると。
「クラリス」
「はい」
「怒っている?」
「とても」
「やっぱり」
◇
事件の全容が明らかになったのは、それから数日後だった。エドガーは本家の財務を補佐する立場を利用し、数年前から侯爵家の資金を少しずつ横領していた。次期当主として財務を本格的に引き継ぎ始めたアルベルトが、その異常に気づいた。調査を進めた彼を南部へ誘い出し、監禁。
その間に偽造書類を使って資産を動かし、アルベルトが精神的に不安定だったという筋書きを作る予定だったらしい。婚約破棄状は、私をローゼン家から遠ざけるため。犯人に一つだけ誤算があった。私が文書鑑定官だったことだ。
「普通、婚約破棄状を受け取ったら筆跡鑑定はしないと思ったんだろうな」
アルベルトが言う。
「普通ではなくて申し訳ありません」
「褒めてる」
王宮文書局近くの小さな喫茶店。事件後、初めて二人で会った。アルベルトの額にはまだ包帯がある。
「それで」
私はカップを置いた。
「なぜ私に何も言わなかったのです?」
「横領の調査?」
「そうです」
「君を巻き込みたくなかった」
「結果、巻き込まれました」
「その通りです」
「偽の婚約破棄までされました」
「……すみません」
「私は一日、自分が婚約破棄された女だったんですよ」
「数時間では?」
「時間の問題ではありません」
「はい」
素直なのが腹立たしい。私は息を吐いた。
「次から危険な調査をするときは、相談してください」
「婚約者として?」
「文書鑑定官としてです」
「そっちか」
「婚約者としては」
私は少し考えた。
「とても怒っています」
「分かりました」
アルベルトが笑った。その笑い方を見て。ようやく私は思った。ああ。本当に無事でよかった。
「それと」
アルベルトが少し真面目な顔になる。
「今回の婚約破棄状を見て、どう思った?」
「偽物だと」
「そうじゃなくて」
「インクの選択も雑でした」
「そうでもなくて」
「では?」
「もし本物だったら」
私は黙った。考えたことがなかった。いや。考えないようにしていたのかもしれない。
「理由を聞きに行ったと思います」
「それだけ?」
「十一年も婚約して、手紙一枚で終わるなんて納得できませんから」
「よかった」
「何が?」
「君にも多少は執着してもらえているらしい」
私は眉をひそめた。
「当然でしょう」
「当然?」
「十一年ですよ」
「うん」
「あなたが私の誕生日を三回忘れたことも」
「二回です」
「三回です」
「……そうだったか?」
「私が仕事で徹夜した翌朝、勝手に朝食を持ってきたことも」
「勝手ではない」
「初めて鑑定官になった日に、誰より先にお祝いをくれたことも」
口にしてから気づく。アルベルトが黙っている。私も黙る。妙に恥ずかしくなった。
「つまり」
彼がゆっくり言う。
「それなりに好き?」
「……その質問は卑怯では?」
「命が助かったばかりなので、多少は許してほしい」
「関係ありません」
「クラリス」
「何です?」
「私は好きだよ」
あまりにも普通に言われた。私の頭が一瞬止まった。
「君のこと」
「……そうですか」
「それだけ?」
「突然言うからでしょう」
「十一年言わなかったから、そろそろ言った方がいいかと思って」
「遅いです」
「すみません」
私は紅茶を飲む。冷めていた。
「私も」
小さく言う。
「え?」
「二度は言いません」
「聞こえなかった」
「筆跡なら鑑定できますけど、聴力は担当外です」
「クラリス」
私は無視した。アルベルトはしばらく笑っていた。
◇
三か月後。王宮文書局第二鑑定室。
「クラリス、手紙」
マルタが封筒を机へ置いた。
「また婚約破棄状?」
「やめて」
あれ以来、彼女はこれを面白がっている。封蝋を見る。ローゼン侯爵家。ただし今回は見慣れた文字で、私の名前が書かれていた。封を開ける。中には一枚の紙。
『クラリス・ウェルナー嬢。
十一年前、私たちの婚約は両家によって決められました。
これまで私は、それで十分だと思っていました。
けれど今回、私自身の意思で改めてお願いしたいと思います。
私と結婚してください。
アルベルト・ローゼン』
読み終える。
「何?」
マルタが覗こうとする。
「見ないで」
「珍しい。顔赤いわよ」
「暑いの」
「冬だけど?」
私は無視して、署名を確認した。右下への強い筆圧。数字の七には横線。最後の一文字も、いつもの癖。間違いない。その日の夕方。文書局の外にはアルベルトが待っていた。
「読んだ?」
「ええ」
「どうだった?」
私は手紙を差し出す。アルベルトが嫌な予感でもしたのか、少し身構える。
「……内容より筆跡が気になる?」
「いいえ」
私は笑った。
「これは間違いなく、あなたが書いたものです」
「それで返事は?」
「書面で必要ですか?」
「できれば口頭で」
「では」
私は一歩、彼へ近づいた。
「お受けします」
アルベルトが息を吐く。
「よかった」
「ただし」
「まだあるの?」
「次に重要書類を作るときは、もっと上質なインクを使ってください」
「求婚の返事でそこを指摘する?」
「職業病です」
彼が笑う。私も笑った。十一年前に誰かが決めた婚約は、一度、偽物の紙によって壊されかけた。だから今度は。誰かに決められたからではなく。偽造でも、代筆でもなく。私たち自身の意思で選ぶ。その証明なら。もう、鑑定する必要はなかった。




