凍てつく夜明けに、煤だらけの恋文を
隙間風が、重い豪砂のドレスの裾を揺らす。石造りの床から這い上がってくる冷気が、足の指先から体温をじわじわと奪っていく。
ここは北の辺境。ガルブレイス辺境伯領の城。
分厚い石壁に囲まれた寝室には、不釣り合いなほど立派な天蓋付きのベッドが置かれている。だが、そこから伝わってくるのは温もりではなく、底冷えするような静けさだけだった。
魔力を持たない、出来損ないの令嬢。姉の代用品として送り込まれたこの身に、温かな歓迎などあるはずもない。コルセットで締め付けられた肋骨が、呼吸のたびに鈍く痛む。
目の前には、見上げるほどの大柄な男が立っている。ガルブレイス辺境伯その人。
分厚い胸板を覆う鋼の甲冑が、暖炉の微かな灯りを反射して鈍く光る。血と、鉄と、獣の脂が混ざったような、ひどく土臭い匂いが鼻を突いた。王都の貴族たちが好む甘い香水とは無縁の、命を削る最前線の匂い。
「……俺は明日、死地へ向かう。だから、今夜は君を抱かない」
抱かない。
その言葉は、拒絶と同義だった。
「生きて帰れる保証のない身で、君を縛り付けるような真似はしたくない。……すまない」
それは不器用な彼なりの、最大限の配慮だったのかもしれない。だが、「魔力のない代用品」として送られた身には、「お前には抱く価値もない(足枷になるだけだ)」という残酷な宣告にしか聞こえなかった。冷え切った指先をドレスの襞ごとギュッと握り込む。爪が手のひらに食い込み、微かな痛みとなって鈍い頭に響く。
だが、視界の端で動いた無骨な手が、ふわりと頭上に乗せられた。
ゴツゴツとした、硬いタコだらけの掌。それが、結い上げられた髪の表面を一度だけ、ひどくぎこちない動作で撫でた。
「……留守を、頼む」
熱い。
頭皮を通して伝わってくる、火傷しそうなほどの体温。分厚い手のひらの摩擦が、硬く強張っていた首筋の筋肉をほんの少しだけ緩ませる。男はそれだけ言い残すと、踵を返して重い足音と共に部屋を出て行った。
バタン、と重厚な木の扉が閉まる。
残されたのは、微かに乱れた髪と、火照るような頭頂部の感覚、そしてひどく静かな冷気だけ。撫でられた場所をそっと手で押さえると、まだ鉄と獣の匂いが微かに残っていた。
◇
それからの日々は、ただ時間が通り過ぎていくだけの空虚なものだった。
広すぎる城。すれ違う使用人たちは、皆一様に礼儀正しいが、どこかよそよそしい。
「奥様は何もしなくて結構でございます」
「すべて私共で手配いたしますゆえ」
家令の老人は、深々と頭を下げながらそう言った。その声に棘はないが、明確な線引きがあった。あなたはここで、ただ座っていればいい。余計な口出しは無用だ、と。
用意された温かいスープを銀の匙で口に運び、窓の外で吹き荒れる吹雪を眺める。
白い息を吐きながら、自分の手のひらをじっと見つめた。
傷一つない、白い肌。魔力を持たず、何も生み出せない、空っぽの手。
私は、ここで息をしているだけの置物だ。
暖炉で薪の爆ぜる音が、やけに大きく耳に響く。喉の奥が、チリチリと乾いた。温かいスープを飲んでも、胃の底に溜まるのは冷たい鉛のような感覚だけだった。
◇
出征から一週間が過ぎた日の朝。
銀色の盆に乗せられて、一通の手紙が運ばれてきた。
羊皮紙の表面はざらついており、端には煤のような黒い汚れがこびりついている。
封を切ると、乾いたインクの匂いに混じって、あの夜の彼と同じ、鉄と獣の匂いが微かに漂った。
『北方狼の毛皮のなめし方について、急ぎ知恵を借りたい。
君が王都で、誰よりも熱心に書物を読んでいたと聞いた。城の職人たちのやり方ではうまくいかない。どうしても君の知識が必要だ』
乱暴で、ひどく角張った筆跡。
何度も書き直したのか、羊皮紙の一部が薄く削れ、インクが滲んでいる。
戦地からの手紙。無事を知らせる言葉も、気遣う言葉も一切ない。ただ唐突に、毛皮の加工法を問うだけの無骨な文章。
どうして、私に?
魔力を持たない私が、家族から逃げるように王都の書庫に引きこもっていたことを、この人は知っていたというのか。
「本の虫の代用品」だと、嘲笑っているのだろうか。
だが、乱暴な文字で書かれた手紙の最後には、力強い筆跡でこう記されていた。
『頼む。俺たちには、君の知恵が必要だ』
頼む。
その二文字が、胸の奥でドクンと跳ねた。
代用品の私。何もない私。その私を、あの大きな背中の男が頼っている。
無意識のうちに、両手が手紙を強く握りしめていた。羊皮紙のざらついた感触が、指先に食い込む。冷え切っていた手のひらの中心から、ジワリと熱が広がるのを感じた。
◇
気づけば、ドレスの裾を掴んで厨房の裏手にある作業場へと走っていた。
鼻を突く、獣の生臭い匂い。
積み上げられた未加工の毛皮の山。
「奥様!? そのような場所へ入られては……!」
慌てて止める若いメイドの声を遮り、作業台に置かれていた皮なめし用の薬品瓶を手に取る。
王都の書庫で読んだ知識はある。だが、実際にやるのは初めてだ。
分厚い皮を広げ、刃こぼれした小刀を握る。
冷たい皮の裏側に残る、どろりとした脂肪の感触。指先がべったりと汚れ、生臭さが爪の間に入り込む。
「……くっ」
力を込めて小刀を滑らせるが、皮は硬く、思うように削げない。刃先が滑り、親指の付け根にヒリッとした痛みが走る。
「おやめください、手が荒れてしまいます!」
「いいから、水と灰を持ってきて。あと、ミョウバンの粉も」
「えっ?」
「早く」
メイドが慌てて走り出す。
薬品の調合。
灰と水、それに数種類の植物の根をすり鉢に入れ、すりこぎで潰して混ぜ合わせる。
分量が分からない。記憶を頼りに、少しずつ粉末を落としていく。
シュゥゥ、という微かな音と共に、すり鉢の中で白い煙が上がった。
次の瞬間、ポンッ、というくぐもった破裂音。
「きゃっ……!」
顔のすぐ横で、熱い粉塵が弾けた。
むせるような焦げ臭さ。頬に、ピリッとした痛みが走る。
「奥様!」
駆け寄るメイドを手で制し、ゴホゴホと咳き込みながらもすり鉢を覗き込む。
失敗だ。だが、不思議と嫌な気はしなかった。
冷え切っていた身体の奥底で、何かが熱く燃え始めている。
顔についた煤を、汚れた手の甲で無造作に拭い取る。
もう一度。
◇
夜。
蝋燭の揺れる灯りの中、インク壺にペン先を浸す。
カリカリ、という硬い音が、静かな部屋に響く。
『北方狼の毛皮は、灰汁の濃度が低すぎると腐敗が進みます。ミョウバンと植物の根を、三対一の割合で……』
自分の言葉が、文字となって羊皮紙を埋めていく。
ペンを握る右手の親指と人差し指の付け根が、微かに赤く腫れている。小刀を握り続けたせいだ。
ヒリヒリとした痛みが、脈打つたびに主張してくる。
だが、その痛みが、今はひどく心地よかった。
最後に、一呼吸置いてペンを走らせる。
『ご無事で』
それだけを書き添え、溶けた赤い蝋を落とした。
真新しい封印の印が、ゆっくりと固まっていく。
窓の外では、相変わらず激しい吹雪が窓ガラスを叩いている。
ランプの火を消す直前、煤で汚れ、微かに獣の脂の匂いが染み付いた自分の指先が、小さく震えているのを見た。
◇
すり鉢の爆発から数日。
右の頬に残る微かな熱りはすっかり引き、皮を削いだ小刀のせいで赤く腫れていた親指の付け根も、少し硬い皮膚へと変わっていた。
暖炉の火を細めに見つめながら、その少し硬くなった部分を左手の親指で何度もなぞる。チクリとした痛みはもうない。代わりに、ザラリとした感触が指先に伝わってくる。
コン、コン。
控えめなノックの音と共に、分厚い扉が開いた。
「奥様、また北の前線より書状が届いております」
初老の家令が、銀の盆を恭しく差し出す。その手元を見た瞬間、椅子から腰が浮き上がりそうになるのを必死に堪えた。
背筋を伸ばし、なるべくゆっくりとした動作で羊皮紙を受け取る。
鼻を近づけなくともわかる、乾いた土と鉄の匂い。それに今日は、微かに獣の脂が焦げたような匂いが混ざっていた。
封蝋を割るパキッという乾いた音が、静かな部屋に響く。
急いで開いた羊皮紙には、相変わらず角張った、ひどく急いだような筆跡が並んでいた。
『飛竜の干し肉が石のように硬い。刃も通らない。何か柔らかくして食う方法はないか』
飛竜の干し肉。
王都の書物で読んだことがある。保存食としては極めて優秀だが、乾燥させると文字通り岩のような硬度になり、そのままかじりつけば歯が折れるという代物だ。
前線での食糧事情は、想像以上に過酷なのだろう。
羊皮紙を握る手に、自然と力が入る。
「……厨房へ行きます」
「は? 奥様、しかし本日の昼食の仕込みはすでに……」
「そうではなくて。一番硬い干し肉と、火酒、それに木槌を用意してちょうだい」
「き、木槌、でございますか?」
目を丸くする家令を置いて、豪砂のドレスの裾を乱暴に掴み上げ、廊下へと歩き出す。胸の奥で、トクン、トクンと心臓が早鐘を打ち始めていた。
◇
むせ返るようなアルコールの匂いが、厨房いっぱいに充満している。
目の前の分厚いまな板の上に鎮座しているのは、赤黒く変色した飛竜の干し肉だった。表面はひび割れ、指で叩くとコンコンと、まるで木片のような乾いた音がする。
「奥様、火酒は度数が高すぎます! 引火したらどうなさるおつもりですか!」
料理長が青ざめた顔で叫ぶが、その声は半分しか耳に入っていない。
強い酒の匂いで、鼻の奥がツンと痛む。目尻にじわりと涙が滲んだが、構わず陶器の瓶を傾け、干し肉にドボドボと透明な液体を浴びせかけた。
強い度数の酒が肉の繊維に染み込んでいく、チリチリという微かな音がする。
袖を肘までまくり上げ、白い腕を剥き出しにする。
「貸して」
傍らで呆然としている若い厨房係の手から、肉叩き用の大きな木槌をひったくった。
ずしり、と重い。
細い手首にズンと負荷がかかる。足幅を広げ、床をしっかりと踏みしめた。
「やぁっ!」
振り下ろした木槌が、干し肉に激突する。
ガァン!
「痛っ……!」
硬い肉に弾かれ、凄まじい振動が手首から肘、肩へと一気に突き抜けた。歯の根がガチリと鳴り、手のひらがジンジンと痺れる。
だが、肉の表面にはほんの僅かだが、亀裂が入っていた。
いける。
アルコールで繊維を破壊し、物理的な衝撃でほぐす。王都の書庫で読んだ知識は間違っていなかった。
「も、もう一度!」
ガァン! ガァン! バキッ!
厨房に、令嬢らしからぬ鈍い打撃音が響き渡る。
額から汗が滲み出し、前髪が肌に張り付く。息が上がり、胸が激しく上下する。コルセットが肋骨を締め付け、呼吸のたびにゼイゼイと喉が鳴った。
手のひらの皮が剥けそうに熱い。だが、木槌を振るう手は止めない。
十回、二十回と叩き続けるうち、石のようだった肉は次第に繊維がほぐれ、火酒をたっぷりと吸い込んで柔らかさを取り戻していった。
荒い息を吐きながら木槌を放り出し、ほぐれた肉の欠片を小鍋に放り込む。
香草を少し千切って入れ、火にかける。
ジュゥゥゥッ!
火酒のアルコールが一気に飛び、肉の濃厚な脂の香りと香草の爽やかな匂いが、厨房の空気を一変させた。
唾液が口の中にじわりと広がる。
小鍋から立ち昇る熱気を顔に浴びながら、木槌の振動でまだ微かに震えている自分の両手を見つめた。
手は火酒の匂いと肉の脂で汚れ、ひどく赤くなっている。
だが、熱い。生きているという実感が、指先の末端まで血を巡らせていた。
◇
数日後。
いつものように銀の盆に乗せられてきた手紙には、あの時よりも強い焦げた匂いが染み付いていた。
封を切り、羊皮紙を開く。
そこには、インクが飛び散るほどの勢いで、たった二行だけが書かれていた。
『兵たちが鍋の底まで舐める勢いで平らげた。見事な知恵だ。
リリアナ、君は天才か』
――リリアナ。
呼吸が、ふっと止まった。
文字の輪郭を、視線が何度も何度もなぞる。
「リリアナ」
「君」
代用品でも、辺境伯夫人でもなく。
ただの、私。
鼓動が、ドクン、ドクンと耳の奥で激しく鳴り始める。
顔の中心に一気に血が上り、頬が火を吹くように熱くなった。息を吸い込もうとしても、喉の奥がキュッと締まってうまく空気が入ってこない。
目の前がジワリと滲む。
瞬きをすると、羊皮紙の上にポタリと透明な雫が落ちた。
インクの一部が微かに滲んでいく。
慌てて手の甲で目元を乱暴に擦る。
必要とされた。私の名前を呼んで、私の知恵を求めてくれた。
胸の奥で燻っていた小さな熱が、一気に燃え上がり、全身の血管を駆け巡るのを感じた。手紙を両手で包み込むように胸に押し当て、小さく丸まる。
分厚い羊皮紙のざらついた感触と、微かな煙の匂いが、空っぽだった身体の隙間を埋め尽くしていく。
◇
それからの日々は、目まぐるしく過ぎていった。
手紙のやり取りは、三日に一度の頻度になった。
『雪中で火を絶やさない方法』『湿気た小麦粉の活用法』『錆びついた剣の手入れ』。
次々と送られてくる無骨な問いに答えるため、城の厨房や工房、書物庫を走り回るのが日課になった。
ドレスの裾が汚れるのも構わず、竈の灰を被り、薬草をすり潰し、油まみれになった。
家令やメイドたちの戸惑う視線は、いつの間にか呆れを通り越し、微かな敬意を含んだものへと変わっていった。
夜の帳が下りた寝室。
暖炉の前で小さなスツールに腰掛け、ランプの灯りに自分の両手を透かして見る。
右手の親指の付け根、人差し指の側面、そして手のひらの中心。
真っ白で滑らかだった肌のあちこちに、黄色く硬いタコができている。
左手の指の腹で、その一番大きなタコをゆっくりと撫でた。
ザラリ、とした硬い感触。強く押しても、痛みはない。
鼻を近づけると、高価な香水の匂いなど微塵もしない。代わりに、いぶした木屑の匂いと、微かな香草の青臭さが、皮膚の奥深くまで染み付いている。
硬くなった手のひらを、ギュッと強く握り込む。
関節がパキッと小さな音を立てた。
皮膚の摩擦が、確かな熱を生む。
◇
窓ガラスを、硬いものが激しく叩いた。
風の音ではない。ドスッ、という鈍い衝突音。
分厚いカーテンを引き開けると、窓枠に一羽の軍用鷹がしがみついていた。本来なら美しいはずの茶褐色の羽根は、黒い灰と、赤黒くこびりついた何かでべったりと汚れている。
急いで窓を開け放つと、氷点下の風と共に、ひどく焦げた匂いと、むせ返るような鉄の匂い——血の匂いが部屋に雪崩れ込んできた。
鷹の脚に結びつけられた小さな金属製の筒。それを外そうとする指先が、ガタガタと情けないほどに震える。
筒の表面にも、べっとりと乾いた血がこびりついていた。
中から引きずり出した羊皮紙の切れ端は、これまでのような大きなものではない。手のひらに収まるほどの、ちぎられた紙片。
『何か、美味いものの話をしてくれ』
たった一文。
いつもの「どうすればいいか」という問いすらない。
文字の線はひどく乱れ、かすれ、所々に黒い土汚れがこすり付けられている。
限界なのだ。
極寒の最前線。刃と血と泥にまみれ、生きるか死ぬかの境界線で、あの大きな背中の男が、必死にこちらへ手を伸ばしている。
冷水に突き落とされたように、全身の毛穴が粟立った。心臓が早鐘を打ち、コルセットの下で肋骨が軋む。息を吸い込もうとしても、血と灰の匂いが鼻腔を塞いで、浅い呼吸しかできない。
「……っ!」
ドレスの裾を鷲掴みにし、暖炉の前のスツールを蹴り倒す勢いで立ち上がった。
◇
厨房の扉を乱暴に押し開ける。
驚いて振り返る料理人たちを押し退け、一番大きく、分厚い鉄鍋を竈に引きずり出した。
「奥様!? 何を……」
「火を! 竈の火を最大にして!」
叫びながら、貯蔵庫から根菜と、脂の乗った分厚い肉の塊を両腕に抱え込んで作業台に放り出す。
身体の芯から温まるもの。血肉となり、生きる気力を力ずくで引きずり出すような、濃厚で強い匂いのするもの。
タコの固まった右手で小刀を握り、肉を大きく、乱暴に切り分ける。
ドンッ、ドンッ!
まな板を叩く重い音が、自分の乱れた心音を上書きしていく。
熱した鉄鍋に、香草とニンニク、それに削った岩塩を放り込む。ジュワァァァッ! という爆ぜる音と共に、強烈な香りが厨房の空気を支配した。そこへ切り分けた肉と根菜を叩き込み、強い火酒をドボドボと注ぐ。
アルコールが炎を巻き上げ、熱気が顔を激しく打つ。
前髪が汗で額に張り付くのも構わず、重い木のへらで鍋の底を力任せに掻き回す。
グツグツと煮え立つ濃い茶色の液体。立ち昇る湯気の中に、スパイスと肉の脂、そして土の中で育った野菜の甘い匂いが混ざり合う。
息が荒くなる。熱い。
震える左手で羊皮紙の切れ端を握りしめ、右手で木炭を掴むと、竈の横の壁に直接、今鍋に放り込んだ材料と手順を殴り書きにした。
後で清書して送る。いや、今すぐこの匂いごと、あの過酷な戦場へ送り届けなければ。
鍋の底から立ち上がる熱気が、凍りつきそうだった胸の奥を無理やりこじ開け、ドクドクと熱い血を全身に巡らせていく。
◇
その数日後だった。
城の広間。分厚い絨毯の上に、泥と雪にまみれた重い軍靴の音が響いた。
前線からの使者。
だが、手紙を持った鳥ではない。ボロボロの甲冑を引きずるようにして現れた若い騎士が、ふらつく足取りで進み出て、その場にガクンと膝をついた。
「……防衛線が、突破されました」
嗄れた声。
広間の空気が、ピシッと凍りつく音がした。
騎士の震える両手が、汚れた麻布に包まれた「長いもの」を、ゆっくりと大理石の床に置いた。
布がはらりと解ける。
現れたのは、半ばから無残に折れ曲がった、見覚えのある巨大な両刃剣。
柄の部分には、べっとりと黒ずんだ血が乾燥してこびりついている。鉄の匂い。あの夜、頭を撫でてくれた大きな手から漂っていたのと同じ、古い血の匂い。
「閣下の行方は、現在も……不明、です」
その言葉が、耳の奥で遠い反響音のように響いた。
キィィィン、という耳鳴りが視界の端を白く飛ばす。
膝から力が抜け、冷たい大理石の床に崩れ落ちた。ドレスの豪砂が擦れる音が、ひどく無機質に聞こえる。
折れた剣の刃先に、無意識に手を伸ばしていた。
氷のように冷たい鋼。ギザギザに欠けた刃の断面が、タコの固まった親指の腹に食い込む。
チリッとした鋭い痛みと共に、赤い血の玉がぷっくりと膨らんだ。
血の匂い。鉄の冷たさ。
息が止まる。肺の中の空気がすべて真空に吸い出されたように、声が出ない。
ただ、折れた剣の重さだけが、そこにあった。
◇
それからの記憶は、酷く曖昧だ。
泣くことはしなかった。涙を流せば、床に転がった鉄の塊が「死」を証明する墓標になってしまう気がしたからだ。
翌朝も、その次の朝も。
ただ無言で厨房に立ち、あの分厚い鉄鍋を火にかけ続けた。
ドン、ドン、ドン。
根菜を刻む単調な音だけが、城の静寂を切り裂く。
香草を炒め、肉の脂を溶かし、グツグツと濃厚な茶色の液体を煮詰める。
「奥様、もうお休みに……」
メイドの震える声を、木へらを鍋の縁に打ち付ける硬い音で遮る。
帰ってくる。あの男は、美味いものの話を聞きたがっていた。鍋の底を舐めるように平らげる兵士たちがいるのだ。熱い煮込み料理を作って待っていなければならない。
立ち昇る湯気で視界が滲む。玉ねぎの刺激臭が目を刺すからだ、と自分に言い聞かせ、袖口で乱暴に目元を擦った。
袖口には、いつの間にか煤と肉の脂が黒く染み付いていた。
◇
城門の前に、王都の紋章を掲げた馬車が到着したのは、折れた剣が届いてから十日目のことだった。
厨房の熱気の中にいた背中に、冷ややかな声が突き刺さる。
「……相変わらず、薄汚い真似事をしているのね」
振り返ると、そこには豪奢な絹のドレスを纏った母と、仕立ての良いフロックコートを着た父が立っていた。
むせ返るような、甘ったるい薔薇と麝香の香水。
王都の匂いが、厨房の土とスパイスと肉の匂いを土足で踏みにじるように侵食してくる。
胃の底が、グルンと不快な音を立てて波打った。
「辺境伯は名誉の戦死を遂げた。我が家にとっても鼻が高い」
父の磨き上げられた革靴が、石畳の上をカツカツと鳴らす。
「お前は『悲劇の英雄の未亡人』だ。王都の貴族どもが、こぞって同情と金を出してくる。次の嫁ぎ先は、すでに王家筋で話を進めている」
代用品。駒。
ただの飾り物としての価値。
父の唇の端が、浅ましく吊り上がるのが見えた。
母が、扇子で鼻を覆いながら顔をしかめる。
「さあ、さっさとその汚い服を脱いで馬車に乗りなさい。そんな獣臭い場所、一秒でも早く立ち去りたいわ」
甘い香水の匂いと、人間を物としてしか見ていない冷たい視線。
右手に握った木のへらに、ギリッと力がこもる。
親指の付け根のタコが、へらの柄に強く押し付けられ、白く変色する。
全身の血液が、足元から頭頂部へ向かって一気に沸騰するような感覚があった。
後ろの竈では、鉄鍋の中の煮込み料理がボコッ、ボコッと熱い泡を立てている。その圧倒的な生命の匂いが、背中を力強く押し上げていた。
「……帰って」
腹の底から、自分でも驚くほど低く、地鳴りのような声が出た。
喉の奥がビリビリと震える。
「なんですって?」
目を丸くする母に向けて、煤と油で汚れ、タコだらけになった両手を突きつける。
「私は、ここで待っているの! あの人が帰ってきた時、すぐに熱いものを食べさせられるように!」
王都の書庫に閉じこもっていた、ただの空っぽな令嬢の声ではない。
灰を被り、火酒のアルコールを吸い込み、肉を叩割って生み出した、私自身の声。
「正気か! 剣が折れていたのだぞ! 死んだ男を待って何になる!」
父が顔を真っ赤にして怒鳴りつける。
だが、その怒鳴り声すら、今はひどく薄っぺらく聞こえた。
「死んでいません!」
手に持った木のへらから、熱い肉のしずくがポタリと石畳に落ちる。
一歩、前へ踏み出す。
分厚い靴底が床を叩く。その瞬間、厨房の熱気と強烈なスパイスの匂いが、両親の甘い香水を完全に吹き飛ばした。
「私には、帰りを待つ夫がいます! 代用品でも未亡人でもない、この鍋の番をするのは私です! さっさと出て行って!!」
咆哮に近い叫び声が、石造りの天井に反響する。
気圧された両親が、信じられないものを見るような目で後ずさる。
「……狂ったか、出来損ないが」
父の吐き捨てるような言葉。
踵を返し、足早に立ち去る二人の背中を、ただ静かに見送った。
バタン、と遠くで重い扉が閉まる音がする。
厨房に残されたのは、荒い呼吸を繰り返す自分の微かな吐息と、背後で力強く煮え立つ鉄鍋の音だけだった。
へらを握る手が、小刻みに震えている。
鼻の奥に、まだあの鉄と血の匂いが微かに残っていた。
◇
両親を乗せた馬車の車輪が雪を噛む音が、分厚い石壁の向こう側へと遠ざかっていく。
厨房に残されたのは、竈の火がパチパチとはぜる音と、分厚い鉄鍋の中で茶色い液体が重くボコボコと煮え立つ音だけだった。
握りしめていた木のへらを、作業台の上にゆっくりと置く。
指先が、小刻みに震えていた。怒りなのか、極度の緊張から解放されたからなのか、自分でもわからない。ただ、コルセットに締め付けられた胸の奥が、かつてないほどの熱を持ってドクドクと脈打っているのを感じていた。
タコだらけになった手のひらを、熱いお湯で濡らした布で乱暴に拭う。獣の脂と、香草の強い匂いが、皮膚の奥深くまで染み付いている。王都の香水の匂いは、すでにこの部屋のどこにも残っていなかった。
コン、コン、コン。
不意に、厨房の裏口にある頑丈な樫の木の扉が叩かれた。
食材を運び込むための扉だ。こんな吹雪の日に、業者が来るはずもない。
警戒しながら閂を外し、扉をわずかに開ける。
ヒュウウッ、と耳をつんざくような風切り音と共に、氷の粒が混じった冷気が厨房の熱気の中へ雪崩れ込んできた。
顔をしかめて目を細めた視界の先に、雪まみれの黒い外套が立っていた。
「……突然の訪問、お許しください」
風の音に負けない、ひどく低く通る声。
外套のフードを深く被った男が、扉の隙間に分厚い革靴をねじ込んでいた。城の衛兵ではない。その胸元には、二本の交差した剣と鷹をあしらった銀の徽章が鈍く光っている。軍の、情報部の紋章。
「奥様に、直接お渡ししなければならないものがあり、極秘に参りました」
男は周囲の料理人たちを鋭い視線で牽制すると、無言で厨房の隅、薄暗い貯蔵庫の入り口付近へと顎で促した。
◇
貯蔵庫の冷たい空気の中、男は雪で濡れた革手袋をゆっくりと外した。
懐から取り出されたのは、油紙に厳重に包まれた長方形の束。革の紐で無造作に、だがひどく固く縛られている。
「……これは?」
「前線から送られてきた、辺境伯の手紙の『原本』です」
原本。
その言葉の意味が理解できず、瞬きを繰り返す。
男から差し出された油紙の束を受け取る。ずしりと重い。これまで盆に乗せられて運ばれてきた、あの一枚きりのちぎれた羊皮紙とは比べ物にならない質量。
「前線からの書状は、軍事機密の漏洩を防ぐため、我々情報部の魔術師が一度すべて目を通し、検閲を行います」
男の声は、感情の起伏を一切感じさせない無機質なものだった。
「辺境伯の書状には、部隊の正確な配置、負傷兵の数、防衛線の脆弱な箇所など……敵に渡れば一国が傾くほどの致命的な機密情報が、なぜか奥様への言葉と『同じ紙』に、一切の暗号化もされずに書き殴られておりました」
男が、ほんのわずかに、呆れたような、困ったようなふうに眉間を揉む。
「そのため、情報部の方で機密部分を黒塗りし、あるいは奥様への『用件』のみを別の紙に書き写して再構築し、城へお届けせざるを得なかったのです。……あの方は、戦場では鬼神の如き強さを誇りますが、手紙の書き方というものを全くご存知ない」
冷たい手から、油紙の束へ視線を落とす。
革の紐を解く指先が、もどかしいほどに強張っていた。
油紙を広げると、中から現れたのは、見覚えのある荒々しく角張った筆跡が、端から端までびっしりと埋め尽くされた大判の羊皮紙だった。五枚、いや六枚はある。
一番上の紙。あの「飛竜の干し肉」の時のものだ。
『兵たちが鍋の底まで舐める勢いで平らげた。見事な知恵だ。リリアナ、君は天才か』
ここまでは、以前読んだ通り。
だが、その下。黒いインクで乱暴に引かれた線の後に、文字はさらに強い筆圧で続いていた。
『あの石みたいな肉を、どうやって食えるようにしたんだ。怪我はしていないか。強い酒の匂いでむせて、厨房で泣いていないか。君の細い腕に、城の重い木槌を振るわせたのかと思うと、自分がひどく情けなくなる。俺はなんて馬鹿なことを頼んだんだ。今すぐ帰って、君の手に傷がないか確かめたい』
息が、ふっと止まった。
インクの染み込んだ文字の群れが、網膜を焼き付けるように飛び込んでくる。
『君の知恵が俺たちを生かした。だがそれ以上に、王都から来たばかりの君が、俺の不格好な手紙に応えてくれたことが、信じられないくらい嬉しい。君が用意してくれた毛皮が、凍える夜にどれほど温かかったか。あの夜、君を抱きしめずに立ち去った己の臆病さを、今はひどく後悔している』
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
瞬きをすると、羊皮紙の上にポタリ、と透明な水滴が落ちた。
慌てて次の紙をめくる。
湿気た小麦粉の時の手紙。剣の錆落としの時の手紙。
そのどれもが、軍の機密情報(『第三小隊の右翼が崩れた』『補給線が絶たれた』等)の合間に、息もつかせぬ勢いで、こちらの身体を気遣う言葉、不器用すぎる称賛、そして「会いたい」「触れたい」という生々しいほどの熱情が、乱暴な文字で書き殴られていた。
代用品の扱いではなかった。
遠く離れた極寒の地で、血と泥にまみれながら、あの男は真っ直ぐにこちらへ手を伸ばし、その細い指先を必死に探り当てようとしていたのだ。
「……そして、これが最後の一通です」
情報部の男が、束の一番下から、ひどく汚れた小さな紙片を指差した。
血と灰で汚れ、端がちぎり取られていたあの日の手紙の、検閲前の姿。
そこには、インクの掠れた、今にも消え入りそうな文字でこう記されていた。
『何か、美味いものの話をしてくれ。そうでないと、君の匂いを忘れてしまいそうだ。血の匂いしかしないこの場所で、君が作ってくれた毛皮の匂いと、リリアナという名前だけが、俺の支えだ。
生きて帰る。必ず、君の待つ城へ』
ヒュッ、と喉の奥から奇妙な音が漏れた。
胸の奥でせき止められていた何かが、一気に決壊する音がした。
羊皮紙を束ごと両手で強く握りしめ、顔の前に押し当てる。
ザラリとした紙の感触。乾いたインクの匂い。微かに残る、あの土と鉄と獣の脂の匂い。
「あ……う、あ……っ」
声にならない嗚咽が、喉を塞いだ。
タコの固まった硬い指先が、濡れた頬を強く擦る。
涙が止まらない。鼻の奥がツンと痛み、視界は完全に涙の膜で覆われ、熱い雫が次々と胸元へこぼれ落ちていく。
生きて帰る。彼自身が、そう書き残している。折れた剣が届こうが、両親が何と言おうが、この乱暴な文字の熱だけが、真実だった。
冷たい貯蔵庫の床に、膝から崩れ落ちる。
ドレスの裾が冷たい石畳に広がるのも構わず、手紙の束を胸に強く抱きしめ、子供のように肩を震わせて泣きじゃくった。
背後の厨房からは、あの分厚い鉄鍋の中で煮込み料理がボコッ、ボコッと力強い音を立てて熱い湯気を上げ続けている。
インクの匂いと、濃厚なスパイスの匂いが、涙でぐしゃぐしゃになった顔の周りで、ひどく優しく混ざり合っていた。
◇
荒れ狂う猛吹雪は、夜が明けても一向に収まる気配がなかった。
分厚い石壁を震わせるような風の咆哮が、厨房の換気口から絶え間なく響き続けている。
竈の前は、肌を刺すような熱気に満ちていた。
一晩中火の番をし続けたせいで、顔の表面はカラカラに乾き、反対にドレスの背中にはじっとりと汗が張り付いている。
ドロリ、と重い音を立てて、巨大な鉄鍋の中で茶色い液体が気泡を割った。
濃厚な獣の脂が完全に溶け出し、角切りにした根菜は形を崩してスープと一体化している。ニンニクと強い香草の匂いが、むせ返るほどの密度で空間を満たしていた。
タコだらけになった右手で木のへらを握り、鍋の底が焦げ付かないように、ただひたすらに円を描き続ける。
親指の付け根の皮が剥け、ヒリヒリとした痛みが絶え間なく主張してくる。泣き腫らしたまぶたは重く、視界は熱気と湯気で常に白く霞んでいた。
それでも、手は止めない。
あの不器用で乱暴な文字が、胸の奥でずっと燃え続けている。
『生きて帰る』
その言葉の熱だけが、疲労で鉛のように重くなった両腕を動かす原動力だった。
ガシャァァァン!!
不意に、城の正面玄関の方角から、何かが乱暴に打ち砕かれるような凄まじい轟音が響いた。
ビクッと肩が跳ね、握っていた木のへらを鍋の中に落としそうになる。
怒号。
複数の足音。
衛兵たちが慌ただしく走り回る、金属の擦れる音。
敵襲か。それとも。
胸の奥で、心臓がドクン、と痛いほどに大きく跳ねた。
鍋の火を少しだけ弱め、エプロン代わりにして汚れていた布を乱暴にむしり取る。ドレスの裾を両手で鷲掴みにし、厨房の重い扉を肩で押し開けた。
冷たい廊下の空気が、火照った顔面に叩きつけられる。
息を吸い込むと、肺の奥まで凍りつくような冷気が流れ込んできた。熱気から一転した急激な温度差にむせながらも、冷たい石造りの床を蹴って走り出す。
コルセットに締め付けられた肋骨が悲鳴を上げ、喉の奥からヒュー、ヒューと浅い呼吸音が漏れる。
角を曲がり、大広間へと続く巨大な両開きの扉の前に飛び出した。
◇
広間の扉は、両側とも完全に開け放たれていた。
外の猛吹雪が、容赦なく城の中に吹き込んでいる。美しかった大理石の床には、泥と雪がべっとりとこびりつき、黒い足跡が点々と続いている。
その足跡の先。
広間の中央に、見上げるほど巨大な影が立っていた。
全身を覆う鋼の甲冑は、もはや元の銀色を保っていない。無数の深い刃こぼれ、ひしゃげた肩当て、そして表面を覆い尽くす赤黒い泥と、凍りついた血の塊。
背中に羽織っていたはずの厚手の外套は半分以上ちぎれ飛び、ボロ切れのように風に揺れている。
周囲を取り囲む家令や衛兵たちが、息を呑んで硬直していた。
呼吸が、完全に止まった。
足の裏が床に縫い付けられたように動かない。瞬きすら忘れて、その泥だらけの巨大な背中を見つめる。
男が、ゆっくりと振り返った。
兜はとうに失われ、乱れた短い髪には白い雪がこびりついている。
頬には新しい切り傷が走り、鋭い双眸の下には濃い疲労の隈が刻み込まれていた。唇の端が切れ、そこから一筋、赤い血が顎を伝って落ちている。
泥と、鉄と、生臭い血の匂いが、広間の冷気の中で圧倒的な存在感を放っていた。
男の視線が、広間の入り口で立ち尽くす姿を捉える。
血走った鋭い目が、ほんのわずかに、信じられないものを見るように見開かれた。
「……」
嗄れきった喉から、言葉にならない音が漏れる。
男の大きな胸が、激しく上下した。
ガシャン、と重い音を立てて、男が一歩、こちらへ足を踏み出す。
その瞬間、縫い付けられていた足の裏が爆発したように床を蹴った。
足がもつれるのも構わず、ドレスの裾を踏みつけながら突進する。
残りの距離がゼロになる。
ブレーキをかける余裕などなく、その泥だらけの分厚い胸板に、顔面から思い切り激突した。
ゴツッ、という鈍い音。
鼻っ柱と額に、鋼鉄の硬い感触が容赦なく叩きつけられ、ジーンと痺れるような痛みが走る。
氷のように冷たい鉄板。
むせ返るような、強烈な血と汗と泥の匂い。
痛い。冷たい。臭い。
なのに、その極寒の甲冑のすぐ裏側から、ドクン、ドクンという巨大な心音と共に、火傷しそうなほどの圧倒的な熱が伝わってきた。
「あ……う、あ……っ」
喉の奥から、しゃくり上げるような醜い嗚咽が漏れた。
突き出した両手で、男の背中側にある冷たい甲冑の隙間を必死に探り、革のベルトを力任せに握りしめる。
男の身体が、一瞬だけビクッと硬直した。
躊躇うような間。
やがて、凍りつくほど冷たい鋼の腕が、背中をぐるりと包み込んだ。
ミシリ、とコルセットが音を立てるほどの、ひどく不器用で、骨が折れそうなほど強い力。
「……帰った」
耳元で、地鳴りのような嗄れ声が響く。
首筋に、男の冷え切った吐息が当たる。
その声を聞いた瞬間、膝から完全に力が抜け、男の胸にすがりつくように体重を預けた。
ボロボロと、大粒の涙が溢れ出す。顔を押し当てた甲冑の泥が、頬にべったりとこすりつけられるのも構わず、ただ泣きじゃくった。
「お前……鼻の頭が、真っ赤だぞ」
背中を包んでいた片腕が離れ、ゴツゴツとした巨大な手が、頬の涙を拭おうと伸びてくる。
その手を、両手で空中で乱暴に捕まえた。
氷のように冷え切った、分厚い指。
無数の新しい切り傷が走るその手のひらを、自分の両手でギュッと強く包み込む。少しでも熱を分け与えようと、摩擦を起こすように強く握りしめた。
男の視線が、自分を包み込んだその小さな手に落ちる。
「……」
男の目が、大きく見開かれた。
指先で、皮の剥けた親指の付け根や、硬く変色した手のひらのタコを、ひどく慎重になぞる。
「手が……。こんなに、硬く……」
震える声だった。
戦場で敵を両断してきた大男が、ほんの小さなタコの感触に、今にも泣き出しそうな顔で顔を歪めている。
「当たり前でしょう……」
鼻水をすすりながら、嗄れた声で言い返す。
「あなたが、あんな無茶苦茶な手紙ばかり、送ってくるから……っ」
男の喉の奥から、ふっ、と短く空気が抜ける音がした。
それは、微かな笑い声のようでもあり、安堵の吐息のようでもあった。
男は包み込まれていた手を強引に引き抜き、今度は両手で、こちらの汚れた顔ごと頭をがっしりと抱え込んだ。
あの夜、ただ一度だけ撫でて立ち去った時とは違う。
逃がさないとでも言うように、髪の結い目を乱し、耳の裏の柔らかい皮膚を硬いタコだらけの指の腹で強く擦る。
「……城中に、いい匂いが充満している」
男の鼻先が、髪に埋もれるように押し付けられる。
「腹の底が鳴るような……強烈な、肉とスパイスの匂いだ」
「まだ、煮込んでる途中です。でも、熱いから。すぐに食べられるから……」
「ああ」
深く、重い息継ぎ。
「ずっと、この匂いを嗅ぎたかった」
男の顔が、首筋に深く埋められる。
ひんやりとした唇の感触と、チクチクと肌を刺す無精髭の摩擦。
冷え切った大理石の床の上、開け放たれた扉から猛烈な吹雪が吹き込み続けているというのに、身体の中心から噴き出す熱で、頭の芯がクラクラと溶けそうだった。
甲冑の隙間から漂う鉄と血の匂いが、廊下の奥から流れてくる濃厚な煮込み鍋の匂いと混ざり合う。
男の背中に回した右手の親指のタコが、ひしゃげた鋼の窪みにピタリとはまる。その冷たい金属の向こう側で、ドクン、ドクンという力強い鼓動が、自分の乱れた心音と全く同じ速度で、重く、熱く、掌の皮膚を打ち続けていた。




