第九話「違うってば!」
領主館の玄関広間は、もう収拾がつかないことになっていた。
アデリアが兄レオナルドに抱きしめられたまま、恐る恐る顔を出すと、そこには……数百人の領民が、ぎっしりと詰まっていた。老人も、子どもも、農夫も、鍛冶屋も、薬草摘みの娘たちも。全員が一斉に膝をつき、両手を胸の前で組んで、深く、深く頭を垂れている。
「「「聖姫様、お帰りなさいませーーーっ!!」」」
地鳴りのような歓声と、涙と、祈りの声が重なって、館全体が震えた。アデリアは目を丸くして、完全に固まった。
「え……?ええっ!?」
「聖姫様ぁぁぁ!お姿を見せてくださって、ありがとうございますぅぅ!」
「生きてお帰りになられた……!神様、ありがとうございますぅ!」
子どもたちが花束を抱えて駆け寄ろうとするのを、大人たちが必死に止める。
老いた司祭ベルドは杖を地面に突いたまま、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら土下座している。
「聖姫様……!あなたこそ我らの光……!」
アデリアは慌てて手を振った。
「ち、違うんです!本当に私はただの……ただの領主の娘で……!」
「ご謙遜をっ!!」
領民がさらに声を揃えて叫ぶ。
もはや何かの儀式である。兄レオナルドは妹を背中に庇いながら、苦笑いで肩をすくめた。
「……言っただろ?お前がいなくなってから、この領地は“聖姫様教”みたいになってるって」
「に、兄さままで……!」
アデリアは真っ赤になりながら、必死に首を横に振る。
「みんな、ほんとに!私、そんな大層なものじゃ……!」
そのとき、小さな女の子が母親の手を振りほどいて駆け寄ってきた。七つか八つくらい。頬に涙の跡を残したまま、アデリアのドレスをぎゅっと掴む。
「聖姫様……!あのね、私、去年熱が出て死にそうになったとき、聖姫様が作ってくれた薬で助かったの!お母さんが言ってた、『あれは聖姫様の奇跡だ』って!」
女の子はぽろぽろと涙をこぼしながら、震える声で続けた。
「だから……だから、もうどこにも行かないでください!ずっと、ずっとここにいてください!」
周囲の領民が
「そうだ!」
「お願いします!」
「我らをお見捨てなく!」
と声を重ねる。アデリアは言葉を失い、ただただ、胸が熱くなるのを感じた。これは……信仰?それとも、ただの……
「みんな……」
彼女は震える手で女の子の頭をそっと撫でた。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
その瞬間、ざぁぁぁっ……領民たちが一斉に涙を流し始めた。
「聖姫様が……我らの声をお聞きくださった……!」
「奇跡だ……!これは奇跡……!」
「……違うってば!」
アデリアは顔を真っ赤にして叫んだが、誰一人として聞いていなかった。遠くでミレイユが、両手で顔を覆いながら絶叫している。
「姫様ぁぁぁ!もう完全に神様になってますぅぅぅ!!」
ターヴァ領の“聖姫教”は、この日、正式に開宗した。アデリアの同意無しに。
アデリアはまだ知らない。
自分がただ優しく生きてきただけなのに、なぜここまで愛されることになったのかを。そして、これから先、この“信仰”がどれほど大きな力になっていくのかを。




